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第17話:沈黙の兵士
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私が倒れてから、数日が静かに流れた。
深い眠りから覚醒した後、私は再び救護所での活動を日課とする。あの日と同じように倒れるわけにはいかないと、最低限の休息は取るようにしたが、私の心は依然として厚い氷に覆われたままだった。
笑顔はない。必要最低限の言葉以外は発しない。私はただ領主としての「役割」を、感情を殺した人形のようにこなすだけの日々を送っていた。
町の空気は少しずつ変わり始めている。『赤牙』の脅威は去ったが、その爪痕は深く、人々は二度とあのような悲劇を繰り返さまいと固く決意していた。アルベルトの遺志を継いだ男たちを中心に、義勇団と呼ばれていた彼らは今や「辺境警備隊」というささやかな名誉を胸に、日々の訓練に励んでいる。広場からは木剣の打ち合う乾いた音と、元鉱夫の男が張り上げる野太い号令が聞こえてくる。王都の騎士団のような洗練された動きではない。しかし、自分たちの手で故郷を守るのだという、彼らの瞳には荒削りだが力強い光が宿っていた。
その日の午後も、私は救護所で訓練で軽い怪我をした兵士たちの治療にあたっていた。
「次の方、どうぞ」
私の声は何の抑揚もない平坦な響きだった。
「お願いします、領主様!」
快活な声と共に席に着いた若者の腕の擦り傷に、私は黙って手をかざす。淡い光が傷を癒やすと、彼は痛みから解放された安堵の息を漏らし、力強い笑顔を見せた。「ありがとうございます! これでまた、みんなを守れます!」
その輝かしい笑顔に、しかし私の心は少しも動かない。私はただ「次の方」とだけ告げる。救護所に灯る微かな希望の光が、かえって私の心の闇を一層深く際立たせているようだった。
兵士たちの間で私の癒しの力が囁かれていることには気づいていた。
「姫様の癒しの光は不思議と痛みがねえんだ」
「ああ。太陽みてえに眩しいんじゃなく、まるで月の光みたいに静かで、優しい光だ……。ありがたいが、少し怖いくらい静かだな」
月の光。その言葉は、私の心に何の感慨ももたらさなかった。
列の最後尾に一人の兵士が黙って自分の番を待っていた。
他の兵士たちの弛緩した空気の中、彼一人の周りだけが、まるで張り詰めた弦のように静かだった。その異質な存在感に、私は無意識に目を留めていた。
やがて彼の番が来た。
彼は静かに私の前に座ると、無言で右の腕を差し出す。訓練中に木剣が当たったのか、前腕に青黒い痣が広がっていた。
私も何も言わずにその痣に手をかざす。私の魔力が彼の体内の傷ついた組織を修復していく。痣の色が見る見るうちに薄れていった。
治療はすぐに終わった。
「……終わりました」
私が告げた時、彼は立ち上がる気配を見せなかった。
「あの」
静かで落ち着いた声だった。
私はようやく彼の顔をまっすぐ見た。年の頃は二十代半ばだろうか。短く刈り込んだ黒髪に、誠実そうな、しかしその奥に鋭い知性を感じさせる穏やかな瞳をしていた。先の盗賊との戦いでも彼は生き残った一人だったはずだ。混乱する仲間たちの中で彼だけが誰よりも冷静に敵の動きを分析していたと、後で聞いた。
彼は傍らに置いてあった水差しから木の杯に水を注ぐと、それを私の前にそっと差し出した。
その杯を持つ、静かで節立った兵士の手。私の脳裏に、アルベルトの熱く無骨だった鍛冶師の手がフラッシュバックし、心臓が冷たく跳ねた。
(この温もりは、あの人のものではない。受け入れてはいけない)
一瞬よぎった罪悪感に、私は反射的に心を閉ざし、視線を逸らした。
「あなたも少し休んだ方がいい」
――どきり、とした。
何かが、胸の奥で、硬く凍っていたものが小さく音を立てた気がした。
彼の言葉は続く。「……誰よりも、顔色が悪い」
その言葉に私は息を呑んだ。
私の、顔色が悪い?
誰もが私を「領主様」として、あるいは「月の女神」として畏敬の念を込めて遠巻きに見るだけだった。私の身を案じる者など、アルベルトがいなくなってからは一人もいなかった。いや、私自身でさえ自分のことなどとうに忘れていたのに。
彼は続けた。その穏やかな瞳は、私の手のひらから放たれる癒しの光をじっと見つめている。
「……失礼。昔、同じような顔をして、平気なふりをして戦場で無理を重ねる仲間がいたのを、ふと思い出した。そいつは、結局俺の目の前で倒れた。助けられなかった」
(助けられなかった?)
その言葉は、まるで呪いのように私の胸に突き刺さった。あの日、私が英雄に投げつけた言葉と、同じ響きを持っていたからだ。
「あなたの癒しの光は、使うたびに少しずつ色が薄くなっている。どうか、ご無理なさらず」
他の誰も、いや私自身さえも意識していなかったような、微細な変化。
彼はただ癒やされるだけでなく、私の力の「代償」までをその静かな観察眼で見抜いていたのだ。
予期せぬ指摘とあまりにも真っ直ぐな気遣いに、私はどう反応していいか分からず、ただ戸惑うばかりだった。その手から杯を受け取ることもできずにいると、彼は困ったように少しだけ眉を下げた。
「……差し出がましいことを言ったのなら、謝る」
「い、いえ……そんなことは……」
「俺はカインです」
彼はそう名乗った。
「何か手伝えることがあれば、いつでも。薬草を摘みに行くことくらいしかできませんが。……では、失礼します。最近、妙な風が吹くと報告があって。念のため、古い坑道の封鎖を確認してきます」
そう言うと彼は杯を私の前の机に置き、深く一礼して救護所から出ていった。
一人残された部屋に静寂が戻る。
私は目の前に置かれた一杯の水を、ただじっと見つめていた。
木の杯に満たされた水は、驚くほど澄んでいた。まるで、悲しみと憎悪で濁りきった私の心を、静かに映して咎めるかのように。
アルベルトの死後初めてだった。誰かの、見返りを求めない純粋な優しさに触れたのは。
それは英雄がもたらす劇的な救済でも、民衆からの熱狂的な称賛でもない。ただ一人の人間がもう一人の人間を案じる、ささやかで、しかし何よりも温かい心の交流。
私はおそるおそるその杯に手を伸ばした。震える指先に木のかすかな温もりが伝わる。その水を一口、口に含む。乾ききっていた喉を、そして心を、その透明な液体がゆっくりと潤していくようだった。
「……ありがとう、カイン」
誰に言うでもなく、消え入りそうな声で、感謝の言葉が漏れた。
それは、私の心が発した、久しぶりの温かい言葉だった。
その温もりが私の心の周りに張り巡わされていた分厚い氷の壁に、ほんの少しだけ、しかし確かなひびを入れたのを、私は感じていた。
ふと、救護所の外から、訓練を終えた兵士たちの話し声が聞こえてきた。
「カインの奴、また坑道か。真面目なこった」
「ああ。だが、あの古い坑道の奥から、最近妙な風が吹いてくるらしいぜ。昔はぴっちり塞がってたのによ……」
その不穏な響きに、私はかすかに眉をひそめた。手の中の杯に残った水面が、小さく揺れた。
深い眠りから覚醒した後、私は再び救護所での活動を日課とする。あの日と同じように倒れるわけにはいかないと、最低限の休息は取るようにしたが、私の心は依然として厚い氷に覆われたままだった。
笑顔はない。必要最低限の言葉以外は発しない。私はただ領主としての「役割」を、感情を殺した人形のようにこなすだけの日々を送っていた。
町の空気は少しずつ変わり始めている。『赤牙』の脅威は去ったが、その爪痕は深く、人々は二度とあのような悲劇を繰り返さまいと固く決意していた。アルベルトの遺志を継いだ男たちを中心に、義勇団と呼ばれていた彼らは今や「辺境警備隊」というささやかな名誉を胸に、日々の訓練に励んでいる。広場からは木剣の打ち合う乾いた音と、元鉱夫の男が張り上げる野太い号令が聞こえてくる。王都の騎士団のような洗練された動きではない。しかし、自分たちの手で故郷を守るのだという、彼らの瞳には荒削りだが力強い光が宿っていた。
その日の午後も、私は救護所で訓練で軽い怪我をした兵士たちの治療にあたっていた。
「次の方、どうぞ」
私の声は何の抑揚もない平坦な響きだった。
「お願いします、領主様!」
快活な声と共に席に着いた若者の腕の擦り傷に、私は黙って手をかざす。淡い光が傷を癒やすと、彼は痛みから解放された安堵の息を漏らし、力強い笑顔を見せた。「ありがとうございます! これでまた、みんなを守れます!」
その輝かしい笑顔に、しかし私の心は少しも動かない。私はただ「次の方」とだけ告げる。救護所に灯る微かな希望の光が、かえって私の心の闇を一層深く際立たせているようだった。
兵士たちの間で私の癒しの力が囁かれていることには気づいていた。
「姫様の癒しの光は不思議と痛みがねえんだ」
「ああ。太陽みてえに眩しいんじゃなく、まるで月の光みたいに静かで、優しい光だ……。ありがたいが、少し怖いくらい静かだな」
月の光。その言葉は、私の心に何の感慨ももたらさなかった。
列の最後尾に一人の兵士が黙って自分の番を待っていた。
他の兵士たちの弛緩した空気の中、彼一人の周りだけが、まるで張り詰めた弦のように静かだった。その異質な存在感に、私は無意識に目を留めていた。
やがて彼の番が来た。
彼は静かに私の前に座ると、無言で右の腕を差し出す。訓練中に木剣が当たったのか、前腕に青黒い痣が広がっていた。
私も何も言わずにその痣に手をかざす。私の魔力が彼の体内の傷ついた組織を修復していく。痣の色が見る見るうちに薄れていった。
治療はすぐに終わった。
「……終わりました」
私が告げた時、彼は立ち上がる気配を見せなかった。
「あの」
静かで落ち着いた声だった。
私はようやく彼の顔をまっすぐ見た。年の頃は二十代半ばだろうか。短く刈り込んだ黒髪に、誠実そうな、しかしその奥に鋭い知性を感じさせる穏やかな瞳をしていた。先の盗賊との戦いでも彼は生き残った一人だったはずだ。混乱する仲間たちの中で彼だけが誰よりも冷静に敵の動きを分析していたと、後で聞いた。
彼は傍らに置いてあった水差しから木の杯に水を注ぐと、それを私の前にそっと差し出した。
その杯を持つ、静かで節立った兵士の手。私の脳裏に、アルベルトの熱く無骨だった鍛冶師の手がフラッシュバックし、心臓が冷たく跳ねた。
(この温もりは、あの人のものではない。受け入れてはいけない)
一瞬よぎった罪悪感に、私は反射的に心を閉ざし、視線を逸らした。
「あなたも少し休んだ方がいい」
――どきり、とした。
何かが、胸の奥で、硬く凍っていたものが小さく音を立てた気がした。
彼の言葉は続く。「……誰よりも、顔色が悪い」
その言葉に私は息を呑んだ。
私の、顔色が悪い?
誰もが私を「領主様」として、あるいは「月の女神」として畏敬の念を込めて遠巻きに見るだけだった。私の身を案じる者など、アルベルトがいなくなってからは一人もいなかった。いや、私自身でさえ自分のことなどとうに忘れていたのに。
彼は続けた。その穏やかな瞳は、私の手のひらから放たれる癒しの光をじっと見つめている。
「……失礼。昔、同じような顔をして、平気なふりをして戦場で無理を重ねる仲間がいたのを、ふと思い出した。そいつは、結局俺の目の前で倒れた。助けられなかった」
(助けられなかった?)
その言葉は、まるで呪いのように私の胸に突き刺さった。あの日、私が英雄に投げつけた言葉と、同じ響きを持っていたからだ。
「あなたの癒しの光は、使うたびに少しずつ色が薄くなっている。どうか、ご無理なさらず」
他の誰も、いや私自身さえも意識していなかったような、微細な変化。
彼はただ癒やされるだけでなく、私の力の「代償」までをその静かな観察眼で見抜いていたのだ。
予期せぬ指摘とあまりにも真っ直ぐな気遣いに、私はどう反応していいか分からず、ただ戸惑うばかりだった。その手から杯を受け取ることもできずにいると、彼は困ったように少しだけ眉を下げた。
「……差し出がましいことを言ったのなら、謝る」
「い、いえ……そんなことは……」
「俺はカインです」
彼はそう名乗った。
「何か手伝えることがあれば、いつでも。薬草を摘みに行くことくらいしかできませんが。……では、失礼します。最近、妙な風が吹くと報告があって。念のため、古い坑道の封鎖を確認してきます」
そう言うと彼は杯を私の前の机に置き、深く一礼して救護所から出ていった。
一人残された部屋に静寂が戻る。
私は目の前に置かれた一杯の水を、ただじっと見つめていた。
木の杯に満たされた水は、驚くほど澄んでいた。まるで、悲しみと憎悪で濁りきった私の心を、静かに映して咎めるかのように。
アルベルトの死後初めてだった。誰かの、見返りを求めない純粋な優しさに触れたのは。
それは英雄がもたらす劇的な救済でも、民衆からの熱狂的な称賛でもない。ただ一人の人間がもう一人の人間を案じる、ささやかで、しかし何よりも温かい心の交流。
私はおそるおそるその杯に手を伸ばした。震える指先に木のかすかな温もりが伝わる。その水を一口、口に含む。乾ききっていた喉を、そして心を、その透明な液体がゆっくりと潤していくようだった。
「……ありがとう、カイン」
誰に言うでもなく、消え入りそうな声で、感謝の言葉が漏れた。
それは、私の心が発した、久しぶりの温かい言葉だった。
その温もりが私の心の周りに張り巡わされていた分厚い氷の壁に、ほんの少しだけ、しかし確かなひびを入れたのを、私は感じていた。
ふと、救護所の外から、訓練を終えた兵士たちの話し声が聞こえてきた。
「カインの奴、また坑道か。真面目なこった」
「ああ。だが、あの古い坑道の奥から、最近妙な風が吹いてくるらしいぜ。昔はぴっちり塞がってたのによ……」
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