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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘

十一夜 猩猩の娘 17

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 美しいものを見るのは、好きだった。
 きれいな衣装を身につけ、髪を結い、音楽を聴き……世の中に、こんなに愉しいことがあるなど、香月はここで初めて知ったのだ。
 芝居や踊り、きらびやかな装飾品は、何よりも退屈な日々を紛らわせた。
 そして、優しい宗厚と過ごす時間……。
 血への欲望を自分で制御できる今、もう哀しいことなど何も起こらず、辛い思いなど、この先あるはずがない、と思っていた。
 何より、人を襲い、その血を啜ることにも、慣れてしまっていた。
 ――人を殺すことが、こんなに簡単なことだったなんて……。
 瞬く間に歳月は過ぎ、幼い子供である香月が、深夜に起こる謎の吸血殺人事件の犯人である、と疑われることもなく、日々は平穏に流れていた。
 あれから五年――。
 香月はさらに美しく、世に並びなき美姫である、と天府中に噂される麗しき存在となっていた。
 そして、じきに十一歳になろうというその日、宗厚が香月を前にこう言った。
「宮廷からお召しがかかった。世に並びなき美姫と噂される娘を見てみたいそうだ」
「え……?」
 見てみたい、というその言葉が何を意味するものなのか、香月にはまだ漠然としか解っていなかった。
 気になる娘を召し上げろ、という言葉が、『試しに一度、寝てみたい』という、高慢な言葉である、ということも。
「ですが、宗厚さま――。香月様はまだ十歳とおの幼き御方。それは余りにも――」
 香月付きの侍女の言葉に、
「じきに十一――、何も早いことはない。こちらから目通りを乞うのではなく、宮廷からお召しがかかっているのだ。断れるはずがなかろう」
「それは……」
 そんな二人の話の流れに、香月は不安を胸に宗厚を見上げた。
「私は宮廷で、何をすればいいのですか……?」
 見てみたい、と言われたところで、その間、どうしていればいいのかも解らない。
「何も――。教えた通りの礼を尽くし、粗相そそうをしなければ、そなたは必ずや寵妃に召される」
「寵妃……」
 歓ばなくてはいけない言葉なのだろう。それは、宗厚の何よりの望みで、その日のために、香月は今日まで育てられて来たのだから。
 だが……。
 だが、こんなにも胸が痛むのは、何故なのだろうか。
 天府の王に召されるよりも、宗厚と共にいたいと思うのは、何故なのだろうか。
 幼い心が、淡い恋心を抱く少女の心へと変わったことを、誰か教えてはくれないのだろうか。
「案ずることはない。そなたの美しさは至高のもの――。虜にならぬ者はない」
「宗厚さまは……」
「ん?」
「――。いえ、何も……」
 宗厚は、自分を見てはくれないのだろうか。
 ――玲玲なら、こんな時……。
 ふと、何の気なしに過った想いに、香月はハッと胸を突かれた。
 久方ぶりに心に浮かんだ名前だった。幼い頃、ずっと、自分の後を追って、ここへ姿を見せてくれる日を待ち望んでいたというのに――。
 結局、彼女はここへは姿を見せず、町でのきらびやかな生活に、いつの間にか記憶の片隅に追いやっていた……。
 ――玲玲に会いたい……。
 何故か無性にそう思った。
 自分が忘れてしまったから、玲玲は姿を現すことが出来なかったのかも知れない――そんな思いに胸が痛んだ。
 ただ懐かしく――、香月の全てを知り、心おきなく胸の内を話せる相手に、今すぐ会って、色々なことを話したかった。
 思いがけずに涙が零れ、
「どうかしたのか?」
 宗厚に訊かれた。
 香月は何も応えられず、ただ声を殺して泣き続けた。
 きれいな髪飾りや宝玉など、瞬時に色褪せてしまう刹那だった。


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