氷の侯爵令嬢は、温室の騎士に融かされる

YY

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序章:氷の心に刻まれた烙印

今日もまた、広間は異常なまでに整っていた。あの大理石の床も壁のタペストリーもシャンデリアのきらめきも「完璧」であることを私に強要してくるかのようだった。ごく微かに息が詰まりそうになる——その感覚すら私は打ち消そうとした。その中央に立つのは私、セレフィア・ド・アルジェント。銀色の髪は夜空の星のように冷たく輝き青い瞳には感情の波一つ見えやしない。周囲は私を「氷の侯爵令嬢」と呼んだ。その呼び名は、私の心そのものを表していた。

物心ついた頃から感情を表に出すことは許されなかった。アルジェント侯爵家は代々王家を支える重鎮。淑女たるもの常に冷静沈着であれ。常に完璧であれ。それが幼い私に叩き込まれた唯一の教えだった。少しでも失敗すれば父の厳しい視線が突き刺さり母の嘆きが私を責める。一糸乱れぬ所作は、もはや反射だった。背筋、角度、目線、声の音量……それら全てが父の「失望」を回避するための防衛機構にすぎない。あの庭の陽射しは、まるで私を裁く光のようだった。父の声が氷となって心に突き刺さり二度と溶けることのない“印”を私の心に刻んだ——それが私の“氷の心”の始まりだった。その瞬間から私は感情の全てを凍てついた井戸の奥底に沈めた。完璧を演じ続けるために感情の揺らぎは私の弱みになる。そう思い込んだ私は、震える指先に気づかないふりをして心に厚い氷の膜を張り続けたのだ。

どれほど努力を重ねても父の口から「よくやった」という言葉が出ることはなかった。ただ「当然だ」と、針のような感情の籠らない声で言われるだけだった。私の存在は侯爵家にとっての「道具」であり私自身もそうあるべきだと信じて疑わなかった。喜びも悲しみも怒りも悔しさも全ては心の奥底に封じ込めた。私の内側では、常に何かを押し殺す音が響いていた。

婚約者である第二王子、エドワード殿下も私をそう見ていたのだろう。最近殿下が私に会う頻度が減っていた。公務が忙しいと侍従は言ったが彼の視線が妙に上の空なことに気づいていた。そして、王都では「聖女イリスの慈悲深さが殿下の心を癒している」という噂が囁かれ始めていた。殿下はいつも私に優しい言葉をかけてくれたものの瞳の奥にはどこか諦めのような色が見え隠れしていた。殿下は私の完璧な態度を「感情がない」と解釈したのだ。その誤解を解く術を私は知らなかった。いや、知ろうともしなかったのかもしれない。感情を出すことがどれほど恐ろしいことか。それを知っているのは、この私だけだったから。

そして、その日は突然訪れた。

「セレフィア、貴様との婚約を破棄する」

舞踏会が最高潮に達したその時、エドワード殿下の声が広間に響き渡った。陽気な音楽が止まり人々のざわめきが急速に収まる。全ての視線が刃のように私に突き刺さった。背筋に冷たいものが走るが顔には決して出さない。それがアルジェント侯爵令嬢としての揺るぎない矜持だった。

「殿下、いかがなされましたか?」
私の声はいつも通り、感情の欠片も感じさせない。だが、その内側では心臓が皮膚のすぐ下で暴れ出すように激しく脈打ち感情が胸の奥で静かに崩れていくようだった。これまで積み重ねてきた私の人生が一瞬で音を立てて崩壊するような感覚が襲った。

殿下は私の隣に立つ一人の少女に視線を向けた。柔らかな蜂蜜色の髪、か弱い印象を与える細い体つき。そして聖母のように慈愛に満ちた、今にも泣き出しそうな瞳。聖女候補イリス・フローラ。彼女は王都で最近評判の的だった。人々の心を癒す不思議な力を持つとされ、その優しさは殿下をも魅了したらしい。

「セレフィア……君は、あまりにも……完璧すぎるんだ」
彼は言葉を探すように視線を泳がせた。その目に宿る苦悩は、私には遠いものだった。
「君の沈黙が……ときどき、僕を見下しているように感じられてしまったんだ。わかってる、君が悪いわけじゃない。でも僕は……怖かったんだ。君の“冷たさ”が、僕の“未熟”を暴くようで。私には、君のような存在よりも、もっと温かく心を分かち合える相手が必要なのだ。イリスは、私の心に寄り添ってくれる。彼女こそがこの国の真の聖女に相応しい」

イリスはおずおずと殿下の腕に寄り添った。その表情は申し訳なさそうに下を向いているが足取りには不思議な迷いのなさが殿下を見上げる瞳には確かな熱が宿っていた。まるで誰にも気づかれないように彼女は殿下の袖を握っていた。イリスは潤んだ瞳で殿下を見上げていたが、ほんの一瞬——ほんの刹那、その目の奥に得体の知れない確信の光が宿ったように思えた。俯いた彼女の唇が、ほんの一瞬、確かに笑ったように見えた——けれど、それは私の見間違いかもしれない。あのときのイリスの笑みは、確かに柔らかく……けれど、なぜか胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。それは、風ではない。記憶でもない。私の知らない何か異質な感覚だった。私には理解できなかった。心が温かいとは、どういうことなのだろう? 感情を分かち合うとは? 私の全ては、この国の未来のため、殿下のため、そして何よりも侯爵家のために捧げてきた完璧さだけだったのに。それ以外に私の価値はどこにもなかったはずだ。

周囲からひそひそと囁き声が聞こえる。「あらあら、ついにやられたわね」「氷の令嬢なんて、結局は飾り物だったのよ」。そんなひそひそ声がまるで針のように私の耳を突き刺していた。誰もが私を感情を持たない冷酷な存在だと決めつけていた。

私の心は深く深く傷ついていた。これまで経験したことのないほどの絶望感が私を支配しようとする。しかし、その痛みは誰にも見せない。唇をきつく結び顔には決して出さなかった。それが私の唯一の生きる術だったから。仮面こそが私の顔だった。

婚約破棄されたその晩、鏡の前で自分の表情を見た。
そこには、確かに“何も感じていないはず”の私がいたはずなのに。
涙の痕ではない。それでも私は、目尻に残ったわずかな湿りに確かに何かが崩れたことを悟った。音もなく静かに氷の奥底で。

婚約破棄の影響は甚大だった。アルジェント侯爵家は王家からの信頼を失い長年築き上げてきた事業にも影響が出始めた。私の父は激怒し母は嘆き悲しんだ。私は責任を取る形で名目上「体調不良」として、領地にある古い別荘で謹慎することになった。それは、事実上の「追放」だった。

別荘は領地の最も奥まった場所にひっそりと佇む朽ちかけた建物だった。かつては避暑地として使われていたようだが今は手入れも行き届かず庭は荒れ放題だ。窓から差し込む光さえも寂しげに見えた。
しかし、整いすぎた広間よりも荒れたこの庭の方が、なぜか心が落ち着いた。ここには、私の“完璧”を測る視線も冷たい評価もない。吹き抜ける風の音だけが私を「私」として許してくれているようだった。私はこの場所で、誰にも邪魔されることなく静かに傷を癒すつもりだった。しかし、父は私を完全に放置するわけにはいかなかったのだろう。あるいは、監視目的だったのかもしれない。

「セレフィア様、本日よりお世話させていただきます、レオンと申します」
別荘に着いて数日後、そこに現れたのは私よりも年若い一人の少年だった。
少年の瞳は、氷を恐れるどころかその中に“何か”を探しているようだった。
「氷は、砕けても美しいんです」
その言葉が胸の奥で長い間止まっていた歯車をほんの少しだけ軋ませたような気がした。彼の言葉遣いは、意外なほど洗練されていた。
「……では、食事のご準備を」
「……ああ、頼む」
自分の声が僅かに震えたことに気づいて、私は息を呑んだ。誰にも見せたことのない小さなほころび——それは、恐怖ではなく“安堵”に似ていた。彼の登場は、私の閉ざされた世界に予期せぬ変化をもたらすことになる。凍り付いた湖面に小さな石が投げ込まれたように微かな波紋が広がり始めた。そしてその波紋は、私の硬く閉ざされた心をゆっくりと確実に溶かし始めることをこの時の私はまだ知らなかった。
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