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番外編 オックスフォード編

オックスフォード 16

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 見事なマントルピースの大理石の暖炉と、壁に掛けられた絵画やタペストリー……階の保護者代わりのアンドルゥと、もう一人、こちらも保護者のような存在である菁が、そのサロンで寛いでいた。――いや、寛いでいるのだろうか。
 ローレンスは、出来れば近寄りたくはないほど厳しい顔つきの二人を前に、覚悟を決めて足を進めた。
 昨夜、すでに夜中を過ぎてから、部屋に訪れたエリックに、大抵の話は聞かされていたのだ。
 階を抱いたことがバレている、と――。それも、最悪な形で。
 ローレンスがサロンに入って来るのを見ても、二人は何も言わなかった。まるで、ローレンスに言わせようとするかのように、黙っている。
 今まで感じたことがないほどの威圧感が、そこにはあった。
「僕がフェリックスを追い込んだせいで、昨日は……」
 ローレンスは口火を切った。
「それで?」
 アンドルゥの冷ややかな眼差しが、突き刺さる。
「あの頃は……フェリックスのことを、まだよく知らなくて、感情のままに、僕は――」
「黙ってそのまま帰れ。階はおまえを選びはしない」
 アンドルゥの素っ気ない言葉は、激しい怒りすら含んでいた。
「嫌です! 僕はこの先もフェリックスを――」
「この先も? ――帰っておけば良かった、と後悔するぞ」
「後悔はもう、あの時にしました」
 そう。あの時に――階を抱いたあの時に、すでに後悔していたのだ。あれほど幼い階を、感情で抱くのではなかった、と――。ずっと後悔し続けて来たのだ。
「なら、私が殴ってやろうか? 骨が折れるぐらいでは済まなくなるが――。その方がずっと楽だろう」
 飽くまでも引かないローレンスに、菁が横から口を挟んだ。
「――では、楽ではない方を」
 ローレンスは、菁の助け舟を断るように、アンドルゥを見据え返した。
 殴られるだけで帰れるなどとは、端から思ってはいなかったのだ。他の全てを失っても、階が唯一の存在とするアンドルゥに、背中を向ける訳にはいかなかった。
「なら、言ってやろう。階はエリックと結婚させる」
「それは……っ」
「もちろん、階はエリックを愛している。おまえに向けたような一時の感情ではなく、ずっと長い確かな気持ちで――。ただ、選べないだけで」
「……選べないだけ?」
「おまえに全てを許しておいて、今更エリックを、とは言えないだろう?」
「……」
 ローレンスに全てを許しておいて、今更……。
 階なら、そうかも知れない。
「おまえを選ぶつもりなら、もうとっくに返事をしているはずだ。おまえにはすでに全てを許していて、誰に気兼ねをする必要もないんだからな。――違うか?」
「それは……」
 ローレンスを愛し、そのローレンスを選ばずに、他の人間を選ぶことなど、階には出来ない。ローレンスを選ぶつもりがあるのなら、キスを拒む必要もなかったのだから……。
「おまえが、楽ではない方を選んだんだ。だから、教えてやった。これで満足だろう?」
「……」
 アンドルゥの厳しい言葉に、ローレンスはきつくこぶしを握り締めた。
 すると――。
「まあ、それでは、ソアー家に面目は立っても、モンフォール家に面目が立たない」
 アンドルゥが言った。
「……どういう意味ですか? 僕に何をしろ、と?」
「簡単なことだ。このウォリック伯爵家に婚姻関係を求めたのだから、おまえにも伯爵家の血を譲ってやる」
「……意味が解りません」
 本当に何も判らなかった。――いや、アンドルゥが、ローレンスと階を結婚させるつもりがないことだけは、判っていた。
 だが、上流階級での婚姻関係には、愛情だけではなく、色々な打算やしがらみが付いて回る。
 モンフォール家の面目が立つように、ローレンスに何をさせようというのだろうか。
「おまえにも、結婚相手を用意した、ということだ」
 わずかも表情を変えず、アンドルゥが言った。
 ローレンスはその言葉に目を瞠り、そして、次には諦めたように、口を開いた。
「……確かに、モンフォールの祖父には、僕の結婚相手がウォリック伯爵家の人間でさえあれば、文句はないのかも知れません。ですが、僕は――」
「皮肉なことに、階は、甘やかされて育ったせいで、何も捨てることが出来ずにいる。おまえのことも、アールのことも――。エリックは、おまえのように強引に求めるような奴じゃないから、階も当分、自分の気持ちに気付くこともないだろう」
「……僕が、あなたの決めた相手と結婚すれば、フェリックスの側にいても構わない、ということですか?」
 アンドルゥの微妙な言い回しを問うように、ローレンスは訊いた。
「そうだ。階がそれを望んでいる以上、取り上げたりはしない。――おまえには、これ以上はない条件のはずだ。階がエリックを選べば、おまえはここを去るしかないし、誰も選ばなくても――結局は同じだ」
「……」
 他にどう言えた、というのだろうか。
「解りました」
 ローレンスは言った。
 アールが政略結婚を受け入れて、その代わりに階の側にいることを選んだように、ローレンスもまた、結婚などという手続きよりも、階といることの方が大切だったのだから。
 だが、その様子を見ていた菁が、
「馬鹿な奴――。相手くらいは訊いてから、返事をするものだ」
 と呟いたのを聞き、少しの不安と後悔が、過った……。


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