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番外編 エリック編

エリック編 14

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 アフガンの駐留英国兵は、一万人の規模に達している。
 そして、今月、その英国兵の死者は、アフガンでの軍事作戦を開始して以来、三五〇人を、越えた……。
 TVから流れる英首相の哀悼の意と、英兵の献身的な行為や犠牲……そんな言葉の繰り返しを、階は震える心で、聞いていた。
『エリックがそうしたい理由は解ってるから――。だから、引き止めない……』
 どうして、あんなことを言ってしまったのだろうか。不安なら、不安だと、そう口に出して言えば良かったのだ。こんな時に一人にせず、側にいて欲しい、と言えば良かったのだ。
 それなのに……。
 大人になる、ということは、少しずつ言いたい言葉を失っていく、ということなのかも、知れない。
「フェリー、駄目だよ、こんなTVは――。お腹の子まで不安になる」
 アールが部屋に来て、TVを消した。
 今まではTVを見る時間もなかったというのに、この体になってからというもの、皆に何もさせてもらえなくて、ついつい時間を持て余して、TVをつけてしまう時間が増えていたのだ。
 もちろん、つわりが辛くて、横になっている時間が多かったせいでもあるのだが。
「うん、ごめん……」
 階は言った。
「……やっぱり、ぼくも日本行きを遅らせるよ。君が安定期に入って、飛行機で日本に行けるようになってから、一緒に――」
「駄目だって、アール! 大事な実習なんだから――。それに、ロンドンにはアンディもラリーもいるし、桂だっているんだから」
 そう言った時、
「何だ、以外と元気そうだな」
 と、涼しげな切れ長の目をした、長身の男が姿を見せた。
 香港、ニューヨークの華僑組織をまとめ上げる、チャイニーズ・マフィアの首領ドン、李菁――。
「菁!」
 階は、その人物を前に腰を上げ、
「来るなら来るって言ってくれればいいのに!」
 と、保護者と言っても過言ではないその男に駆け寄り、抱きついた。
「突然、来た方が、抱きついてもらえる」
 菁の腕が、いつも以上に優しく、階を包む。そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、
「司……」
 と、祈るように、言った。
「――菁?」
 階が、聞こえなかった呟きに首を傾げると、
「いや――、ドクター・刄もこんな気持ちだったのかな、と思って、な」
 と、苦笑のように唇を歪めた。
 我が子も同然の階の妊娠と出産――誰かにその無事を祈らなくてはいられないような、そんな気持ちは――。
「ドクター・刄……? 誰、その人?」
 階は訊いた。
 誰も口にしたことのない、その名前に――。
 写真一枚残ってはいない、その人物に――。
「あ……ああ、そうか」
 菁はそれだけを呟くと、長い間、黙っていた。そして……。
「また、あいつと喧嘩になるな」
 と、今は仕事でいないアンドルゥの顔を思い浮かべるように、
「取り敢えず、座ろう。――つわりがあるんだろう?」
 と、階をソファに促して、優しく訊いた。
「うん……」
 今まで、菁もアンドルゥも桂も……誰一人として口に出さずに過ごして来た人物――その人物は、階にとって、一体どういう意味を持つ人物である、というのだろうか。
 誰もが階の前では口を噤んでいたのだから、それは、階には教えられない事情のある人物であるのかも、知れない。
「別に、君の前で口を噤んで来た訳じゃない……」
 菁はそう言って、その人物のことを話し始めた。
 階の前だから黙っていた訳ではなく、誰もが司の前で、その名前を口に出さないように沈黙を続けてきたために、いつの間にかその名前を口に出さない暗黙の了解のようなものが出来てしまっていたのだ。
「……お母さまのために?」
 だとすれば、その人物は、司の何であった、というのだろうか。


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