幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 3

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 四川省は中国の内陸部であり、中国最大の重化学都市たる重慶や、四川省の省都たる成都を除けば、ほとんどが農村である。
 今でこそ、成都には多くの外資系企業や、台湾、香港企業が企業活動の認可を受け、活発に活動しているが、それでも、農家は貧しいままだった。
 幼い二人が逃げ出した頃は、さらに。
 広東省から重慶までが三〇〇〇キロというなら、四川省の農村部から福建省までは、さらに長い道程があっただろう。子供の足では、辿り着くことなど出来ない距離だったのだ。
 それでも二人が辿り着くことが出来たのは、大人の助けがあったからである。
「こら、そこで何をしているんだ!」
 牛の糞の臭いを我慢して、暖かさを求めて小屋へ入ろうとした時、そう言って二人を怒鳴りつけた人物が、それだった。
 聞けば、その人物は村には必ずいるという〃業者〃の一人で、福州や広州の間を行き来している、という。
 国龍と水龍が、福州から美国へ行きたいのだ、と言うと、小柄なその男は、マジマジと二人の顔を眺めて、こう言った。
「フン……っ。子供にしてはきれいな顔立ちだな。女の子なら、もっと良かったんだが――。福州へ行きたいのなら、わしが連れて行ってやろう」
 その日から、二人は辛い思いをして歩く必要も、進むべき方向に迷うこともなくなった。決して快適とは言えなかったが、馬車の荷台に乗っていれば良かったのだ。
 もちろん、水龍は馬車酔いして吐いたり、熱を出したりも、した。
 馬車が止まってからも、まだ体が揺れているような気がして、体中が痛くなったりも、した。
「もう熱冷ましの薬がないんだから、これ以上、熱を出すなよ」
 無理なこととは解っていたが、国龍が言うと、水龍は、コクリ、とうなずいた。
 だが、やはり熱を出した。
 その時も、小柄な男は、親切に水龍のために薬を調達してくれたのだ。もちろん、そのお金は、福建に着いたら、働いて返すことになっていた。
 七〇年代からの改革解放で、沿岸地方は、内陸部の農家の何倍も金が稼げる、ということだったのだ。
「やさしい人だね、あのおじさん」
「……」
 水龍の言葉に、国龍は何故かうなずくことが出来なかった。
 多分、性格もあったのだろう。国龍は水龍のように人懐っこくもなく、他人とすぐに打ち解けるような人間ではなかったのだ。
 それは、小さい頃から(今でも小さいが)、人に頼り続けて来た水龍と、面倒を見てやる側だった国龍の違い、だったかも知れない。
 時には、母親に逢いたい、と言って泣く水龍を宥めたり――また、国龍も一緒に泣いたりも、した。
 母親が死んだ、ということは解っていても、もういなくなった、ということが信じられずにいたのだ。
 そして、福建へ着けば、何故か、母親に逢えるのではないか、というような気さえ、していた。もちろん、そんなことはあり得ないことなのだが……。


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