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九夜 死霊の迷霧(めいむ)
九夜 死霊の迷霧 10
しおりを挟む陽が堕ち、辺りが完全に暗くなると、幼子は、驚くほど急速に、回復した。――いや、驚くことなどなかったのかも、知れない。その子供は、神の子なのだから。
一条が名を尋ねると、幼子はためらいもせずに、舜、と名乗った。
太陽の光で翼が焼け、ここまで落ちて来てしまったのだ、という。そして、そのボロボロの翼を背中から出して、一条の前に、見せてくれた。
他の傷と違って、太陽に焼かれたその傷は、なかなか治ってくれないらしい。
「あ……触ってもいいかな? あの、その羽根だけど」
「……いたいから、やだ」
「あ、ああ、そうだね。ごめん。――君は、この奇峰の上で暮らしているのかい?」
訊きたいことは、山ほどあった。彼らの生活のことも、一年前に見た、あの銀色の月神のことも。
「……とーさまのこと、知ってるの?」
一年前に見た麗人の話をすると、幼子――舜、と名乗った幼子は、不思議そうに、顔を上げた。
「あ、ああ。チラっと見ただけだけど――。お父様の名前は、何て言うんだい?」
「……黄帝」
「黄帝?」
その名を聞いて、一条は、舜というその幼子の名前も、古代中国の伝説中の、理想の帝王の名前であることを、思い出していた。
今、目の前にしているのは、まさしく伝説に相応しい、神秘そのものの存在なのだ。
その神秘は、一条の顔を、物珍しげに、眺めている。触ってみたり、匂いを嗅いでみたりも、する。
「あ、あの……」
さすがに、犬みたいな子だな、とは言えなかったが(一応、神の子なので)、本当に、仔犬のように、愛らしい仕草であったのだ。
「あなた、街の人?」
一通り、一条のことを確かめた様子で、舜は訊いた。
「え、あ、ぼくは日本から来たんだ」
「日本……?」
「この大陸の隣にある、小さな島で――って言っても解らないかな。街で正解かも知れない」
この山奥に比べれば、どこでも街である。
「街の人は、昼間、外を歩く?」
「へ? え、ああ、それは歩くけど……」
ちょっと、想像していた神の子とは、違っている。――いや、まだ子供なのだから、そういうことは知らないのかも、知れない。 それに、月の神の子供なら、昼間は出歩いていないのかも知れないし――。もちろん、月は、太陽のある時間でも、出ているが……夜の神、ということも、考えられる。
何しろ、太陽の光を浴びて、翼を焼かれてしまった、というくらいなのだから。
「あの、ぼくの友人にも会ってくれないかな? 君たちの世界のことを、話してあげてほしいんだ。ぼくは、もう聞いても仕方がないから……」
一条は、少し自嘲気味に、視線を落とした。
もちろん、それは、幼い舜には解らない感情であっただろう。
「ぼく、もう、かーさまのとこに帰る」
と、すっくとそこから、立ち上がった。
「え――」
「かーさま、心配してるもん」
「だけど――。翼が使えないと、上まで登れないんだろ?」
一条は、引き留める口実のように、そう訊いた。
舜が、雲海に遮られて見えない頂を、じっと見上げる。そして、何を思ったか、断崖に手をかけ、切り立った崖を、登り始めた。
まだ二つ、三つの幼子である、というのに、いとも容易く、岩の芸術を登り始めたのだ。
一条は、ただ呆然と、その姿を見つめていた。
舜の姿が、雲海の上に消えるのにも、そう時間はかからなかった。
追いかけなくては、という思いだけが、胸にあった。
どうしても滝に、自分の見た神秘を見せてやりたかったのだ。――いや――。
「おれ……滝を殺したかったはずなのに……」
一条は、定まらない心でそう呟き、舜と同じように、断崖に手をかけて、その岩肌を登り始めた……。
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