琴音と鈴 ~心理学実験が目覚めさせたもう一人の私~

枢名ゆい

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最初の誘導

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火曜日の午後、私は高瀬教授の研究室がある建物の地下にある実験室に向かった。
廊下は静寂に包まれており、足音だけが響いていた。

「佐倉さん、お疲れさまです」

実験室の前で教授が待っていてくれた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それでは中へどうぞ」

実験室は思っていたよりも小さく、防音設備が施されているようだった。壁には吸音材が貼られ、外の音は一切聞こえない。部屋の中央には椅子が一つ置かれ、その向かいに教授の席がある。

「まず、簡単な説明をさせていただきますね」

教授は穏やかな口調で話し始めた。

「今日は導入セッションです。リラックスした状態で、いくつかの質問にお答えいただくだけです」
「はい、分かりました」

私は指定された椅子に座った。クッションが効いていて座り心地が良い。

「それでは始めましょう。まず、深呼吸をしてリラックスしてください」

言われた通り大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。心地よい香りが鼻腔を通り抜けていく。不思議な感覚だけど悪くない。
気づくとうっすら音楽も鳴っていることに気づく。吸音材もあるためか、不思議な旋律が体を包み込むようだった。

1分?5分?ゆっくりと深呼吸をしていると、時間の感覚も溶けていくようだった。

「とても良いですね」
「えっ……っへっ?」

突然かけられた声に思わず間の抜けた声が出てしまう。呼吸に集中しすぎて、ぼーっとしていたようだ。

「今日からは、実験中は『鈴』と呼ばせていただきます。これも実験の一環ですので」
「鈴……ですか?」
「はい。心理的距離を測定するための手法の一つです。問題ありませんか?」
「はい、大丈夫です」

確かに心理学実験では被験者に仮名を使うことがあると聞いたこともある。

「それでは鈴さん、もう少し深くリラックスしてください。私の声だけに集中して」

リラックスしているためか教授の声がなぜかいつもより心地よく感じられた。講義で聞く声とは少し違う、優しく包み込むような響きだった。

「それでは私の言うことを復唱してください」
「はい」
「鈴さんは今、とても安全で快適な場所にいます。何も心配することはありません」
「鈴さんは今、とても安全で快適な場所にいます。何も心配することはありません」
「違います。鈴さんはあなたですよ」
「あ……はい。『私』は今、とても安全で快適な場所にいます。何も心配することはありません」

無意識に言い直す言葉さえも心地よく感じる。少しずつ教授の声が遠くから聞こえはじめ、自分の意識の境目がぼやけていく感覚が広がっていく。

「今から簡単な質問をします。思ったことを素直に答えてください」
「はい……」

自分の声が、いつもより小さく聞こえた。

「鈴さんは普段、どのような時に一番リラックスできますか?」
「お風呂に入っている時……でしょうか」
「なるほど。他には?」
「恋人と一緒にいる時……」

なぜか、普段なら恥ずかしくて言えないようなことも、自然に口から出てきた。

「恋人との関係はいかがですか?」
「とても……大切な人です」
「身体的な関係についてはどうですか?」

その質問に、一瞬戸惑った。

「普通……だと思います」
「普通とは?」
「月に……数回程度……」
「満足していますか?」
「……はい」

本当は、時々物足りなさを感じることもあったけれど、そんなことを考える自分が悪いような気がしていた。でも今は、なぜかそんな気持ちも素直に話せそうな気がした。
そのあともいくつか質問をされ、その質問に淡々と答える自分がいた。

「鈴さんは正直で素晴らしいですね」

そんな教授の褒め言葉に、胸の奥が温かくなった。

「今日はここまでにしましょう。ゆっくりと意識を戻してください」

教授の声で、意識が現実に引き戻された。先ほどまで感じていた安心感が薄れていき、頭が徐々に冴えてくる。しかし不思議と不快な感じはしなかった。むしろ心が軽くなっていくような感覚さえあった。

「いかがでしたか?」
「とても……リラックスできました。なんだか夢を見ているようでした」

先ほどの心地よい気持ちを反芻する。時計を見ると1時間ほど経っていた。

「それは良かった。次回は木曜日の同じ時間でお願いします」
「はい、ありがとうございました」

実験室を出て、大学の廊下を歩いていると、心だけでなくなんとなく体が軽やかに感じられた。でも、同時に少し違和感もあった。
トイレに立ち寄った時、ふと下着の感触が気になった。

(あれ……?)

下着が湿っているような気がした。実験中は特に何も感じなかったのに。

(気のせいかな……)

私はその違和感を振り払うように、急いでトイレを出た。

その夜、直樹とデートをした。いつものように映画を見て、カフェでお茶をして、他愛のない話をした。でも少しだけ物足りない気がしてしまった。いつもはもっと、胸がドキドキするような時間を過ごしていたはずなのに。

「そうだ。前話してた旅行。ゆっくり温泉旅行でも行かない?」
「賛成!さっすが直樹」
「ほら、琴音も論文で図書館に入り浸ってるだろ?たまには羽伸ばさないと、ストレス溜まるぜ」
「あはは、ありがと」
「じゃあ決まりだな。宿は俺が予約しておくよ」
「うん、よろしく」

(でも……)

こうして雑談しているのも楽しいけど、なにか物足りないような気がする。どうしてだろう。

「琴音、聞いてる?」
「っへ?なんだっけ?」
「やっぱ疲れすぎだって。行きたい温泉あるかなーって」
「あはは、ごめんごめん」

いけない。考え事をしてしまってたみたいだ。せっかくのデートなのに申し訳ない。
その後もとりとめのない話をしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。

「ほんとありがとね。楽しかった」
「あぁ。まぁ無理せず休めよ」
「ん、わかった」

先ほど感じた小さな違和感は少しずつ大きくなっていた。

家に帰ってベッドに入っても、なかなか眠れなかった。頭の中で、教授の声が繰り返し響いている。

『鈴さんは正直で素晴らしいですね』

その言葉を思い出すたびに、胸の奥が温かくなった。そして同時に、体の奥の方がうずくような感覚があった。

(なんで……?)

私は枕に顔を埋めた。
きっと疲れているだけだ。明日になれば、いつもの調子に戻るはず。
ゆっくり深呼吸をして、目を閉じた。次第に眠気が訪れ、私は深い眠りに落ちていった。
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