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第26話:認知―王子の過ち
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ユリウスが私にすべてを委ねると、静かだが力強い言葉が響いた。
まるで合図のように、広場を支配していた喧騒も狂気も絶望も、私の意識からすっと遠ざかっていく。私の周りだけが、深い水の底のように静寂に包まれた。
私はゆっくりと広場の中央へ歩み出る。そこには、老神官テオドールが手配してくれたのだろう、穢れのない白磁の香炉がいくつか静かに置かれていた。
目を閉じる。もう私を蔑んだ王子の顔も、廷臣たちの嘲笑も心には浮かんでこない。脳裏に浮かぶのは、瘴気に苦しむ名もなき民の顔。私を信じ、手を差し伸べてくれたユリウスの真摯な瞳。そして、あの屈辱の日、ただ一人、私の力の本質を見抜いてくれた老神官の、驚愕と希望に満ちた眼差しだった。
(これは、私の証明)
心の中で静かに、しかし強く呟く。
(派手な光だけが奇跡じゃない。静かに寄り添い、内側から魂を癒す力もまた、本物の救いなのだと)
(私が、私であることの証明だ)
ゆっくりと目を開け、一つ、また一つと、白磁の香炉の蓋をそっと開けていく。光も音もない。ただ、この絶望に満ちた世界を根底から変えるための、静かな儀式が今、始まった。
香炉から、目に見えるかのように清浄な「気」がふわりと立ち上り、香りが生まれた。
それはただの花や木の香りではない。雨上がりの朝の森、陽光を浴びた温かい土、何百年もの祈りが染み込んだ古の大神殿に満ちる、神聖な香り。それらすべてを一つにしたような、魂を優しく揺さぶる救済の香りだった。
香りは風に乗り、波紋のように広場の隅々まで静かに、急速に広がっていく。
奇跡は誰の目にも明らかだった。広場を呪いのように覆っていた淀んだ黄色の瘴気が、香りに触れた瞬間から、陽光に溶ける朝霧のようにさざ波を立てて消えていく。
重く息苦しかった空気が澄み渡っていく。空を覆っていた薄汚れた紗が取り払われ、本来の抜けるような青空が姿を現した。
この劇的な変化は、人々の体にも直接作用した。広場の隅で激しく咳き込んでいた老婆の呼吸がふっと楽になる。母親の腕の中でぐったりとしていた子供の、瘴気で浮き出ていた斑点がみるみるうちに薄れていく。人々は、自分たちの体が肺の奥深くから浄化され、失われていた生命力が再びみなぎってくるのを確かに感じていた。
広場は歓声よりも先に、感極まった嗚咽に包まれる。誰からともなく、人々はその場に膝をつき始めた。それは絶望からの解放と、あまりにも大きな奇跡に対する、感謝と畏敬の祈りだった。
やがて、その祈りの対象はただ一人に収束していく。
「聖女様……」
誰かが震える声で呟いた。
「本物の聖女様が……おられたのだ……!」
その囁きは次々と伝染し、抑えきれない熱狂的な大合唱へと変わっていった。
「リーナ様!」「リーナ聖女様!」
その歓声は、もはやユナに向けられた作られた熱狂ではない。人々が心の底から、魂の底から絞り出した、本物の祈りの声だった。
地鳴りのような歓声のただ中で、王子エドウィンだけが玉座のそばで血の気を失った顔で呆然と立ち尽くしていた。
彼は目の前の光景を、ただ信じられないといった表情で見つめている。民衆の熱狂的な感謝と崇拝の視線。それが、自分がゴミのように捨てた地味な女一人に注がれている。隣には、宿敵であるユリウスが誇らしげに彼女を守るように立っている。
彼の頭の中で、これまでの全てのピースがパチパチと音を立て、恐ろしい形で繋がっていった。
(嘘だ……こんな力が、あの女に……?いや、違う。老神官は最初から気づいていたのだ。西部の農村も北の鉱山も、この女が救ったという馬鹿げた報告は、すべて真実だったのだ……!)
(私は……なぜだ?なぜ、この本物の奇跡を見抜けなかった……?そうだ、私は……怖かったのだ。弱体化していく国、突き上げてくる貴族、嘲笑う近隣諸国……。私は、ただ、民をまとめ、国威を示すための、分かりやすい『光』という名の偶像が欲しかっただけなのだ……!)
そして彼は、決して認めたくなかった究極の、あまりにも残酷な真実にたどり着く。
(この国を傾けたのは、瘴気などではない。この、私だ。国を救う唯一の希望を、たった一つの本物の奇跡を、自らの愚かな焦りと矮小なプライド、臆病な恐怖心によって、私は……この私自身の手で……捨てたのだ……!)
がくん、と彼の膝から力が抜けた。全身の血の気が引いていく。完璧に整えられていたはずの、輝かしい王子の仮面が音を立てて剥がれ落ちていく。
その下に現れたのは、もはや王族の威厳などどこにもない。ただ、取り返しのつかない過ちを犯した、愚かで哀れな一人の男の、絶望に歪んだ顔だった。
「私……が……間違って……いた……?」
エドウィンが力なく膝から崩れ落ちるのと、民衆の「リーナ聖女様!」という歓声が天を衝くほどに最高潮に達したのは、ほぼ同時だった。
その時。
宮殿のバルコニーで、一部始終を病身に鞭打って見届けていた国王が、侍従の肩を借り、ゆっくりと、しかし確かに立ち上がった。
その顔には、愚かな息子への深い悲しみと、王としてこの国のすべてに責任を負う者としての、最後の覚悟が浮かんでいた。
彼は震える手で、広場で崩れ落ちる自らの息子を指し示した。
そして、魔法で増幅された厳かで揺るぎない声が、王都の隅々まで響き渡る。
「――近衛騎士団長!我が息子、エドウィンを捕らえよ!」
「国王に対する反逆と、王国と民を危機に陥れた、大罪人として!!」
そのあまりにも重い裁きの言葉。
それは一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる、荘厳な鐘の音のように、王都の空にいつまでも響き渡っていた。
まるで合図のように、広場を支配していた喧騒も狂気も絶望も、私の意識からすっと遠ざかっていく。私の周りだけが、深い水の底のように静寂に包まれた。
私はゆっくりと広場の中央へ歩み出る。そこには、老神官テオドールが手配してくれたのだろう、穢れのない白磁の香炉がいくつか静かに置かれていた。
目を閉じる。もう私を蔑んだ王子の顔も、廷臣たちの嘲笑も心には浮かんでこない。脳裏に浮かぶのは、瘴気に苦しむ名もなき民の顔。私を信じ、手を差し伸べてくれたユリウスの真摯な瞳。そして、あの屈辱の日、ただ一人、私の力の本質を見抜いてくれた老神官の、驚愕と希望に満ちた眼差しだった。
(これは、私の証明)
心の中で静かに、しかし強く呟く。
(派手な光だけが奇跡じゃない。静かに寄り添い、内側から魂を癒す力もまた、本物の救いなのだと)
(私が、私であることの証明だ)
ゆっくりと目を開け、一つ、また一つと、白磁の香炉の蓋をそっと開けていく。光も音もない。ただ、この絶望に満ちた世界を根底から変えるための、静かな儀式が今、始まった。
香炉から、目に見えるかのように清浄な「気」がふわりと立ち上り、香りが生まれた。
それはただの花や木の香りではない。雨上がりの朝の森、陽光を浴びた温かい土、何百年もの祈りが染み込んだ古の大神殿に満ちる、神聖な香り。それらすべてを一つにしたような、魂を優しく揺さぶる救済の香りだった。
香りは風に乗り、波紋のように広場の隅々まで静かに、急速に広がっていく。
奇跡は誰の目にも明らかだった。広場を呪いのように覆っていた淀んだ黄色の瘴気が、香りに触れた瞬間から、陽光に溶ける朝霧のようにさざ波を立てて消えていく。
重く息苦しかった空気が澄み渡っていく。空を覆っていた薄汚れた紗が取り払われ、本来の抜けるような青空が姿を現した。
この劇的な変化は、人々の体にも直接作用した。広場の隅で激しく咳き込んでいた老婆の呼吸がふっと楽になる。母親の腕の中でぐったりとしていた子供の、瘴気で浮き出ていた斑点がみるみるうちに薄れていく。人々は、自分たちの体が肺の奥深くから浄化され、失われていた生命力が再びみなぎってくるのを確かに感じていた。
広場は歓声よりも先に、感極まった嗚咽に包まれる。誰からともなく、人々はその場に膝をつき始めた。それは絶望からの解放と、あまりにも大きな奇跡に対する、感謝と畏敬の祈りだった。
やがて、その祈りの対象はただ一人に収束していく。
「聖女様……」
誰かが震える声で呟いた。
「本物の聖女様が……おられたのだ……!」
その囁きは次々と伝染し、抑えきれない熱狂的な大合唱へと変わっていった。
「リーナ様!」「リーナ聖女様!」
その歓声は、もはやユナに向けられた作られた熱狂ではない。人々が心の底から、魂の底から絞り出した、本物の祈りの声だった。
地鳴りのような歓声のただ中で、王子エドウィンだけが玉座のそばで血の気を失った顔で呆然と立ち尽くしていた。
彼は目の前の光景を、ただ信じられないといった表情で見つめている。民衆の熱狂的な感謝と崇拝の視線。それが、自分がゴミのように捨てた地味な女一人に注がれている。隣には、宿敵であるユリウスが誇らしげに彼女を守るように立っている。
彼の頭の中で、これまでの全てのピースがパチパチと音を立て、恐ろしい形で繋がっていった。
(嘘だ……こんな力が、あの女に……?いや、違う。老神官は最初から気づいていたのだ。西部の農村も北の鉱山も、この女が救ったという馬鹿げた報告は、すべて真実だったのだ……!)
(私は……なぜだ?なぜ、この本物の奇跡を見抜けなかった……?そうだ、私は……怖かったのだ。弱体化していく国、突き上げてくる貴族、嘲笑う近隣諸国……。私は、ただ、民をまとめ、国威を示すための、分かりやすい『光』という名の偶像が欲しかっただけなのだ……!)
そして彼は、決して認めたくなかった究極の、あまりにも残酷な真実にたどり着く。
(この国を傾けたのは、瘴気などではない。この、私だ。国を救う唯一の希望を、たった一つの本物の奇跡を、自らの愚かな焦りと矮小なプライド、臆病な恐怖心によって、私は……この私自身の手で……捨てたのだ……!)
がくん、と彼の膝から力が抜けた。全身の血の気が引いていく。完璧に整えられていたはずの、輝かしい王子の仮面が音を立てて剥がれ落ちていく。
その下に現れたのは、もはや王族の威厳などどこにもない。ただ、取り返しのつかない過ちを犯した、愚かで哀れな一人の男の、絶望に歪んだ顔だった。
「私……が……間違って……いた……?」
エドウィンが力なく膝から崩れ落ちるのと、民衆の「リーナ聖女様!」という歓声が天を衝くほどに最高潮に達したのは、ほぼ同時だった。
その時。
宮殿のバルコニーで、一部始終を病身に鞭打って見届けていた国王が、侍従の肩を借り、ゆっくりと、しかし確かに立ち上がった。
その顔には、愚かな息子への深い悲しみと、王としてこの国のすべてに責任を負う者としての、最後の覚悟が浮かんでいた。
彼は震える手で、広場で崩れ落ちる自らの息子を指し示した。
そして、魔法で増幅された厳かで揺るぎない声が、王都の隅々まで響き渡る。
「――近衛騎士団長!我が息子、エドウィンを捕らえよ!」
「国王に対する反逆と、王国と民を危機に陥れた、大罪人として!!」
そのあまりにも重い裁きの言葉。
それは一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる、荘厳な鐘の音のように、王都の空にいつまでも響き渡っていた。
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