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番外編 平和の都(イェルシャライム)編
平和の都 7
しおりを挟むホテルに戻ると、刄が咎めるような視線と口調で、
「司様――」
と、切り出した。
司はベッドに寝転がって耳を塞ぎ、今日も今日とて、刄の小言に背中を向けた。
「失礼しますっ!」
刄がその手を耳から引き離し、
「公衆の面前で、あのようなことはやめてください。ここは欧州ではないのですよ。土地には土地の習慣が――」
「事故だよ」
司は、刄の小言に背を向けたまま、ボソリ、と言った。
「は?」
「あれはただの事故だ。――おまえも、あの時そう言ったくせに」
と、刄の顔を睨みつける。
「……」
もちろん、刄には何も言えない。司にキスをしてしまったあの日、あの時、刄は間違いなく、司に向けてそう言ったのだから。
「……解りました。――明日、帰国されることを、お伝えにならなくて良かったのですか?」
司の手をつかむ指を離し、淡い恋心を知るような口調で、刄は訊いた。
「いい……。さっき言えなかったんだから、今も言えない」
「……」
それが恋心だと、教えた方が良かったのだろうか。本当に言いたい事や、言わなくてはならないことが何一つ言えず、どうでもいいことばかり口をついて出てしまうのが、恋の症状の一つなのだと……。
いや、そんなことは人に教えられて知るものではない。それに、知ったところで、司の心が報われる訳でもない。
「どうしてなんだろう……? 三日前に会って、たった二日、一緒にいただけなのに、寂しい」
自分の心を隠すこともなく、素直な胸の内を、司は語った。――いや、司が刄に表面だけの言葉を伝えたことなど、一度もない。
「それは……。初めての、同じ年頃のご友人でしたから」
そして、思春期の心に触れた、恋心……。
恋をするのに、時間や身分は関係ない。況してや、女であろうと、男であろうと……。
「友人……。どうでもいいようなことはたくさん話したのに、結局、名前以外は何も知らない」
「――それでも、楽しかったのでしょう?」
その刄の言葉に、司は、うん、とうなずいた。
「なら、彼もきっと、同じ気持ちでおられるはずです」
「そうかな」
「ええ、きっと」
だといいな……。そう呟くと、司はその余韻に浸るように、目を瞑った。
たとえそれが、不安定な体がすがった、幼すぎる恋であろうと……。
次の日も、その次の日も、旧市街に司が訪れることは、もうなかった。
ホテルもすでにチェックアウトされており、この街――この国にさえ、いないのかも、知れない。
サイードは、哀しみの道に立ち尽くし、まだ、あの日の感触の残る唇に、指を当てた。
「ツカサ……」
何も言わずに発ってしまった、異邦人……。
司にとってサイードは、その程度の存在だったのだろうか。
なら、あのキスは……。
あれは、別れのキスだったのだろうか。
住所や連絡先くらい、訊いておけばよかったのだ。――いや、あんな高級ホテルに滞在するような客の子息が、サイードと釣り合うはずもない。旅先だけの案内人で、この先も続く思いではあり得なかったのだから。
それでも……。
それでも――。
こんなに胸が痛むのは、何故なのだろうか。
言えなかったから――。
好きだと……。
あの日が最後だと分かっていれば、きっと口にしていただろう。たとえ、身分違いの叶わない恋であろうと……。
彼は、少女の体を持つ、不思議な異邦人……。
完
※次回、刄が死んだはずの恋人と再会する『幽霊編』を連載します。
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