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番外編 幽霊(ゴースト)編

ゴースト 4

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 その幽霊――トルソーは、名前を『夏声シアシォン』と言った。
「ふーん。――じゃあ、医師団にいるんだ」
 子供は街中で気軽に声をかけても警戒されないため――加えて、司のように愛らしい容貌があれば、誰でも笑顔で接してくれると心得ているのか、司は、その幽霊とすぐに打ち解けて、その幽霊がアフガンで再燃した戦火の犠牲者のために派遣された、医師団の一人であることも聞いていた。
 このカブールの東部にあるアーメッド・シャー・ババの病院で、『武器の持ち込みを禁止する』という条件の元、医療活動を行っているらしい。
 ――夏声……。
 本当に、彼女が、あの『夏声』だというのだろうか。
 刄は、司と話を続けるトルソーに、まだ一言も声をかけられないまま、ただその場に突っ立っていた。
 夏声――と名乗ったトルソーは、刄を見ても何の反応を示すでもなく、司の保護者を見るように、当たり前の表情で受け応えている。
 顔は――一卵性双生児の兄弟でもいない限り、ここまで似るはずがない、と思えるほどにそっくりで、本人であることは疑いようもない。
 だが、それなら……。
「――そうよ。ハーバードの医学部に留学して、そのままUSAで医者になって、アメリカ国籍を取って、医師団に参加したの。――で、あなたは誰なのかしら、可愛らしい日本人形ジャパニーズ・ドールさん?」
 司と同じ背丈に身を屈めて、夏声に似た幽霊は、訊いた。
「ぼくは、十六夜司です。父と一緒に、昨日、カブールに着いたばかりで――」
「十六夜? あの十六夜グル―プの――十六夜秀隆氏の身内なの?」
 彼女の驚きは、ある意味当然のことであっただろう。日本屈指の大財閥――そして、名の知れた医者であり、遺伝子学者である十六夜秀隆の名前を、こんなところで耳にするとは思ってもいなかったに違いない。
「十六夜秀隆は、ぼくの父だよ」
 司が言うと、
「じゃあ、彼は……」
 夏声の視線が、刄へと向いた。
「彼は――ぼくの主治医で……」
 まるで、名乗るも名乗らないも刄の自由、とでも言うように、司はそれだけを口にした。
「主治医? あなた、どこか悪いの?」
 刄の存在よりも、医者として司の体のことが気になったのか、夏声は小さな肩をつかんで、心配げに訊いた。
「別に、どこも――。ケガはよくするけど」
 司が言うと、
「そうでしょうね。とても利発そうですものね」
 と、異国の地で、トルソーである夏声に声をかけて来た物怖じのなさに、納得するように苦笑を零した。
 そんな表情や仕草の一つも、昔と何も変わらない。
 結局、刄は名乗る機会を逸してしまい、また何も言えなくなってしまった。
「――じゃあ、私は買い物が済んだら、また病院へ戻るから」
 と、夏声が言って、立ちあがる。
 司の視線が刄へと向いたが、刄はそれでも何も言えず――あの過去の日の花屋でのように、黙って夏声を見送った。
 十年たっても、結局、何も変わってはいないのだ。
 バラの花をください――あの日、それだけの言葉が言えなかったように、今日、夏声を前にしても、自分の名前すら名乗れない。
「――幽霊にしては、恨み事一つ言わなかったけど」
 司の視線が、意味ありげに持ち上がった。
 どうやら、幽霊の正体を話してもらえるのを、待っているらしい。
「……。カブール博物館とナディール・シャー廟に行ってくださるのなら、後でお話しします。――バシール中尉が気の毒ですから」
 刄はそう言い、所在無げに立ち尽くす、バシール中尉へと憐れみを向けた……。


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