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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘

十一夜 猩猩の娘 14

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 若者は岩場から涌き出す鉱泉に、白い湯あみ用の着物を身につけて、心地良さそうに浸っている。
 侍女とも女官とも呼べる二人の女が側に控え、従者や御者と思える男たちは、周囲を見張るように立っている。
 さぞ、身分の高い御貴族さまなのだろう。
 もちろん、香月にはそんなことなど判らなかったが。
「誰だ!」
 身を潜めて様子を窺うつもりなどなかった香月は、すぐに男たちの一人に見咎められ、厳しい言葉を投げつけられた。
「即刻、立ち去れ! この御方は天府ティェンファンの貴族、崔崇厚ツエイチョンホウ様なるぞ。市井のものが側近くに寄れる御方ではない」
 脅しを効かせたその言葉に、何も言えず、立ち尽くしていると、
「よせ。まだ子供ではないか」
 片手をひらひらと振って見せ、
「ここは私だけの湯治場ではない。――だが、他人と共に浸るつもりもない。私が出るまで待つよう、親御殿に伝えられよ」
 崔崇厚、と呼ばれた男が言った。
 ――親……。
「いない……」
 香月は言った。
「ん?」
「玲玲が来るまで、私一人だけ……」
「玲玲?」
「……」
 訊かれても、どう応えていいのか、今の香月には判らなかった。最後に見た姿は猩猩だったが、その前は少女であり、子ザルだったのだから。
「一人、か」
 土で汚れた姿を見て、答えを待つまでもなく察したのか、若者はそれ以上の追及をしなかった。
「あとで洗ってやれ。そのなりでは傷が膿む」
 服に付いた血を、香月自身の血と思ったのか、宗厚が言った。
 だが、香月は水が苦手である。
「いやっ。水は厭!」
 と、首を振って、後ずさる。
「水? これは湯だ。炭酸を含んだ鉱泉で、傷にも効く」
 この奇妙な匂いは、その湯から立ち昇っているものだったのだ。
「……それでも、厭」
「まあ、いい。厭というものを無理強いはせぬ。――布を浸して拭いてやれ」
 結局、湧き出す鉱泉に浸かることもなく、侍女の一人に体を拭いてもらい、香月は埋められた時に付いた土を、きれいにぬぐい落してもらった。
「怪我はしていないのね。じゃあこれは誰の――あ……いえ、良かったわ」
 誰の血なのか――。余計な詮索をしてはいけない――そう思ったのか、侍女はそれ以上の言葉に口を噤み、木蓮の柄の大きな衣装を羽織らせてくれた。
 汚れた服に付いていた血は、恐らく、香月が「玲玲」と呼んだ少女の血で、その少女はもういないのだろう、と察したからなのかも知れない。
 もちろん、玲玲はあとから来るのだが――。
「まあ……」
 汚れを落とし、髪を梳かし、きれいな衣装を羽織らせた香月の姿を見て、侍女が溜息のような言葉を漏らした。
 それは、宗厚や従者たちの耳にも届き、
「これは、何ともはや……」
「伝説の美姫を見るようではないか……」
「天府にも、これほどに美しい娘はおらぬ……。まこと、玉のようではないか」
 皆、口々に香月の美しさを褒め称え、
「我が屋敷で、その『玲玲』とやらが来るのを待つがよい。――行くところがないのであろう?」
 宗厚が言った。
 長くは迷う必要のない言葉だった。
 行くところがないのも本当だったし、何処に行っても付いて行く、と、あの時、玲玲は言ったのだから。
「うん……」
 香月はコクリとうなずいた。



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