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番外編 エリック編

エリック編 20

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 櫂――。
 結局、その名前以外のことは何も訊かなかった。――いや、菁からは、彼のその生い立ちのことも、十六夜の施設と里親の間を行ったり来たりして育った幼少期のことも、その後、養子に貰われ――いや、貰われたと思っていたのに、実は司が内緒で柊の子供である草と生活させていたことも、聞いたのだが……。
 本人は何も言わないままにニューヨークに戻ってしまい、結局、本当に挨拶をしに来ただけだったのだ。
「あいつの初恋は司だったからなァ。その部分に関しては、雇い主にも逆らうつもりらしい」
 と、菁は言った。
 普段は菁にNOということなどないらしいが(口では何と言おうと)、司の子供である階が望んでいないことであれば、菁の言うことなど聞かない、という意味らしい。
「ふーん。――で、俺のいない時間に連れて来たってことは、かなり本気で考えてたわけだ」
 その経緯を聞き終えて、エリックは言った。
 やはり、自分がいない間に、階に誰かを紹介されるなど気分がいいことではない。
 同じベッドに入り、その柔らかい肢体を包み込むと、力任せに抱きすくめたい衝動に駆られてしまう。
「……言わない方が良かったかな? ――でも、菁は後で揉めると困るから、エリックには話しておけ、って」
 そんな階の言葉にも、
「くそっ。完全に俺を馬鹿にしてるな、あいつ」
 怒りは菁へ向くのである。
 何しろ、あちらは何をするのにも余裕があるのだから。
 それに比べて、エリックは――。
「心配ないって。菁はアンディのことだって馬鹿にするんだから」
「……」
 階なりの慰めなのだろうが、馬鹿にされていることを肯定されるのは、何だか……。
 しかも、今の言い方では、あのアンドルゥが馬鹿にされるくらいなのだから、エリックが馬鹿にされるのは当然で、心配いらない、と言われたようなものである。――いや、その通りだろう。
 もちろん、階に悪意がないことは承知しているが。
「……正直過ぎるのも困りものだ」
「ん?」
「いや、何でも……」
 幼い頃のままの砂糖菓子で出来た天使に、今も振り回されている自分がいる――この平和がずっと続く道を選ぶことも出来たはずだというのに。
「……フィッシュ&チップスが食べたい」
「へ?」
「今、チップスなら、食べられる」
 チップスといっても、この国で言うチップスは、日本で言うフライドポテトのことである。
「……。解った。買って来るよ」
 妊婦の嗜好はよく解らない。
 もちろん、つわりで少しずつしか食べられず、食べられそうな時に、食べられそうなものを食べておくしかないのは解っているが……。
 この後エリックは、ベッドを出てフィッシュ&チップスを買いに行くことになったのである……。


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