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Karte.4 児童精神医学の可不可-他人

児童精神医学の可不可-他人 15

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『帰れ――っ!』
 何度も、何度も、その春名の言葉が甦る。その度に苦しくなる胸をごまかすように、笙子はブランデー・グラスを傾けた。
 そう。以前にも、今日と同じようなことがあった。あの時は今日とは逆で、仁が笙子を怒鳴りつけた。春名がコンビニエンス・ストアでの事故を見て、突然真っ蒼になって、口の中で何かを呟き始めた時――。
『――。何でもありません。先生は疲れてるんです。だから貧血を。――帰りましょう、先生』
『ちょっと、レンくん、彼は――』
『先生に触らないでくださいっ!』
『――』
『すみません……。先生は本当に疲れているんです』
 そう言って、仁は、春名をかばうように、背中を向けた。
 そして、今日は……。
『――帰ってくれ』
『え? でも、これは――』
『帰れ――っ!』
『――』
『頼む……。帰ってくれ……』
 彼らは互いを守り合い、他人など入り込めない信頼で結ばれている。――そう。誰にも入り込むことなど出来ない、深い絆で結ばれているのだ……。
『……。結婚の意思はない。君とでなくとも、誰とも』
 以前、春名は笙子を前に、そう言った。
『あなたとレンくんはどういう関係なの? ただの医者と秘書ではないのでしょう? 一緒に暮らして、彼はあなたの身の回りのことまで全てを任されて。もちろん、彼は子供でも優秀な秘書だわ。でも、身内でもなく、仕事仲間でもなく……。恋人なの?』
『仁くんは恋人でも何でもない。恋人の代わりはいても、彼の代わりはいない。恋人以上の存在だ』
 恋人以上の存在……。恋人の代わりはいても、仁の代わりはいない……。
 ――彼らは……。




 そこは、見慣れた病院だった。
 だが、見知らぬ院内でもある。
 春名があまり足を運ぶこともないその病棟ユニットは、二四時間体制の医療機器に取り囲まれる《ICU(集中治療システム・Intensive Care Unit》の一室。
 ナース・ステーションでは、一段落ついた仁の容体に、看護師たちが小さな声で囁き合っていた。
「ねェ、あのICUにいる子って……」
「精神科の春名先生の弟さんですって――。随分、年が離れているわよね。あの子はまだ十七、八歳くらいだもの」
「いつも春名先生が『レンくん』って呼んでいる子でしょう? 異母兄弟かしら」
「いつも、って――。いつも精神科病棟まで見に行ってるわけ?」
「そんなにいつもは行っていないわよ」
「春名先生は競争率が激しいものね。あの若さで個人の研究室まで用意してもらって。――あの子もまだ子供なのに先生の片腕で、個人秘書でしょう?」
「春名先生のアメリカでの実績を考えれば当然よ。日本では遅れている分野の権威ですもの。――それにしても、精神科のナースはいいわよねェ……。あんなステキな先生と毎日会えて」
「でも、春名先生には恋人がいらっしゃるみたいよ。クリニックのセラピストで、かなりの美人なんですって」
「えーっ、そうなのォ」
「春名先生はモテるもの。いない方が不思議よ」
「そうよねェ……。でも、あの子――レンくんの方も、かなりの美少年よねェ。もう少し遅く生まれたかったわ」
「それにしても酷い怪我よね。春名先生も真っ蒼で――。あんな春名先生、初めて見たわ」
「ねェ、あの子がここにいれば、春名先生と毎日会えるわよね」
「まァ、そうよね」
「あの子、レンくんって――。名前、見た?」
「え?」
「名前よ。《仁》この字でレンって読むわけ? 『ジン』か『ひとし』じゃないの、これ」
「え、さあ……。春名先生がレンくんって呼んでいらっしゃるんだから、レンって読むんじゃないの。でなければ、名前は『ジン』か『ひとし』で、レンくんって言うのは何かの愛称とか」
「最近の名前って、色々変わった読み方が多くて判らないわよねェ。私は、てっきりはすレンかと思っていたもの……」
 ナースたちの会話は、まだ延々と続いていた。


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