月の雫と地の底の誓い

YY

文字の大きさ
19 / 46

第19話:彼の見る未来

しおりを挟む
「月の雫の乙女」。その名で呼ばれることにも、少しずつ慣れてきた。
兵士たちは私に敬意を払い、町の女たちは親しみを込めて微笑む。子供たちは私の姿を見つけると「月の乙女様!」と屈託なく手を振ってくれる。それはかつてアステル公爵家の令嬢として受けていた羨望や追従とは全く違う、人と人との温かい繋がりだった。
私の心はまだ完全に癒えたわけではない。アルベルトを失った痛みは決して消えることのない傷として胸の奥深くに残り続けている。
けれど私はもうあの虚無の中に沈んではいなかった。私には果たさなければならない役割がある。その想いが私を前へと進ませていた。

その日の午後は久しぶりに穏やかだった。
辺境警備隊の訓練も休みとなり、町にはのどかな空気が流れている。私はふとあの場所が見たくなって一人館を出た。
全ての始まりとなった館の裏の小さな家庭菜園。
そこは今、次の作付けに備えて丁寧に耕された黒い土が、柔らかな陽光を浴びて静かに息づいていた。固い石ころだらけだった荒れ地が、今は生命を育む準備のできた豊かな土壌へと生まれ変わっている。収穫を終えた後も私は毎日この土に触れるのが好きだった。ここに来ると心が落ち着くのだ。

しばらくその場に佇んでいると、背後から静かな足音が近づいてきた。振り返るまでもなくそれが誰なのか私には分かっていた。
「カイン」
「見回りの帰りです」
彼の肩の力が、わずかに抜けるのが分かった。彼は私の隣に並んで立つと、私と同じように夕暮れに染まり始めた畑へと目を向けた。その横顔はいつも通り穏やかで感情の起伏をあまり見せない。しかしその静けさが今の私には何よりも心地よかった。
「土の色がすっかり良くなりましたね。まるで王都の庭園のようです」
「ええ。あなたが川の近くから養分の多い土を運ぶのを手伝ってくれたおかげよ」
「俺は言われた通りに運んだだけです。あなたの知識がなければ、ただの土の山だった」
そんな他愛のない言葉を交わす。私たちはいつもこうだった。多くを語らずとも、互いの存在がそこにあるだけで満たされるような、穏やかな時間が流れる。

その時だった。畑の向こうから子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。ティムとリナだ。二人は収穫を終えた麦畑で案山子を相手に追いかけっこをして遊んでいる。
ティムはまだ少し足を引きずってはいたが、その動きは私が初めて会った頃とは比べ物にならないほど力強い。リナの快活な笑い声が夕暮れの空に高く響き渡った。
その光景をカインは目を細めてじっと見つめていた。彼の表情から兵士としての厳しい仮面がするりと剥がれ落ちる。その瞳に宿っていたのはただの兵士ではない、もっと深く慈しみに満ちた温かい光だった。

「……あの子たちを見ていると、思うんです」
彼はぽつりと独り言のように呟いた。
その声に私は黙って彼の横顔を見つめる。
「俺はこの町で生まれ育ったわけじゃない。流れ着いたただのよそ者です。だからこの町に特別な愛着があるわけではなかった」
彼は言葉を選びながら静かに続けた。
「俺がいた場所では、子供は笑うより先にナイフの握り方を覚えるのが普通でしたから。でもティムやリナ、あの子たちの笑い声を聞いていると……。この笑顔を守りたいと心の底から思う」
そして彼は私の方へとその穏やかな瞳を向けた。

「俺はあの子たちが武器の心配なんてせずに一生を終えられる町にしたいんです。畑を耕し、家族を作り、今日の収穫を来年もその次の年も当たり前のように喜び合える。そんな穏やかな未来をあの子たちに残してやりたい」
彼の声は静かだった。しかしその一言一句には彼の魂そのものとも言えるような揺るぎない信念がこもっていた。
「そのために俺は剣を振るっている」

その言葉は私の胸の奥深くに雷のように突き刺さった。
私はこれまで自分の行動をアルベルトへの『贖罪』だと思っていた。彼が守ろうとした人々を彼の代わりに守らなければならないと。私の行いは全て死んだ彼に繋がれていた。
けれど、それは違ったのかもしれない。
カインの夢に触れ、私は初めて自分の行動の本当の意味を理解した。
これはただの代償行為ではない。失われた過去を埋めるための後ろ向きの戦いではない。
ティムやリナが笑って生きていける未来をこの手で『作る』ための、希望に満ちた戦いなのだ。
私の行いは過去にではなく未来に繋がっていた。
アルベルトの死によって永遠に失われたと思っていた『未来への希望』が、今カインの言葉を通して別の形で、再び私の心に温かい光を灯し始めていた。

私は彼の言葉に深く心を打たれ、何も言うことができなかった。
そんな私を見て彼は少し照れたように視線を足元に落とした。そしてすぐ近くに咲いていた一輪の紫色の野の花をそっと摘み取った。あの日私の心を救ってくれたのと同じ、凛として咲くあの花だ。

彼はその花をはにかみながら私に差し出した。
「……いつもありがとうございます。あなたが俺の剣に本当の意味をくれました」
その言葉と共に差し出された花。私がそれを受け取ろうとしたその瞬間、彼の節くれだった兵士の指先が私の指先にかすかに触れた。
「……あっ」
驚きに思わず目を見開く。けれどすぐにその不器用な優しさがじんわりと心に沁みてきた。
私の顔に自然と笑みがこぼれた。
それは追放されて以来私が浮かべたどんな笑顔とも違う。アルベルトを失って以来初めて感じる、誰かを、そして誰かと共に見る未来を愛おしいと思う心からの笑顔だった。

カインは私のその笑顔に驚いたように目を見開くと、次の瞬間耳まで真っ赤に染めて慌てて顔をそむけてしまった。
その純粋な反応が、さらに私の心を温かくした。
夕日が私たち二人とこの豊かな畑をどこまでも優しく黄金色に染め上げていた。
この穏やかな時間が、この人の見る未来が、私の新しい希望なのだと私は確かに感じていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

【完結】剣聖と聖女の娘はのんびりと(?)後宮暮らしを楽しむ

O.T.I
ファンタジー
かつて王国騎士団にその人ありと言われた剣聖ジスタルは、とある事件をきっかけに引退して辺境の地に引き籠もってしまった。 それから時が過ぎ……彼の娘エステルは、かつての剣聖ジスタルをも超える剣の腕を持つ美少女だと、辺境の村々で噂になっていた。 ある時、その噂を聞きつけた辺境伯領主に呼び出されたエステル。 彼女の実力を目の当たりにした領主は、彼女に王国の騎士にならないか?と誘いかける。 剣術一筋だった彼女は、まだ見ぬ強者との出会いを夢見てそれを了承するのだった。 そして彼女は王都に向かい、騎士となるための試験を受けるはずだったのだが……

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

処理中です...