月の雫と地の底の誓い

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第20話:嵐の前の安らぎ

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季節は穏やかに巡っていた。
町はあの悪夢のような夜を乗り越え、静かな落ち着きを取り戻している。広場から聞こえてくるのは、辺境警備隊の男たちが木剣を打ち合わせる規則正しい音と、子供たちの屈託のない笑い声。女たちは井戸端で言葉を交わし、畑では次の作付けに向けた準備が着々と進んでいる。
それはどこにでもある、ありふれた田舎町の日常の風景。しかし私にとって、この何でもない一日一日の積み重ねが、何にも代えがたい宝物のように思えた。

その日の朝、私は一人、アルベルトが眠る丘の上にいた。簡素な木の墓標に、新しく摘んだ野の花を供える。
「おはよう、アルベルト。町は、今日も平和よ。あなたが守ってくれた、この町は」
私は彼に語りかける。
「ティムがね、最近、他の子に文字を教え始めたの。リナは、お母さんに教わって、月雫の実で美味しいジャムを作るようになったわ。みんな、前を向いてる。あなたが見たかったのは、きっと、こういう風景だったのよね」
風が、私の言葉を、彼の眠る大地へと運んでいくようだった。私の心にも平穏が訪れていた。アルベルトを失った傷痕が完全に消えることはないだろう。けれど、その痛みはもはや私を虚無の底へと引きずり込むものではなかった。それは私がこの町で生きていく上で、共に歩んでいくべき愛おしい記憶の一部となっていた。
私には私の居場所がある。月の雫の乙女としての役割がある。そして、守りたいと願う大切な人々がいる。それで、もう十分だった。私は今あるものを、ただ静かに大切に慈しむ穏やかな心境の中にいた。

カインとの間には、言葉少なでも通じ合える心地よい関係が築かれていた。
私たちの交流はいつも静かだった。
彼が非番の日の午後、私は救護所の片隅で薬草に関する古い文献を読み解くのが日課となっていた。この土地でも栽培できる、より薬効の高い薬草はないか。独学で探求していたのだ。
そんな時、カインは何の予告もなく、ふらりとやってきた。彼は何も言わずに私の隣の椅子に腰を下ろし、そして自分の長く使い込まれた剣を抜き放つと、懐から取り出した砥石と油で黙々とその手入れを始めるのだ。

部屋に満ちるのは、乾いた薬草の匂いと、羊皮紙のページをめくるかすかな音。そして砥石が鋼を擦る、シュッ、シュッ、という規則正しい心地よい音だけ。
私たちはほとんど言葉を交わさない。
けれど不思議と気まずさはなかった。彼の存在がそこにあるだけで、私の心は凪いだ湖面のように静かに落ち着いていった。私が文献から顔を上げれば彼はそれに気づいて剣の手を休める。私がため息をつく彼の瞳にかすかな気遣いの色が浮かぶ。
(この音が聞こえる限り、この町は大丈夫)
私は、いつしかそう思うようになっていた。彼の剣を研ぐ音は、この町の平穏を守るための、静かで力強い守護の音だった。言葉はなくても、私たちの魂は同じ場所で静かに呼吸をしているようだった。それは王都の社交界で交わされる何百の空虚な言葉よりも、ずっと深く温かい繋がりだった。

そんな、嵐の前の安らぎとでも言うべき穏やかな日常が、永遠に続くかのように思われたある日のことだった。
その日も私はカインと二人、救護所でいつもの静かな午後を過ごしていた。
その静寂を破ったのは、一人の小さな訪問者だった。

「セレスティア様ー! 大変、大変ー!」
息を切らせて飛び込んできたのはおさげ髪を揺らしたリナだった。彼女は町のお使いの途中だったらしい。その小さな手には一通の分厚い羊皮紙の手紙が握られている。
「王都から、すごい金の印がついたお手紙が届いてるよー!」
リナはそれが何であるかも知らず、ただ珍しい出来事という興奮で目をキラキラさせていた。
「王都から……?」
私は訝しみながらその手紙を受け取った。
ずしりと重い最高級の羊皮紙。そして封蝋には私が見間違えるはずもない、アステル王家の獅子の紋章がくっきりと刻まれている。
その紋章を見た瞬間、私の指先が氷のように冷たくなった。大神殿の冷たい床、私を射抜く嘲笑、父の氷のような瞳。捨てたはずの過去が、亡霊のように蘇る。
それは私が捨てたはずの、過去からの使者だった。

私の表情がこわばったのをカインは見逃さなかった。彼は音もなく剣の手入れをやめ、その鋭い視線を私の手の中の手紙へと向ける。
私は深呼吸を一つして、震える指先で封蝋を砕いた。
中から現れた書面には、貴族特有の流麗で持って回った言い回しの文章が綴られていた。
内容はこうだった。
辺境の地で追放された公爵令嬢が凶悪な盗賊団を退け、荒れ地を開墾し町の復興を成し遂げたという驚くべき報告が、王都の中央政府の耳にも届いていること。その功績を正式に称え、また辺境の現状を視察するため、王家より公式の視察団を派遣する、という内容だった。

そこまで読んだ時、私の心臓はまだ冷静だった。
そうか、噂はもう王都にまで。
けれど私の視線が書面の最後の、一行に落ちた瞬間。
私の世界の全ての音が消えた。

――視察団、団長。責任者。
そこに記されていたのは私が忘れたくても決して忘れられない男の名前。

『エドワード・アステル』

その文字が毒のように私の目から心へと染み込んでいく。
なぜ。なぜ今更、私の前に現れるの? あなたは全てを奪ったはずでしょう? 私の地位も、誇りも、未来も。まだ私から、奪うものが残っているというの?

ようやく手に入れたこの穏やかな平穏が。私がこの地の底で必死に築き上げてきたささやかな幸福が。
それを粉々に砕き散らした張本人の手によって再びかき乱される。
その予感が冷たい絶望となって私の全身を貫いた。
私の表情が凍りつく。手の中の書面がくしゃりと音を立てた。

「セレスティア様……?」
カインが心配そうに私の名を呼ぶ。
しかしその声はもう私の耳には届かなかった。
嵐が、来る。
このささやかな安らぎを全て根こそぎ奪い去っていく、新しい嵐が。
私はただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
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