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十三夜 聖なる叡智(ハギア・ソフィア)

十三夜 聖なる叡智 2

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「では、始めましょうか」
 デューイを空港まで見送った後、奇峰の最峰に着くなり、黄帝が言った。
 もちろん、その銀髪の青年――いや、違った、白髪の青年がそう言うであろうことは、舜にもあの日から判っていたことである。デューイに実家へ帰ることを、黄帝がすすめたあの日から――。すすめる、というよりも、拒むことのできない決定事項のようなものだったのだから。
「黙って殺されてやると思うなよ、抵抗するぞ、オレだって」
 舜は言った。
 何しろ、舜には、デューイが人を殺めるのを止めることが出来なかった、という過去の罪がある。自分で血への欲望を抑制できないデューイから目を離し、一人の少年を死に至らしめてしまった、という、《蜃の楼》での出来事である。
 その罪のために、黄帝が舜を殺すことも、すでにあの日――蜃の楼から戻った日に、告げられていたのだから。
『私が舜くんを殺す意志は変わりませんが、今すぐ殺す積もりもありません』
 と――。
 今すぐ――デューイが一人で血への欲望を抑えられるようになるまでは、殺さずに猶予をくれてやる――あの言葉は、そういう意味を持つ言葉だったのだ。
 だからこそ、黄帝がデューイにシスコの自宅へ帰ることをすすめた時、舜は普段は使わない頭をフル回転させて、考えていた。
 黙って殺されるのを待つか、それとも抵抗をするか。
 抵抗するなら、どんな方法で、どんな手段を使って――。
 そんな訳で、デューイの胸中など気遣う余裕もなかったのである。
 その結果、良い案が浮かんだかと言えば――。
「抵抗できる時間があればいいのですが」
「――」
 本当に、いつも腹が立つ。
 だが、その黄帝の言葉は正しくて、未だに舜は、黄帝に触れることすら適わない非力な存在なのだ。たとえ、一族の中では――この世界に生きる者の中では、凄まじい力を秘めていようと。
「何か準備がいるのなら、待ちましょうか?」
 ――殴ってやりたい。
 もちろん、軽くかわされてしまうだろうが。
 そして、小細工が通用する相手でもない。
「んなもん、いるかよ――っ!」
 先手必勝――と、舜は足を踏み出した――が……黄帝に隙などあるはずが無い。その刹那の躊躇が命取りとなった。
 これは比喩でも何でもなく、まさしく、文字通りの『命取り』であったのだ。
 踏み出した足が止まったのを見て――いや、その前から判っていたかもしれないが、黄帝が指先を一つ、ピン、と弾いた。
 胸に凄まじい衝撃がぶつかり、吹き飛ばされる間もなく、皮膚、筋、骨を貫き、背中に向けて気が突き抜ける。
 それだけの間に、黄帝の姿はもう目の前にはなく、背後に回り、その手のひらに、まだ動きを続ける筋肉の塊を持っていた。
 心臓――舜の体の中から弾き出された心臓である。
 それはまだ、確かに、ドクンドクン、と脈打っていた。
 舜の胸には、ぽっかりと丸い穴が空いている。ちょうど、その心臓ほどの大きさの穴が。
 切断された動脈静脈から、鮮血が瞬く間にほとばしり、胸から下を赤く染める。
「クソッ! 結局、無抵抗と同じかよ……」
 瞬く間に血の気の引く体から、絞り出すように、舜は言った。
「我が子だけを特別扱いにする訳にはいきませんからねェ。――それでは、これで最後です」
 殺すというのか、この青年は本当に、自分の息子たる年若い少年を――。
 黄帝の手のひらの中の心臓が、いとも容易く言葉と共に握り潰される。
 同時に――。
「――!」
 声を上げる間もなく、舜も刹那に絶命した。
 握り潰された心臓が、カサカサに乾いた枯れ葉のように、黄帝の完璧に整えられた指から、零れ落ちる。
 そして、舜の体も同様に、干からびた木乃伊ミイラになっていた。
 余りにも短く、情けの欠片もない罰であった。
 何処の世界に、自分の息子をこうもあっさり殺してしまえる父親がいる、というのだろうか。
 だが――。


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