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十夜 和氏(かし)の璧(へき)

十夜 和氏の璧 22

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 その男の墓は、村の外れにひっそりとあった。
 草に覆われ、手入れもされていない墓石は、びっしりと苔をこびりつかせ、物悲しい風情で埋もれている。
 その墓の前に、ぼんやりと白い影が浮かんでいた。
「何だ、人の形も取れるんじゃないか」
 墓を抱くように霞むその人影に、舜は意外なほど優しく、そう言った。もちろん、意識した訳ではなく、自然とそういう語気になったのだ。恐らく、その白い影の姿が、自分の母親の姿と重なったせいでもあっただろう。
 だが、その白い影は、舜の声が聞こえると、恐ろしい形相で振り返った。
 顔にはびっしりと鱗が生え、赤い舌がチロチロと覗き、目は金色に輝いている。まさに蛇の形相である。
 ここで、デューイが気を失い、バッタリと後ろに倒れてしまったことは、蛇足として一言だけ書きとどめておこう。
 彼の名誉のために付け加えておくとするなら、気を失わなかった舜の方が、尋常ではなかったのだ。
 少し怯んだものの、
「若飛は、あんたが母親だと知らなかったから、化け物だ、って言っただけだ。あんなデカイ蛇を見たら、大抵の人間はそう叫ぶ」
 舜は言った。
 もちろん、倒れたデューイを気遣ってやることはしない。どちらかというと、気を失ってくれていた方が、邪魔にならない。
『若飛……』
 蛇が――若飛の母親が言った。
「まあ、大凡のところは聞いたけど、もうそろそろ成仏しろよ。こんなところに留まって、化け物扱いされる必要なんかないだろ?」
 舜としては、目一杯正当な思いを伝えたつもりだったのだが、まだ人生経験の足りない子供なのである。
『おまえなどに何が解る? いわれ無き罪で追われ、蛇の穴で気が狂いそうになる日々を過ごし、痛みを受け……。それでも、私に、あの村の人間を呪う理由がないと言うのか?』
 おぞましい蛇の形相のまま、若飛の母は言った。
「でも、あんたは呪わなかったじゃないか。死んでから十数年、村を潰すことも、生贄を要求することもしなかったじゃないか」
『――』
「――若飛が元気に育ってくれてるなら、それで良かったんだろ? 離れ離れでも、生きている心が伝わってくれば良かったんだろ? オレのかーさんだって――」
『黙れ! この村の連中も、隣村の親類縁者も若飛を追い出し、死ぬほどの苦痛を与えたのだ!』
「それは、若飛が宦官になるために、自分で決めたことで――」
『あの村の人間も、紫禁城の人間も、一人一人なぶり殺しにしてくれる! 私や若飛が味わったのと同じ恐怖と苦痛を、たっぷりと味あわせてやる』
 そう言うと、蛇の鱗に覆われた若飛の母は、再び大蛇に姿を変え、夜の空へと姿を消した。
「おい、待てよ――」
 そう言って待ってくれた者を、舜は未だ知らない。
 だが、こういう時は、つい、そう叫んでしまうのだ。
 恐らくあの若飛の母は、最初は怨念などではなく、若飛の成長を見守り続けるだけで満足していた死霊だったに違いない。――それでも無念を抱えているために、成仏することも出来ず……。
 それが、若飛が宦官になることを決意し、陽具を切り落される時の痛みと恐怖に呼応して、我が子までが謂れ無き責め苦を受けている、と思い込み、怨霊と化した。
 全ては、我が子を案ずる母の心が生み出したものであったのだ。
「おい、いつまで寝てるんだ。起きろっ」
 気を失ったままのデューイを、舜がコンと蹴飛ばすと、
「……なんか、すごく恐ろしいものを見たような気がする」
 人間の脳とは、自分が見たくないものを都合よく封じ込めることも出来るらしい。
 まあ、すぐに思い出すことになるだろうが――。何しろ……。
「行くぞ」
「行くって――どこへ?」
 気を失っていたデューイには、話の流れが解らない。
「あの村で止められなければ、紫禁城だ」


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