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番外編 十六夜過去編
十六夜過去編 20
しおりを挟む伊吹がいる。――それなのに、柊がいない。
今までと違う状況に、司は釈然としない思いで、過ごしていた。
今まで、何処に行くのでも、目の不自由な柊について、その手助けをしていた伊吹が屋敷にいるというのに、柊の姿が見えないのだ。もちろん、司がその理由を訊いたところで、教えてもらえはしないだろう。
司は屋敷の裏へ回り、幼い日に、柊と鯉を見た池に足を向けた。
この池にいる鯉は、奇形種だと言っていた。幼い頃はその意味も解らずに、ただ怯えていただけだったが――これも遺伝子操作によるものなのだろうか。
ふと見ると、池の縁に、二十歳前後の少年がいた。確か、柊の身の回りの世話をするために、時々、柊の部屋に出入りしている少年である。名前は、何と言っただろうか。
それを思い出そうとしていると、少年の体が、ゆらり、と揺れ、池の方へと傾いた。
ハッ、と思う間もなかった。
バシャーン、と大きな飛沫が上がり、少年の体が池に落ちた。
鯉は、音に敏感な魚である。あっという間に、少年の体に群がり始め、貪欲に餌を喰らいに来る。
司は、その姿に目を瞠った。
「誰か――! 人が池に落ちた! ドク! ドクター・刄――!」
声を上げて足を踏み出し、抵抗もなく沈んでいく少年に、手を伸ばす。
「何をしている! 早く手をつかめ!」
そう叫んで怒鳴りつけるが、少年は茫と身を任せるだけで、反応しない。
「聞こえないのか! 早く――」
言いかけた時、誰かが司の脇を抜けて、池の中へと飛び込んだ。
バシャーン、と再び飛沫があがり、その人物が、少年を抱えて、池から上がる。
「伊吹……」
伊吹はすぐに少年を横たえると、呼吸と心拍を確かめ始めた。
薄手のシャツを着ただけの少年は、鯉に皮膚を喰いちぎられ、体のあちこちから血を滲ませている。伊吹の方は、しっかりとしたスーツを着ていたために、手に少し傷を負っているくらいで済んでいる。
少年が、苦しそうに水を吐きだし、その呼吸苦にむせ返った。丸めた背中に、水で濡れた薄いシャツが透けて、幾筋もの細い傷痕を浮き上がらせる。
「その傷は……」
――何の傷痕だろうか。
背中一面に、ミミズ腫れのような傷が走っている。まるで、鞭を食らった罪人のような……。
「伊吹、彼の背中の傷は――」
司がそう言いかけた時、伊吹が自分の上着を脱いで、その少年の体に被せた。そして、少年を腕に抱きあげる。
「待て、伊吹! 彼のその背中の傷は何だ? 何故そんな傷を――」
「怪我人を運びます。邪魔をしないでください」
淡々とした口調で、伊吹は言った。
「待てと言ったはずだ! 彼は足を滑らせた訳ではなく、自分から池に入ったんだ! 一体、彼に何をしたんだ?」
司は、伊吹の行く手を塞ぐように、前に立って言葉を放った。
「私も志乃蕪も、あなたの部下ではありません。おどきください」
「……。そいつを置いて行け」
「あなたのご命令は受けません」
スゥ、と司の横を抜けて、伊吹は屋敷へと足を向けた。
「伊吹――!」
その言葉にも、足を止める気配はない。
司はただ、無力だった。もしこれが、十六夜秀隆の言葉であったら、聞かぬ者などいなかっただろう。
「クソォ!」
怒りをぶつけて立っていると、入れ違いに、刄が屋敷から姿を見せた。
「――何かあったのですか?」
と、事の顛末を訊いて来る。
「ぼくには、何の力もない……」
そう呟くと、
「欲しいのですか、力が?」
刄は訊いた。
「力がなければ、誰も守れない……」
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