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XX Ⅰ

XX Ⅰ-8

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「この辺りですか?」
 下腹部を押すと、司が色薄い唇を、きつく、結んだ。
 一五〇年前も、原因が判らないままに、どんどん癌が転移、進行し、為す術もないまま、〈XX〉は絶滅した。今、また、司が原因不明の痛みを訴えている、ということは、その懸念を持ち出すのに充分なものであった。
「もういい。シャワーを浴びれば少しはすっきりするさ」
 埒の明かない診察に、体のけだるさだけでも取り払おうとするように、司がベッドの上に体を起こした。
 シーツを染める赫いシミが目についたのは、その時だった。
「……司様、どこか怪我を?」
 刄は訊いた。
「怪我? 《柊の鞭》以外にか?」
 司は皮肉げに言ったが、
「血が……」
 その仁の言葉に、血の気を失くした。
 まだ、司も刄も、それが初潮であるとは気づいていなかったのだ。初潮というものがどんな形で訪れるのかも、これほど劇的に、はっきりとした形で訪れるのだ、ということも、少しも知ってはいなかった。ただ、突然の出血に、不安と驚愕に囚われていただけだったのだ。
 これほど鮮明に、その体が思春期にあることを告げるものが、他にあっただろうか。胸の膨らみにしても、腰の丸みにしても、いつからか判らない形で、ゆっくり、ゆっくり、変化して行ったのだ。
 そして、刄も、司が十二、三歳の頃は、初潮のことも気に掛けていたが、日が経つに連れ、知識の片隅に留めるだけとなり、いつしか思い出さなくなっていた。その矢先のことだったのだ。
 その出血が初潮であり、腹痛や他の症状もそのためのものであると判ったのは、出血箇所を確かめてからのことだった。
 病気ではない、と知り、刄は、ホッと表情を緩めた。
「おめでとうございます、司様。十六夜会長も、さぞお喜びになることでしょう。初潮がないことをずっと心配しておいででしたから……。もちろん、初潮があってもすぐに子供が出来る、という訳ではなく、二、三年は不妊の時期が続く、ということですが、十六夜会長は司様のお子様を楽しみに――」
「楽しみだと? おめでとう、だと? これはぼくの体だ」
 刄の言葉をきつい視線で睨みつけ、司は蒼冷めた唇を震わせた。
「……司様?」
「痛い思いをするのは、このぼくだ。この血はぼくの体の中から流れるものだ。その体に不自由するのも全て、ぼくだ。――おまえは何をするというんだ? おとうさまが何をしてくれるというんだ? ぼくの痛みを肩代わりしてくれるというのか? ぼくと同じ思いを味わってくれるというのか?」
「……」
 何が言えた、というのだろうか。不安と怒りをぶちまける司の言葉に、刄は何も言えずに、立ち尽くしていた。
「こんな体なんか、いらない……。もうこんな体なんか嫌だ……。こんな体なんか……」
「司様――」
「こんな体なんか嫌だああああ――――っ!」
 狂ってしまったのではないか、と思えるほどの絶叫だった。
 ただ一人、神秘的な体を持つ女として、彼がどれほどそれを不安がり、また、恐れていたのかなど、刄も、十六夜秀隆も、少しも解ってはいなかったのだ。自分の体が変化し、乳房が膨らみ始め、腰が丸みを帯び始め、そうする中、司がどれほど追い詰められて行ったのかなど、理解しようともしていなかった。
 一五〇年前の文献の通りに成長して行く司の体を見ることばかりに喜びを見いだし、自分の体が変わって行くことに対して為す術もない司の不安など、刄は多分、一度も考えたことはなかった。医者として、特別なものを見ることが出来る自分を、誇らしくさえ思っていたのだ。
「私がお守りします……」
 刄は言った。
 頭を抱え込む司の肩が、わずかに、揺れた。
 ベッドに埋める顔が、持ち上がる。
「必ず、私が――」
「笑わせるな。――守るだと? たかが医者のくせに大きな口を叩くな」
 鋭い視線が突き刺さった。脅えながら牙を剥く手負いの獣のように、司は激しく刄を見据えていた。
「……。あなたがその体に耐えられなくなった時、お守り出来るのは私だけです。私は……確かに十六夜会長に恩があり、女性としてのあなたの体を守るよう言い付かっておりますが、あなたがその女性の体に耐えられなくなった時は、たとえ十六夜会長のめいに背くことになろうと、あなたの命に従います……」
 部屋の空気が、その流れをも止めるように、静かに、なった。
 十六夜秀隆の命に背いても――。その言葉に嘘は、なかった。あまりにも不憫で、痛々しい司の姿を前にした時、刄は確かにそう思ったのだ。自分が学者ではなく、司の主治医である、ということを思い出した、と言ってもいい。世界の神秘を守っているのではなく、一人の人間を守っているのだと……。
 これ以上、司の苦しみを正視することが出来なかったのだ。
 司は何も言わなかった。――いや、少しして、強かな瞳を持ち上げ、こう言った。
「おまえのことは、ぼくが守る。おまえが軍の命令に背いて医者を辞めた時、おとうさまが軍に追われるおまえを助けたように、おまえがおとうさまの命に背いた時は、ぼくが――。今度はぼくが、おまえを守る」
 不敵な言葉と、瞳だった。
 どこの誰が、ほど強くなれる、というのだろうか。
 もし、が男であっても、これほど強くなることが出来ただろうか。
「……ありがとうございます」
 唇の端を少し持ち上げ、刄は、フッと鼻を鳴らした……。


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