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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘

十一夜 猩猩の娘 6

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 それからしばらくすると、養母、宇春の乳は出なくなり、香月の喉をうるおしてくれるものは、無くなってしまった。
 肉や魚、山菜に口を付けてみたが、やはりどれも味がなく、マズイと感じるものばかりだった。
 生のままの肉や魚を口にしたら、少しは美味しく感じるかも知れない、とは思ったが、この大陸に肉や魚を生のままで食べる習慣はなかったし、それは受け入れられないことでもあった。
「……もう歩けない」
 山菜採りからの帰り、香月は初めて、そう言って山道に座り込んだ。
 陽射しの中でもなければ、今までこんなことはなかったのだが、恐らく理由は解っている。
「食べないから力が出ないんだ。もう一度、黄帝様に拝謁することが出来れば、乳以外に口に出来るものを尋ねることも出来るんだが……」
 苦々しげに應欽が言い、
「どれ、おぶってやろう」
 と、身を屈めると、
「ぼくがおぶってやる!」
 と、新夏が兄貴風を吹かすように、得意げに言った。
 こちらは今までに何度か、疲れて歩けなくなったことがあるため、初めて聞いた香月の弱音に、不謹慎だが少しホッとした様子である。
「やれやれ。二人を背負うことにならなければいいが」
 その應欽の言葉にも我関せず、香月の前に身を屈めて、新夏は小さな妹を背に担いだ。
「だいじょうぶ?」
 少しよろける新夏を見て、香月が訊くと、
「ぜんっぜん、平気」
 強がりの混じった言葉が返って来る。
 その優しい哥哥の、まだ小さな背中は少し不安定で、すぐに体がずり落ち始める。
 立ち止まって、ずり落ちた分を抱え直す新夏の首筋に、香月の鼻先が少しかすめた。
 ――なんだろう。
 この上なく甘い匂いがする。
 乾いていた口の中に、唾液がじわじわと浸み出して来るような、飢えを増幅させる匂いが鼻腔をくすぐる。
 ドクンドクンと脈打つ心臓や、血管の中を流れる濃い血の音が、新夏の背から伝わって来る。
 歯が、今まで感じていたのとは比べ物にならないほどに、むず痒く、感じる。
 まるで、新しい歯が生えて来るように――。
「キーッ!」
 甲高い声で、玲玲が鳴いた。
 香月は、ハッとして面を持ち上げた。
 玲玲の大きな黒瞳が、襲ってはいけない、と無言で香月を睨みつける。
 ――おそう?
 ――私が?
 ――新夏を?
 まさか、そんなことなどあるはずがない。
 どこからか甘い匂いがする、とは思ったが、それは新夏とは別のことだ。
「――どうかしたのか?」
 突然の玲玲の鳴き声に、新夏が香月を振り返る。もちろん、おぶっているため、顔までは見えない。
 だが、それで良かったのだ。
 香月自身も気付いてはいなかったが、香月の唇からは、生えたばかりの鋭い乱杭歯が突き出していたのだから……。


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