上 下
180 / 533
七夜 空桑(くうそう)の実

七夜 空桑の実 13

しおりを挟む

 そして、封印の解けたその盃は、確かに、炎帝の望む、《聚首歓宴の盃》であった。あるじに、絶えることのない血をもたらしてくれる、呪われた盃である。
 血を糧とする一族には、絶大な力を持つ、貴重な宝となる。
「ああっ! 何てことするんだよっ。封印を解いたら、その盃は、見境なく人を襲うんだぞ!」
「ならば、私がためしてやろう。――そなたでためすがいいか、あの若者でためすがいいか」
「オレ、やだ」
 薄情な子供である。
 そして、息子の危機に助けにも来ないあの父親も、相当、薄情な部類に振り分けられる。
「そうだな。そなたの血は、盃に吸わせてやるには、確かに惜しい」
 炎帝が言った。
 刹那、炎帝の唇から、鋭い乱杭歯が、突き出した。
 さすがの舜にも、炎帝が何をしようとしているのかは、すぐに知り得た。
「わああっ。オレの血なんか吸ったら、食中毒起こして、寝込むぞ!」
 その言葉も空しく、炎帝の乱杭歯が、舜の首筋に、突き刺さる。
「く――っ!」
 冷たい痛みが、首筋を襲った。
 また堕ちてしまう、というのか、この少年は、炎帝の牙に。
 ゴクリ、と炎帝の喉が、大きく動いた。血を吸っているのだ。舜の首筋から、赤い血を。
 舜に逆らうことは、出来なかった。――いや、逆らいもせずに、立っていた。
 赤い血が、唇を濡らし、首筋を濡らし、炎帝の喉へと、流れ込む。
 最初こそ、その行為に痛みを感じたが、今、舜の体を駆け巡っているものは、確かに、心地よい、と思える感覚であった。
 心地よい、のだ。血を吸われる時の、痺れるような脱力感は。美女が、吸血鬼に、恍惚と血を吸わせてやる気持ちが解るほどに。
 炎帝が、舜の首筋から、顔を上げた。
 まだ、やっと、全血液量の三分の一ほどを、吸ったところである。
 だが、見るがいい。炎帝の面貌は、驚きを表すように、変わっているではないか。
「この血は……」
 それが、炎帝の口から零れ落ちた、最初の言葉であった。
 舜は、ニヤリ、と唇を歪めた。
「いい味だろ? 黄帝は、この血を吸って、二日間、寝込んだぜ」
 と、右手の人差し指についた、二つの丸い傷痕を、示して見せる。
 どう見ても、誰かに咬まれた、としか見えない、乱杭歯特有の傷痕である。
「……黄帝に血を吸わせてやったのか?」
 炎帝が言った。
 その面は強ばり、蒼冷めている。もともと蒼いのだが、それ以上に。
「ああ。以前、あんたに血を吸われた時、黄帝が、そのオレの治療をしてくれたんだ。――どういうやり方だったと思う? あんたに支配されてるオレの血を、黄帝が自分の体内に取り込んだんだ。――あんたも、そのやり方を知ってるんだろ?」
「……」
 その治療法は、自分よりずっと力の弱い者の支配の上に、新たな支配を重ねるのなら問題はないが、力の近い――強い者の支配の上に重ねるとなると、命取りにもなるのだ。
 吸血鬼に血を吸われた人間が、その吸血鬼の虜になる、ということは知られているが、その虜になった者の上に支配を重ねると、己の身のほうが危うくなってしまう訳である。
 誰かの支配下にある血は、新たに吸う者にとって、悍ましい毒にしかならないのだ。
「黄帝も、あんたの支配下にある血を吸って、かなり堪えたみたいだったよ。力は瞬く間に落ちて、寝込む前には、オレとあんまり変わらないくらいになってたんだぜ。それで、そのまま昏睡状態に入って、二日間、目を醒まさなかった。――まあ、その時は、同じ傷口から血を吸い出してくれた訳で、今回のあんたとは違うけど――違う場所から吸っても、それなりに効果はあると思うぜ」
 これが、舜の言っていた、秘密兵器であったのだ。
 他の者の支配下にある血を、炎帝に吸わせる――。そして、それは、支配者が強ければ強いほど、凄まじい毒となって、血を吸った者の体を、蝕んで行く。
 黄帝の支配下にある血であれば、まず、生きていられる者などないだろう。炎帝を除いて――。舜やデューイなら、間違いなく、死んでしまう毒である。
「なるほど……。確かに、黄帝の支配下にある血を吸っては、私も無事ではいられぬな」
「杭を打つのは、眠ってからの方がいい? それとも、今?」
 舜は、瞬く間に落ち始めている炎帝の力を感じながら、問いかけた。
「忘れた訳ではあるまい? 毒が全身を巡るまでには、時間がかかる。――黄帝も、すぐには昏睡状態に陥らなかったはずだ」
「解ってるよ。そのために、あんたの攻撃を避ける練習もして来たんだ。一週間くらいなら、急所を外し続けて、逃げられるぜ。あんたの力が落ちてる今なら」
 あの修行は、そのためのものであったのだ。
「……黄帝の子よのう」
 炎帝が言った。
「あいつとは似てないぞ」
 舜は、ムッ、と唇を尖らせた。
 どんな時でも、子供らしい子供なのだ。


しおりを挟む

処理中です...