シークレット・ミッション

吉田 咲

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 山本主催のお笑いライブ会場は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
 今日のライブには、最近人気の出た若手芸人コンビが出演するらしく、チケットはすでに完売しているという。
 会場に入りきれなかったファンが彼らを一目見たいと、ライブハウスの外に行列を作っているのだと、下見に行った小寺から情報がはいっていた。

 健吾はチケットを持っていたが、念のため一般の入場口ではなく、関係者の出入りする裏口から中に入れてもらえるよう、あらかじめ山本に頼んでいた。
 しかし、狭いライブハウスのため。関係者入口はその実ただの裏口で、若手芸人コンビの入り待ちしていたファンに騒がれ、あやうく揉みくちゃにされるところだった。
 
「最近のファン、マナーがなってないからなぁ。悪かったな、健吾」
 ライブが始まる前に差し入れを持って訪ねた控室で、山本にそう謝罪される。
 くだんの若手芸人コンビも、健吾と山本に平謝り状態だ。
 急激に知名度が上がったタレントや芸人のファンが増えて騒動が起きることはよくあるので、「気にするな」と伝えると、若手二人はホッとした顔を見せた。

「健吾、客席から見てもらいたいのは山々だけど、今日は舞台袖から見てた方がいいかもしれないぞ」
 狭いライブハウスだ。客席にいるのが森本健吾だとわかったらパニックになるだろうと山本に言われ、残念だったが素直に諦めることにした。
 一気に観客に押し寄せられたら、さすがの北条でも健吾を守ることは難しい。
 楽しみにしていただけに客席で見られない事に悔しさを感じたが、ライブが成功している証拠だと思えば純粋に嬉しかった。

「せっかく来てくれたのにごめんな。舞台袖からだけど、楽しんでいってくれよ」
 今日の司会と大取りを務める山本が慌ただしく出ていくと、出演芸人が一同に集まる狭い控室からは知り合いがいなくなった。
 芸歴が浅い芸人たちの集まりなので、タレントとして成功している健吾には声をかけづらいらしく、みんなちらちらと様子を窺うばかりで、声をかけてくる者もいない。
 健吾自身は、とりたてて自分が成功しているとか有名人だという自覚はあまりないのだが、微妙な距離を感じて居辛くなったので、北条と共に舞台袖へ移動することにした。

 埃っぽい匂いのする暗い舞台袖へ入ると、照明の当てられた狭い舞台で山本があちこちに指示を出したり、機器の調整をしたりしていた。
 客席にはすでにちらほらと客が入っており、熱心に舞台上の山本を目で追っているのが見てとれる。
 健吾は、こういった小さなライブハウスならではの舞台と客席との親密感みたいなものが、とても好きだった。

「楽しそうだな」
 健吾の事を言ったのか、会場の様子を見て言ったのか。北条の声に、健吾はにっこりと笑い返す。
「俺、大好きなんだ、こういう空気」
 子供のようにはしゃぐ健吾の頭を、北条がくしゃくしゃとかき回す。
「清文さんとおまえがやってるの、見たことないが……」
 そういえば、という感じで北条が尋ねるのに、健吾はケラケラと笑い返す。
「だって俺たち、芸人じゃないもん。なんちゃってコンビタレントなんだよね。もともとバンドやってて、須崎社長じきじきにスカウトされて芸能界入ったの。俺が文ちゃんにいじられてるのがなんか面白いからって、二人セットで出されてるだけ」
 異色なんだよ、と言いながら健吾は少しの寂しさを覚える。
 もう最近ではただのタレントだ。誰も清文と健吾がコンビだという事に、重きをおいていない。

「ああ、それでおまえも清文さんも、歌ったり、映画やドラマに出たりしてるのか」
 北条が納得したように頷くのに、「そ、今やそっちが本業なの、俺たち」と健吾が答える。
「確かに、おまえは歌ってる方がいいな」
 声が良い、と北条に誉められてくすぐったい気持ちになり、健吾はきゅっと肩をすくめる。
 健吾の、男としてはハイトーンな声は、透明感があって響きがある、と女性に評判がいい。
 カラオケで女性が歌いやすいキーであるのも、人気の秘訣かもしれない。
 健吾としては、北条のようなとびきりの低音ボイスをうらやましく思うのだが。

 そうこうしているうちに舞台では山本の司会でお笑いライブがスタートし、健吾はおしゃべりをやめて舞台に集中した。
 途中、熱中しすぎて自分の立っている場所を忘れ、前のめりになっては舞台袖からはみ出しそうになるのを、後ろに立つ北条に引き戻されていた。
 ライブは一時間ほどで一旦休憩に入り、狭い舞台袖に人が密集する。
 健吾は、彼らの興奮と熱気で息がつまりそうになった。

「健吾、前半どうだった?」
 忙しい中、山本が気遣って声をかけにきてくれる。
 出番はまだなのに、後輩たちのために駆けずり回っているために、山本はすでに汗だくだった。
「すごくおもしろいよ!さっき挨拶してくれた子たちも、やっぱうまいなーって思った」
 興奮した様子の健吾に、山本が満足そうに笑う。

 後半も楽しんでってくれよ!と山本が去ろうとした瞬間、わあともきゃあとも区別のつかない悲鳴が上がり、自分の体が強く引かれて押し倒されるのを、健吾は感じた。
 ドン、という衝撃と共に、床に体を打ち付けられるのを感じる。
 痛みはほとんど感じず、その上強く抱きかかえられているのがわかったので、「ああ、転んだけど蒼馬が守ってくれたんだ」と単純に考えていた。
 北条の腕の中、ちらりと横に視線を向けると、同じように床に倒れている山本と目が合った。

「なんだ?何が起こったんだ?」
 なにがなんだか訳がわからないといった様子で山本が体を起こしたので、健吾も北条の腕から抜け出そうと身じろぐと、ぐっと低く呻く声が頭上から聞こえた。

「蒼馬?」
「え?!あっ!おい、大丈夫か?!」
 山本がこちらを見て、顔色を変えて立ち上がった。
「誰かっ!こっちこい!手を貸せ!」
 山本が周りに声をかけると、あわただしく人が集まってくる物音がした。
 北条にがっちり抱え込まれている健吾には、キョロキョロと頭を動かせる範囲以外の事はわからない。
 周りで何が起こっているのかさっぱりわからず、不安に苛まれる。
 良くないことが起こったらしいという事だけはわかり、ばくばくと心臓の鼓動が早鐘を打ち始めた。

「そっちからそっと持ち上げるんだ!ゆっくりだぞ!ゆっくり!」

 北条と健吾が倒れている周りに人が集まり、数人がかりで何かを持ち上げ始めた。
 健吾は訳がわからぬまま、北条を見上げる。
 頭の下には、どうやら北条の腕があるようだ。
 北条は、押し倒した際に健吾を潰さないように左腕で自分の体重を支え、右腕を頭の下に入れて床に激突するのをかばってくれていた。
 いつもは憎らしいぐらいに涼しげな顔が、今は苦悶に歪んでいる。
 ガランと音をたてて、鉄柱のようなものが北条の上から下ろされるのが見えた。
 一本、また一本……。
 最後の一本に手をかけられた時、北条が低く呻いた。

「やめて!蒼馬が……!」
 健吾が叫んだことで、山本が大きく手を振り、作業を止めるよう叫んだ。
 健吾の尋常でない様子に、山本が北条の左肩あたりで膝をついて二人をのぞき込み、「マズイな」と呟く。
「照明装置のエッジ部分が、彼の肩に刺さってるんだ。救急車を呼ばないと、どうにもならないぞ」
 山本の言葉に、健吾はぐらりと強い眩暈を覚える。
 北条が、倒れてきた鉄柱や照明器具から健吾をかばって怪我をしているのだと、そこでようやく理解することができた。
「蒼馬、蒼馬っ……」
 こんな状況でも、健吾を抱きかかえる北条の力はみじんも揺るがない。
 けれど北条の額には、苦痛の大きさを表すようにびっしりと汗が滲み出ていた。
「……救急車は、呼ぶな」
 振り絞るように、北条が山本に向かって声をかけた。
「あまり、騒ぐな。客席に聞こえる。それより力の強い奴2、3人でこいつを抜いてくれ」
 北条の言葉に、山本がぎょっとした顔で息を呑むのが見えた。
「だけど……」
「この感じだと、多分肩甲骨で止まっている。見た目ほど傷は深くないはずだから、抜いた後に何かで圧迫すればすぐに血は止まるだろう」
 北条は鉄柱を抜くように促すが、山本はためらう様子を見せる。
 しかし、「刺さってる方が重さで食い込んで痛いんだ。頼む」と北条に言われ、仕方なく仲間たちに声をかけた。
 山本は覚悟を決めたように「じゃあ、抜くぞ?」と言うと、北条の肩口にある照明装置に手をかけた。

「おい、そっち持て!それから、誰でもいいから、使ってないタオルありったけ持ってこい!」
 山本の指示で、数人がバタバタと楽屋へ走り去っていく。
 足元側に立っている男に声をかけ、タイミングを合わせて照明装置を持ち上げるよう指示すると、北条に「いいか?」と確認した。
「一気にいってくれ」
 痛いのは北条のはずなのに、健吾は息をつめ、北条の胸元をぎゅっと握りしめる。
 北条がちらりと健吾を見下ろし、「大丈夫だ。心配するな」とかすかに微笑んだ。
 ぐっと北条の体全体が緊張すると同時にガシャンという音がして、刺さっていたらしい照明装置が山本たちによって抜き去られた。
 直後、北条がフーッと長く息を吐いて脱力し、健吾にすべての体重を預けてきた。

「タオルで押さえるぞ」
 山本がしゃがみこんで傷口をタオルで圧迫しようとすると、「ああ、すまない」と北条が立ち上がりかけた。
「おい!立つなよ!結構出血してるんだぞ!」
 山本の制止も聞かず、北条は何事もなかったかのように立ち上がると、負傷していない右腕で健吾を抱え起こす。
「大丈夫だ。それより、客席が何かあったのかと騒ぎだしてるぞ。続けた方がいいんじゃないのか?」
 北条の肩に強くタオルを押し付ける山本に、北条が舞台へ行けと促す。
「だけど、あんたにこんな怪我させたままで公演なんて……」
「別に、あんたのせいじゃない。何かしないと気が済まないなら、出番を終えてる奴を一人貸してくれ。傷口押さえてもらわないと、血で床が汚れるからな」
 怪我をたいして気にとめていない様子の北条に面喰らいながらも、そんなことでいいのか?と、山本は近くにいた若手の芸人一人を呼び寄せる。
「傷なら俺が押さえるよ」
 自分も何か役立ちたいと、健吾がそう申し出たが、「お前はダメだ。俺の右側へ回れ。絶対に俺から離れるな」と北条にきつく言い渡され、側へ引き寄せられた。

 北条と肩を並べて歩く時、健吾はいつも左側に立っている。
 利き腕の右をあけておいて、何があっても対処できるようにする為なのだと柴田から聞いたことがある。
 それなのにわざわざ右側に回れというのは、怪我で左腕が使えないからなのに違いない。
 
 平気そうに見せているが、実際はかなり痛むのだろう。
 その証拠のように、北条の体に触れると、冷たい汗が服を濡らしているのがわかる。
「すまないが控室を貸してくれ。タオルで押さえたままついてきてもらえるか?」
 傷口を圧迫してくれている若手に声をかけると、北条は健吾を右腕でしっかりと抱え込むようにしてライブハウスの奥へと向かう。
 
 チラリと振り返ると、会場のスタッフらしき数人が、北条の血で汚れた床を拭いているのが見えた。
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