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一夜 聚首歓宴(しゅうしゅかんえん)の盃

一夜 聚首歓宴の盃 28

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「え? あ、? これは……おかしいんだ。貴妃に血を吸われてこうなったらしいんだけど、貴妃が死んだ後も傷痕が消えなくて……」
 舜は、自分の傷のことは伏せたまま、デューイの傷の話だけを、口にした。もちろん、自分の傷痕は、スカーフを巻いて隠してある。
 普通、血を吸った主が死ねば、その呪縛から解かれるというのに(吸血鬼化は避けられないかも知れないが)、今回、貴妃に咬まれた傷は、貴妃が死んだ後も、残っているのだ。
 それに、もう一つの傷のこともある。その傷を消すためには、どうしても炎帝を倒さなくてはならないのだ。
 黄帝が大きく、溜め息をついた。
「やはり、あの時、見捨ててしまった方が良かったのでしょうかね、碧雲?」
 と、アーチ型に切り取られた壁の方へと、声をかける。
「え?」
 舜は、その名前を聞いて、顔を上げた。
 そこには、もうずっと会っていなかった、懐かしい母親が立っていた。
「か……さん」
「久しぶりですね、舜」
「かーさんっ!」
 舜は、幼い子供がするように、母親の胸へと飛びついた。
 ふわ、っと柔らかくて心地よい感触が、全身に渡る。
「まあま、お父様とのお話の方が先でしょうに」
「あんな奴、放っておけばいいんだ。あいつ、ヘラヘラしてるくせに、本当はもの凄く酷い奴なんだ。ぼくに偽物の盃を持たせたり、翼を封印したり――。ぼく、あいつのせいで何回も死にかけたんだ。五年前だって、ぼくに封印をかけて動けなくしたまま一カ月も欧州旅行に行って――。それで、帰って来たら何て言ったと思う? 『おや、舜くん、何をしているのですか? そんな封印、すぐに解いてもいいのですよ』って、動くことも出来ないぼくに言ったんだ。そりゃ、ぼくだって封印の解き方を色々考えたさ。でも、あいつはわざとぼくの力じゃ解けないようにして行ったんだ。『おや、そういえばこの封印を解くのは、まだ君には無理ですね』って、何食わぬ顔で言ったんだ。絶対、最初からオレに解けないようにして行ったに決まってるんだ。それに、ぼく、風呂は凄く苦手なのに、体を洗ってる時に、無理やり湯船の中に突っ込まれたことがあるんだ。まだ小さい時なんだよ。流れる水じゃなくても、酷い火傷を負ったんだ。あいつは『君が水に慣れるようにしてあげようと思ったのですが、つい、うっかり手が滑ってしまいまして』とか言って、反省もしなかったんだ。絶対、最初からぼくを湯船の中に落として、殺してやろうと思ってたに違いないんだ。――それに、酷いのはぼくにだけじゃないんだ。かーさんのところにも行かずに、毎晩、違う女のところに夜ばいをかけに行ってるんだ(注1:毎晩ではない)。この間だって、ぼくがいない間にこの家に女を連れ込んで(事実である)――っ。その女がまた酷いブスなんだ(注2:美人だった)。かーさんとは全然比べものにならなくて――。他にも一杯――っ」
 と、悪事の限りを並べ立てる。
 黄帝に対しての態度とは、月とすっぽんである。極度のエディプス・コンプレックスを抱えているのである、この少年。
「本当だよ。今までぼくを山から出してくれなかったのだって、かーさんに色々なことをバラされたくなかったからなんだ」
 と、懸命になって訴える。
 傍らでは、黄帝が大きく溜め息をついていた。
「舜、それでも私は、あの方を愛しているのですよ」
 と、慈しむような眼差しで、碧雲が言った。
「あんな奴……」
「さあさ。お父様に報告することがたくさんあるのでしょう」
「……。はい」
 舜は素直に、うなずいた。
 別人のように、愛らしい。が、黄帝を見るなり、キッ、ときつく表情を変えた。
 まだ子供なのである。
「――で、彼はどうなんですかっ、お父様」
 と、言葉だけは丁寧に、問いかける。
 もちろん、黄帝は動じもしない。
「君が私の悪口を並べている間に、治療をしておきましたよ」
「え?」
「今は眠らせていますが――。君も、そのスカーフを取ってはどうですか。似合いませんよ」
 気づいているのだ、そのスカーフの下の傷痕に。もちろん、舜にしても、黄帝に隠し通せるとは、(少ししか)思っていなかった。
 ムッ、とした顔で、スカーフを外す。




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