捨てられ聖女は、隣国で”香りの魔術師”として覚醒しました~冷徹公爵様の心を癒すのは、私だけの調香術です~

YY

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第5話:氷の公爵の秘密

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ユリウス・フォン・ヴァルテンベルク公爵に拾われてから、一週間が過ぎた。
私は「リーナ」という新しい名を与えられ、公爵邸の図書室の整理係兼、メイドの手伝いとしての日々を始めることになった。
「リーナ。お前は今日から、そう名乗れ。カオリという東方の名は、ここでは目立ちすぎる」
感情の読めないアイスブルーの瞳でそう告げられた時、私は「田中香」という、日本でのしがないOLだった自分が、この世界から完全に切り離されたのだと実感した。
公爵邸での生活は、あの絶望の森に比べれば、間違いなく天国だった。温かい食事、清潔な寝床、そして何より、命の危険がない。だが、その天国は、薄い氷の上に成り立っているような、絶え間ない緊張感に満ちていた。
私の主な仕事場である、天井まで本がぎっしりと詰まった巨大な図書室。そこは静かで、誰にも邪魔されない空間のはずなのに、私はいつも誰かの視線を感じていた。背の高い書架の陰から、磨き上げられた床に映る影から、まるで私の全てを値踏みするかのような、冷たい視線。
特に、公爵の側近である筆頭侍従の、ゲルハルトと名乗る初老の男性の目は厳しかった。彼は、私がユリウス公爵の前に出るたび、まるで主君に害をなす虫でも見るかのように、鋭い警戒の光をその目に宿すのだ。
「公爵様が情けをかけられたからといって、いつまでもここにいられると思うなよ、素性の知れぬ女め」
直接そう言われたわけではない。だが、彼の全身から放たれる雰囲気は、雄弁にそう語っていた。私は、自分が薄氷の上に立っていることを、毎日痛感させられた。だから、ひたすら真面目に働いた。埃っぽい古書の整理も、大変な量の洗濯も、文句一つ言わずにこなした。ここで追い出されたら、私にはもう行く場所がないのだ。
そんな私の姿を、ユリウス公爵が時折、遠巻きに観察していることにも、私は気づいていた。二階の渡り廊下から、庭園に面した執務室の窓から。彼の視線に気づいて顔を上げると、その姿はいつも、すっと影に隠れてしまう。彼は、私という「拾い物」の価値を、静かに、そして冷徹に見極めているようだった。
そんな日々の中で、私は、この館の主である彼の、小さな異変に気づき始めた。
まず、彼の執務室の明かりだ。私の部屋は、本館から少し離れた東棟の屋根裏にあったが、そこから公爵の執務室だけが、まるで不夜城のように、深夜まで煌々と明かりが灯っているのが見えた。他の部屋の明かりが全て消え、東の空が白み始める頃に、ようやく彼の部屋の光が消えることも、一度や二度ではなかった。
そして、朝食の席での彼の様子。広大な食堂の隅で、他の使用人たちと共に食事をとる私からは、上座に座る彼の姿が遠くに見える。他の者には分からないだろうが、私には見えた。完璧な姿勢でナイフとフォークを操る彼の、その眉間にかすかに刻まれる、深い皺。そして、考え事でもするように、指先でこめかみを、とん、と軽く押さえる仕草。それは、慢性的な痛みを抱える人間の、無意識の癖だった。
メイドたちの囁き声も、私の推測を裏付けた。
「旦那様、昨夜もお夜食にほとんど手をつけられなかったそうだわ…」
「ゲルハルト様が仰っていたけど、今日は特に旦那様のご機嫌が悪いから、誰も近づくな、ですって」
不眠。頭痛。そして、食欲不振。
私の頭の中で、バラバラだったピースが、一つの形を結び始めていた。
あの氷のように完璧な公爵様は、その仮面の下で、何か深い苦しみに苛まれているのではないだろうか。
その予感が確信に変わったのは、公爵邸に来てから十日目の夜のことだった。
その日、私はゲルハルト筆頭侍従に呼び出された。
「リーナ。公爵様がお呼びだ。至急、この資料を執務室まで届けろ。決して、粗相のないようにな」
彼の声には、私を試すような、意地の悪い響きが混じっていた。
私は緊張でこわばる手で分厚い資料の束を抱え、公爵の執務室へと向かった。重厚なマホガニーの扉を、恐る恐るノックする。
「…入れ」
中から聞こえてきたのは、いつもよりずっと低く、そして掠れた声だった。私は息をのみ、静かに扉を開けた。
部屋の中は、補助の燭台の明かりだけで、薄暗かった。そして、私は見てしまった。
いつもは背筋を伸ばし、完璧な姿勢を崩さない彼が、机に突っ伏すようにして、頭を抱えていたのだ。その肩は、苦痛をこらえるように、わずかに震えている。机の上には、いかにも高価そうな、青いガラスの小瓶が数本、無造作に転がっていた。おそらく、強い睡眠薬か、鎮痛薬の類だろう。その全てが、空だった。
「――っ!」
私の気配に気づいたのか、ユリウスが弾かれたように顔を上げた。
その瞬間、彼の顔から、苦悶に歪んだ人間らしい表情がすっと消え失せ、いつもの、氷のように冷たい無表情の仮面が、ぴたりと貼り付けられた。その変化は、あまりに一瞬で、まるで別の人間に入れ替わったかのようだった。
「…何の用だ」
常と変わらぬ、冷たい声。だが、その声がわずかに震えているのを、私は聞き逃さなかった。私は慌てて彼に駆け寄り、机の上に資料を置く。その時、私の視線が、机の上の空き瓶へと吸い寄せられた。
ユリウスは、その私の視線に気づいたのだろう。彼の瞳が、絶対零度の光を放った。
「見たことは、忘れろ」
それは、心臓を直接握りつぶされるような、鋭く冷たい命令だった。私は恐怖に身をすくませ、ただ頷くことしかできない。
だが、私の心に刻みつけられたのは、その冷たい言葉ではなかった。
彼が必死に隠そうとした、弱々しい姿。そして、あの苦悶の表情の奥に見えた、深い、深い苦悩の色。
(この人は、ただ冷たいだけの人じゃない…)
私の脳裏に、これまで集めてきたピースが次々とはまっていく。
(不眠、頭痛、そして、効果のない薬…。もしかしたら…)
私の専門知識が、恐怖よりも先に頭をもたげてくる。
(もしかしたら、私の『力』が、この人の助けになれるかもしれない…)
それは、専門家としての純粋な知的好奇心。そして、あの苦しむ姿を見てしまったことによる、わずかな確かな共感。
絶望の森から私を拾い上げた謎めいた公爵の本当の姿。その秘密の扉を私は今、ほんの少しだけ開けてしまったのかもしれない。
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