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XX Ⅲ

XX Ⅲ-46

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 すっかり痩せて、覇気がない。瞼も半分、閉じかけて、階が見えているのかも判らない。延命装置は何もつけず、ただ苦痛を取り除く処置だけが、施されている。
 あの日、階が検査のために連れて来られた、ロンドン郊外の屋敷の中――。
 ベッドの脇の椅子に腰かけ、
「おじい様……」
 階は、皺だらけの衰えた手を、そっと握った。
 痛み止めの点滴で、意識が朦朧としているのか、反応は一呼吸、遅れていた。
「司……」
 記憶も混濁しているのだろう。それとも幻覚を見ているのか、十六夜秀隆は、階を見て、その名で呼んだ。
 苦しげな声だが、言葉ははっきりと聞き取れた。
「司……。おまえの子供は……癌を発症しない……」
「……おじい様?」
「あの癌を抑える……遺伝子の増殖を……邪魔する分子が……特定でき……。癌遺伝子への…DNAワクチンと……免疫の強化を……アンドルゥが……」
「もう喋らないで――」
「すぐに……正常な遺伝子と……交換して……」
お父さま・・・・――」
 階は言った。
「聞こえています。あとはアンディに――。ですから、どうか喋らないでください」
 握り締めた手を、頬に当てると、
「司……。許し……」
 十六夜秀隆は、安心したように、瞳を閉じた。
 彼が最後に見たその姿は、何よりも愛しい娘の姿だったのだろうか。
「おじい様は……ずっと、お母さまのことを……」
 司が死んでしまったことも、もうその記憶には残っていなかったのかも知れない。それとも、自身もすでに死を迎え、司と会っているつもりでいたのだろうか。
「ありがとうございます、階様……」
 男が再び、頭を下げた。
 来てよかった、と思っていた。アンドルゥもきっと、怒らないだろう、と。
「――十六夜翁が言っていたことは本当なのか?」
 静かな死に顔の十六夜秀隆を見て、菁は訊いた。
 もしかするとそれは、十六夜秀隆が死ぬ前に見た、幻想だったのかも知れない。階にぬか喜びだけさせて、また絶望の淵に追い込んでしまう訳にはいかないのだ。
「理論上は」
 男は言った。
「まだ階様に試した訳ではありませんから――。ですが、十六夜翁とアンドルゥ様が、寝る間も惜しんで続けて来られた研究です。確信があってこその言葉でしょう」
「そうか……」
 菁は、希望がわき上がる胸の中、階を腕に抱きしめた。
 階もきっと、同じ気持ちでいただろう。
「良かったな、階……」
「うん……」
 

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