月の雫と地の底の誓い

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第18話:月の雫の乙女

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カインがもたらしたあの澄んだ一杯の水。それは私の乾ききった心に投じられた、小さな一石だった。その波紋はごく微かではあったが、確かに私の内側にこれまでとは違う変化を生み出していた。

救護所での日々は変わらない。私は相変わらず感情を殺した人形のように黙々と治療を続けていた。しかし私の耳は、以前よりも兵士たちの声を拾うようになっていた。
「見たか? 今の光。やっぱり領主様の力は月の光によく似てる」
「ああ。じりじりと焼くような治癒魔法とは違う。静かで冷たくて、それでいて心の奥まで沁みわたるような……」
「まるで月の雫が傷口に滴り落ちていくようだ」
月の雫。
その言葉は兵士たちの間でいつしか私の癒しの力の代名詞となっていた。それは畏敬と、彼らが抱く得体の知れない奇跡へのわずかな恐怖が混じり合った、特別な響きを持っていた。
以前の私なら気にも留めなかっただろう。しかし今の私には、その言葉が不思議と胸のどこかに小さな棘のように引っかかっていた。

私の日常にもう一つの変化が訪れていた。カインの存在だ。
彼は怪我をしていない日でも、一日に一度は必ず救護所に顔を見せるようになった。
「領主様。見回りのついでにこれを」
そう言って彼は薬効のある新しい薬草を差し出したり、新鮮な湧き水の入った水筒を置いていったりした。時には町の防衛に関する簡潔で的確な報告をすることもある。
「例の古い坑道ですが、入り口の封鎖を強化しました。ですが奥から吹いてくる風はまだ止まりません。何か別の抜け道があるのかもしれない」
彼の言葉は常に事実だけを述べる飾り気のないものだった。けれど、その行間には私を気遣う不器用な優しさが滲んでいるのを私は感じずにはいられなかった。
私たちは治療の合間にそんな短い言葉を交わすのが習慣になった。それは私の灰色の毎日の中に差し込むほんのわずかな、しかし確かな光だった。彼は私の最も身近な理解者であり話し相手としての地位を、静かに、しかし確実に築きつつあった。

命を救うということ
その事件が起こったのは、そんな日々がしばらく続いたある晴れた日の午後だった。
その日の辺境警備隊の訓練はいつもより熱を帯びていた。盗賊団との実戦を経て自分たちの未熟さを痛感した男たちは、必死に強さを求めていたのだ。
広場には木剣の打ち合う音と男たちの荒い息遣いが響き渡る。その中心にいたのは一人のベテラン兵士だった。彼は先の戦いで誰よりも勇敢に戦った男の一人だが、同時に私がこの町に来た当初、私を「王都から来たお姫様」と最も声高に揶揄していた男でもあった。

その時だった。一瞬の油断か、それとも焦りか。彼が若手の兵士に力強く踏み込んだ瞬間、足元の石に躓き大きく体勢を崩した。そこへ若手の振り下ろした木剣が、無防備な彼の側頭部をまともに捉えてしまったのだ。
ゴッ、と鈍い音が響き渡る。
ベテラン兵士は白目を剥くと、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
訓練は中断され、広場は騒然となる。仲間たちが駆け寄り彼の名を呼ぶが反応はない。彼のこめかみから夥しい量の血が流れ出し、地面に赤黒い染みを作っていく。

「領主様を! 早く!」
誰かの叫び声に私は救護所を飛び出した。
負傷者の元へ駆け寄るとその惨状に私は息を呑んだ。傷は深い。頭蓋骨にまで達しているかもしれない。このままでは命が危うい。
私は迷わず、彼の頭を自分の膝の上に乗せると、両手をその傷口にかざした。
「みんな、下がって!」
私の自分でも驚くほど厳しい声に兵士たちが後ずさる。
私は目を閉じ、全ての意識を手のひらに集中させた。

体中の魔力が奔流となって私の腕を駆け巡り、手のひらから淡い光となって溢れ出す。
それはまさしく月の光だった。静かで冷たく、しかし生命そのものに働きかける根源的な力。
私の魔力が彼の傷ついた細胞を修復し、裂けた血管を繋ぎ、砕けた骨を元の形へと戻していく。
しかし傷はあまりにも深すぎた。癒やしても癒やしても命が流れ出ていくのを止められない。
(嫌……)
脳裏にあの日の悪夢が蘇る。腕の中で冷たくなっていくアルベルトの感触。
(もう、誰も、失いたくない……!)
私は奥歯を食いしばる。魔力欠乏の兆候であるめまいと吐き気が襲い、視界が白く点滅し始めた。それでも、私は手を止めなかった。ここで止めてしまえばこの人もアルベルトと同じように私の前からいなくなってしまう。
私は自分の生命を削るように、最後の、一滴まで魔力を絞り出した。

どれほどの時間が経っただろうか。
不意に私の手のひらから光が消えた。
はっと目を開けると、彼の傷口は完全に塞がっていた。呼吸は穏やかになり、死人のようだった顔色にも血の気が戻っている。
助かったのだ。
その安堵と共に、私の意識は急速に遠のいていった。

次に私が気づいた時、私は館の自室のベッドの上に寝かされていた。カインがここまで運んでくれたのだと後で聞いた。
一日眠り続けたらしい。
体を起こすと、魔力を使い果たした後の気だるい倦怠感が残っていた。

その日の夕方だった。
カインに付き添われ私が救護所へ向かうと、そこには辺境警備隊の兵士たちが全員整列して私を待っていた。
その先頭にあのベテラン兵士がまっすぐに立っている。彼の頭には包帯一つなく、顔色もすっかり良くなっていた。
彼は私の前に進み出ると、突然その場に深く深く頭を下げた。

「……申し訳ありませんでした」
絞り出すような悔恨の声だった。
「俺はあんたのことを見くびっていた。ただの物見遊山で来たか弱いお姫様だと、そう思っていた。だが違った。あんたは命懸けで俺たちを守ってくれた」
彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳は涙で潤んでいた。
「あんたは俺たちの命の恩人だ。……いや、この町の女神様だ」
そして彼ははっきりと言った。
仲間たちの、町中の人々の総意を代弁するかのように。

「……月の雫の乙女様」

その呼び名が私の心に静かに、しかし確かに響き渡った。
月の雫の乙女。
それは私が生まれ持った公爵令嬢という地位ではない。この土地に来て泥にまみれ、涙を流し、そして自らの力で勝ち取った新しい役割、新しい名前。

(私はもうアステル公爵家の令嬢ではない)
私の心の中に静かな声が響く。
(でも……この名前なら、誇れるかもしれない)

私は何も言わなかった。ただ彼の、そして彼に並ぶ兵士たちの真っ直ぐな敬意の視線を一身に受け止めた。
その時私の胸に灯った小さな小さな温かさを、私は確かに感じていた。
それはアルベルトを失って以来初めて感じる、確かな自己肯定の光だった。

ふと、救護所の外から、訓練を終えた兵士たちの話し声が聞こえてきた。
「カインの奴、また坑道か。真面目なこった」
「ああ。だが、あの古い坑道の奥から、最近妙な風が吹いてくるらしいぜ。昔はぴっちり塞がってたのによ……」
その不穏な響きに、私はかすかに眉をひそめた。手の中の杯に残った水面が、小さく揺れた。
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