捨てられ聖女は、隣国で”香りの魔術師”として覚醒しました~冷徹公爵様の心を癒すのは、私だけの調香術です~

YY

文字の大きさ
6 / 32

第6話:香りの記憶

しおりを挟む
あの夜以来、ユリウス公爵の苦悶の表情が、私の脳裏から離れなかった。
日中、図書室で古書の整理をしている時も、中庭でシーツを干している時も、ふとした瞬間に思い出してしまう。机の上で無造作に転がっていた、空の小瓶。そして、一瞬だけ見せた、彼の弱々しい姿。
私に与えられた屋根裏部屋は、簡素だが、静かで安全な場所だった。夜、一人でベッドに入ると、様々な考えが頭をよぎる。
(私は、このままでいいのだろうか…)
公爵様は、私を「監視下に置く」と言った。その言葉通り、私はただ、与えられた仕事をこなし、息を潜めていれば、少なくともあの森へ追い返されることはないだろう。それが、最も賢く、安全な生き方のはずだ。
(でも…)
彼のあの顔。氷の仮面の下に隠された、深い苦しみ。あれだけの高価な薬が効かないほどの、根深い痛み。
その原因が何であれ、彼が限界に近いことは、素人の私にだって分かった。
あの苦しみを知っていて、何もしない。それは、正しいことなのだろうか。
ふと、日本の記憶がよみがえる。
私が趣味で集めた何十種類ものエッセンシャルオイルやハーブの知識を、友人たちは決まってこう評した。
「へえ、いい趣味だね。でも、それって何かの役に立つの?」
悪気のない、素朴な疑問。だが、その言葉はいつも、私の胸に小さな棘のように刺さった。私の愛するこの世界は、誰の役にも立たない、ただの自己満足なのだと、突きつけられているようで。
(もし、私の知識が、本当に人の役に立つとしたら…)
ユリウス公爵は、私をあの絶望の森から救い出してくれた。理由は何であれ、彼がいなければ、私は今頃、獣の餌食になっていただろう。
これは、私の力を証明するための、千載一遇の好機かもしれない。
いや、違う。
そんな打算的な考えは、すぐに打ち消した。
これは、恩返しなのだ。彼が私に与えてくれた命と、この安全な居場所に対する、私にできる、たった一つの、ささやかな恩返し。
決意は、静かに、しかし固く、私の胸に宿った。
とはいえ、闇雲に動くことはできない。まずは、情報収集からだ。
翌日、私は厨房で、公爵家に長年仕えているという、古参の侍女に話しかける機会を窺った。エルスベスという名の、白髪を綺麗に結い上げた、優しそうな老婆だった。
私は、他のメイドたちを手伝いながら、ごく自然を装って尋ねた。
「エルスベス様。旦那様は、お休みになる前に、何か決まって飲まれるハーブティーなどはございますか?リラックスできるようなものを、お淹れできたらと思いまして…」
エルスベスは最初、私を警戒するような目で見た。新入りの、それも素性の知れない私が、主人のプライベートに踏み込むことを、快く思わないのは当然だろう。
「公爵様のお好みは、私たちが把握しております。お気遣いは無用ですわ」
その声は、穏やかだが、はっきりとした拒絶を含んでいた。
私は、それでも諦めなかった。
「申し訳ありません。ですが、昨夜、旦那様がとてもお辛そうにしているのをお見かけして…。何か、私にできることはないかと思ったのです。差し出がましいとは、分かっているのですが…」
私の声には、自分でも驚くほど、真剣な響きがこもっていた。その必死さが伝わったのかもしれない。エルスベスの厳しい表情が、ふっと和らいだ。彼女は、周囲に人がいないことを確認すると、声を潜めて、重いため息と共につぶやいた。
「…あの子は、ただのお疲れではないのです」
あの子、という呼び方に、彼女がユリウス公爵を幼い頃から見てきたことが窺えた。
「旦那様のご不眠は、もう何年も前…。先代の公爵様が亡くなられた、あの痛ましい『事件』以来、ずっと続いているのです。王都のお医者様が処方したどんな薬も、もう、ほとんど…」
そこまで言うと、彼女ははっと口をつぐんだ。「余計なことを申しました。今の話は、お忘れになって」
そう言って、エルスベスは足早にその場を去っていった。
私は、その場に立ち尽くしていた。
(先代の公爵様の死。『事件』…)
断片的な情報。だが、それは、私の頭の中の霧を晴らすには、十分すぎるほどの光だった。
その夜、私は自室のベッドの上で、得られた全ての情報を組み立てていた。
(ただの不眠や頭痛じゃない。原因は、数年前に起きた、父親の死を伴う『トラウマ』。ならば、対処すべきは肉体じゃない。彼の心。記憶に刻まれた、深い傷だ)
私の脳内で、日本で学んだ何百という香りのデータが、高速で検索され、組み合わさっていく。
(ただ心を落ち着かせるだけの、ラベンダーやカモミールだけでは足りない。それは、表面的な緊張を和らげるだけ。もっと、魂の奥深くに届く処方が必要だ)
まず、核となる、ベースの香り。
(精神を深く安定させ、地に足をつけるための香り…。それなら、白檀(サンダルウッド)しかない。古来から、瞑想や宗教儀式で使われてきた、聖なる木。彼の荒れ狂う思考を、静かな森の奥深くへと誘う)
次に、中心となる、ハートの香り。
(過去の傷、心のわだかまりを癒す香り…。乳香(フランキンセンス)が最適だ。古代エジプトでは、神への捧げ物とされた神聖な樹脂。その甘く、澄んだ香りは、古い悲しみを浄化し、心を再生させる力がある)
そして、最後に、全体の印象を決め、即効性をもたらす、トップの香り。
(過敏になった神経を優しく鎮める、ローマン・カモミールを、ほんの少し。そして、心の重荷を取り除き、前を向く力を与えるために、柑橘系のベルガモットを一滴…)
レシピは、完璧だった。それぞれの香りが持つ力が、互いを高め合い、作用する。それは、付け焼き刃の知識では決して到達できない、確信に満ちた処方箋。私の頭の中には、その香りが、まるで現実のもののように、豊かに立ち上っていた。
しかし、次の瞬間、私は厳しい現実に引き戻される。
高揚感は、一瞬で絶望に変わった。
(…そうだ。私には、何もない)
完璧なレシピは、頭の中にしかない。それを形にするための、肝心の材料も、乳鉢や乳棒といった調合のための道具も、そして、火を灯すための香炉も。私には、そのどれ一つとして、無かった。
私は、この素晴らしい処方箋を、ただの空想のまま、終わらせてしまうしかないのだろうか。
いやだ。
絶対に、いやだ。
あの苦しむ彼を、助けられるかもしれない唯一の道を、諦めたくない。
私に、材料と、場所と、そして「許可」を与えられる人物は、この公爵邸にただ一人しかいない。
私は、覚悟を決めた。
ベッドから立ち上がり、部屋の扉を開ける。深夜の廊下は、しんと静まり返っている。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は、あの、重厚なマホガニーの扉へと向かう。
ユリウス公爵の執務室。
どうか、話だけでも、聞いてもらえますように。
追い出されてもいい。罵られてもいい。だから、どうか。
扉の前で、私の足が止まる。
震える右手を、ゆっくりと持ち上げる。
私の人生で、最も勇気がいるノックをしようとするその指先が、小さく、しかし確かに、震えていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王家を追放された落ちこぼれ聖女は、小さな村で鍛冶屋の妻候補になります

cotonoha garden
恋愛
「聖女失格です。王家にも国にも、あなたはもう必要ありません」——そう告げられた日、リーネは王女でいることさえ許されなくなりました。 聖女としても王女としても半人前。婚約者の王太子には冷たく切り捨てられ、居場所を失った彼女がたどり着いたのは、森と鉄の匂いが混ざる辺境の小さな村。 そこで出会ったのは、無骨で無口なくせに、さりげなく怪我の手当てをしてくれる鍛冶屋ユリウス。 村の事情から「書類上の仮妻」として迎えられたリーネは、鍛冶場の雑用や村人の看病をこなしながら、少しずつ「誰かに必要とされる感覚」を取り戻していきます。 かつては「落ちこぼれ聖女」とさげすまれた力が、今度は村の子どもたちの笑顔を守るために使われる。 そんな新しい日々の中で、ぶっきらぼうな鍛冶屋の優しさや、村人たちのさりげない気遣いが、冷え切っていたリーネの心をゆっくりと溶かしていきます。 やがて、国難を前に王都から使者が訪れ、「再び聖女として戻ってこい」と告げられたとき—— リーネが選ぶのは、きらびやかな王宮か、それとも鉄音の響く小さな家か。 理不尽な追放と婚約破棄から始まる物語は、 「大切にされなかった記憶」を持つ読者に寄り添いながら、 自分で選び取った居場所と、静かであたたかな愛へとたどり着く物語です。

竜王に嫁いだら、推しの半竜皇子の継母になりました〜冷酷な夫には興味ありませんが、闇落ち予定の皇子は私が全力で幸せにします!〜

せりもも
恋愛
転生したのは、web小説の世界だった。物語が始まる前の時間、隣国の竜王へ嫁ぐ薄幸の王女、デジレに。 結婚相手である竜王ワッツァは、冷酷非道で人間を蔑む恐ろしい竜人だ。彼はデジレを、半竜(半分竜で半分人間)である息子の養育係としかみていない。けれどその息子バートラフこそ、前世の「わたし」の最オシだった。 この世界のバートラフはまだ5歳。懸命に悪ガキぶっているけど、なんてかわいいの!? 小説のバートラフは、闇落ちして仲間の騎士たちに殺されてしまうけど、そんな未来は、絶対に許さないんだから!  幼いバートラフに対する、愛情いっぱいの子育ての日々が始まる。やがて彼の成竜への通過儀礼を経て、父の竜王は、デジレに対して執着を見せ始める。 ところが、竜と人間の戦争が始まってしまう。おとなになったバートラフは人間側につき、聖女の騎士団に入った。彼は、父の竜王に刃を向けられるのか? そして、転生者デジレに与えられたスキル「プロットを破断する者」を、彼女はどう発動させるのか。

【完結】人々に魔女と呼ばれていた私が実は聖女でした。聖女様治療して下さい?誰がんな事すっかバーカ!

隣のカキ
ファンタジー
私は魔法が使える。そのせいで故郷の村では魔女と迫害され、悲しい思いをたくさんした。でも、村を出てからは聖女となり活躍しています。私の唯一の味方であったお母さん。またすぐに会いに行きますからね。あと村人、テメぇらはブッ叩く。 ※三章からバトル多めです。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

追放聖女の薬草店~光らない無能と言われた私の治癒力は、最強騎士団長の呪いにだけ効くようです。辺境で始める溺愛スローライフ~

黒崎隼人
恋愛
「君の力だけが、俺を救ってくれる」 派手な光を放つ魔法が使えず、「光らない無能」として国を追放された聖女エリナ。 彼女は辺境の村で廃屋を買い取り、念願だった薬草店をオープンする。 相棒の精霊獣ポポと共にスローライフを始めたある嵐の夜、店の前に倒れていたのは、国の最強騎士団長ゼフィルだった。 「黒竜の呪い」に侵され、あらゆる魔法を受け付けない彼の体。 しかし、エリナの持つ「細胞そのものを活性化させる」地味な治癒力だけが、彼の呪いを解く唯一の鍵で……!? 無能扱いされた聖女と、余命わずかの最強騎士。 二人が辺境で紡ぐ、温かくて幸せな再生と溺愛の物語。

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

「女のくせに強すぎて可愛げがない」と言われ婚約破棄された追放聖女は薬師にジョブチェンジします

紅城えりす☆VTuber
恋愛
*毎日投稿・完結保証・ハッピーエンド  どこにでも居る普通の令嬢レージュ。  冷気を放つ魔法を使えば、部屋一帯がや雪山に。  風魔法を使えば、山が吹っ飛び。  水魔法を使えば大洪水。  レージュの正体は無尽蔵の魔力を持つ、チート令嬢であり、力の強さゆえに聖女となったのだ。  聖女として国のために魔力を捧げてきたレージュ。しかし、義妹イゼルマの策略により、国からは追放され、婚約者からは「お前みたいな可愛げがないやつと結婚するつもりはない」と婚約者破棄されてしまう。  一人で泥道を歩くレージュの前に一人の男が現れた。 「その命。要らないなら俺にくれないか?」  彼はダーレン。理不尽な理由で魔界から追放された皇子であった。  もうこれ以上、どんな苦難が訪れようとも私はめげない!  ダーレンの助けもあって、自信を取り戻したレージュは、聖女としての最強魔力を駆使しながら薬師としてのセカンドライフを始める。  レージュの噂は隣国までも伝わり、評判はうなぎ登り。  一方、レージュを追放した帝国は……。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

処理中です...