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番外編 ドクター・刄

ドクター・刄 2

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「よう、上尉。今日の奴は、内臓がなくなるまで吐かなかったって? 本当にスパイだったのか?」
 肩までの衝立だけで仕切られたシャワー・ルームで、隣になった青年医師に、王世友ワンシーヨウは皮肉げな口調で声をかけた。
「……。俺には関係ない」
 と、無愛想な返事だけが返って来る。
 一応、その青年医師は、中尉である世友シーヨウには上官に当たるわけだが、士官学校の同期であり、ついこの間までは同じ階級であったのだから、気を使うような相手でもない。もちろん、親しい訳でもなかったが――。孤児同士、他の同期生たちとは、何となく違う親しみがあったのだ。
「その内、全部おまえの責任にされて、消されるぞ」
 少し小声で囁いた言葉にさえ、返事は何も返らなかった。
 ドクター・刄――。それが、その通り名で呼ばれる者の運命さだめなのだ。
 好きで孤児として生まれた訳でもなく、なぜ孤児になったのか知っている訳でもない。学校だけは行かせてもらい、国のために働くことを条件に、士官学校を経て、医学を履修させてもらった。そして今、中国七大軍区の一つである広州軍区に籍を置き、ベトナム国境を主に、中国の南を守る中国最強の軍隊、第41集団軍に所属している。――いや、上尉として第41集団軍には所属しているが、今は医官として、どの師団にも配属されず、司令部詰めになっている。
 もちろん、それに不満がある訳ではない。
 だが……。いや――。もう考えることもしなくなってしまった。自分が生きていることの、その意味など……。
 今、子供は、全て体外受精になっている。結婚し、子供を作りたいと申し出る二人の生殖細胞を取り出し、培養液の中で分裂させ、その細胞が八個まで増えたところで、互いの胚を四個ずつ取り出し、混合胚を作り、再び培養液に戻すのだ。もちろん、そのままでは、染色体の数が多過ぎるため、キメラになる。
 キメラ――。ギリシア神話では、前身を獅子、胴を山羊、そして、大蛇の尾を持ち、口から猛火を吹くという姿で表され、キマイラとも呼ばれている。発生工学では、二種類の生物の胚細胞を混ぜ合わせて発生させた生物を示す。つまり、両親の染色体を半分ずつもらって一つになった子供ではなく、二人分の染色体を一つの体に持つ子供だ。
 普通、人間は、一対になった四六本の染色体を持っており、子供は両親の染色体を一組ずつ(二三本ずつ)もらって、同じように、合計、四六本の染色体を持つことになるが、キメラは両親の染色体を二組ずつもらうことになってしまい、合計、九六本の染色体を持つことになるのだが、混合胚を作る時に、染色体の半分を取り除くことは、難しくもない。
 言い方を変えれば、その遺伝子操作によって、優れた遺伝子の方を優先して残し、天才児を作り出すことも出来るのだ。もちろん、それは社会倫理を逸脱した遺伝子操作であり、個人の価値に関する考え方の基礎を脅かすものとして、OTA(連邦テクノロジー・アセスメント局)などによって、厳重に取り締まられている。クローンも、戦略兵器に繋がるとして禁止され、婚姻関係を結んだ二人だけが、子供を作ることを許されていた。
 もちろん、愛情を持って婚姻を結ぶ者がほとんどではあるが、上流階級、特に政財界ではそうとは限らない。お互いの利益や後継ぎを得るための婚姻がほとんどで、共に暮らす訳でもなく、必要な子供が出来れば、あとはそれぞれの元に子供たちを引き取り、育てることになる。こちらの父、あちらの父、というふうに、別の家庭のようになってしまうのだ。
 女が絶滅し、地球が危機に瀕して以来、世界は遺伝子部門の研究に莫大な資金を注ぎ、その発展にあらゆる労力を注いで来た。そのために、他の部門は、この一五〇年間、ほとんど進歩していない。
「そういや、おまえ――じゃなく、上尉――。動物も診れるのか?」
 ふと、思い出したように、世友は訊いた。
「動物?」
 眉を寄せての刄の言葉に、
「ああ。犬なんだが……」
「獣医に言え。犬のことなど判るわけがない」


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