月の雫と地の底の誓い

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第25話:戦場の月雫

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夜明けと共に訪れたのは、絶望の音だけではなかった。
地平線の向こう、朝焼けの赤い光を背にして、それは現れた。黒い津波のような奔流。魔王軍。そのおびただしい数の魔物の群れが大地を埋め尽くしながら、私たちの町へと迫ってくる。先頭を駆けるのは豚のような顔をした筋骨隆々のオークたち。その後ろには小柄で素早いゴブリンの集団、そして巨大な棍棒を振り回す一つ目のサイクロプス。空には翼を持つガーゴイルの群れが不吉な影を落としていた。
彼らが発する意味をなさない咆哮と、金属鎧の擦れる音が混じり合い、一つの巨大な不協和音となって空気を震わせる。同時に、獣の体臭と血の匂いが混ざり合った、おぞましい風が町へと吹き込んできた。

「――放て!」
町の入り口を固める簡素な城壁の上からジム爺さんの号令が響いた。
数少ない弓兵たちが矢を放つ。しかしその矢は分厚い魔物の皮に阻まれ、ぽろぽろと力なく地面に落ちるだけだった。
魔王軍は構うことなく進軍を続ける。やがて後方に据えられた巨大な投石器が唸りを上げて稼働した。
ゴウッ、と空気を切り裂く音。次の瞬間、巨大な岩が私たちの築いたバリケードに激突し木っ端微塵に粉砕した。家々の壁が崩れ土煙が舞い上がる。町は瞬く間に地獄の戦場と化した。

私は救護所の指揮を執っていた。
館の広間は野戦病院と化し、血と汗、そして言いようのない恐怖の匂いで満ち満ちている。
「しっかりしろ! 傷口を強く押さえるんだ!」
「薬草が足りない! 誰か倉庫へ!」
私は気丈に指示を飛ばしながら次々と運び込まれる負傷兵の治療にあたっていた。
「領主様……すまねえ……」
腹に深い傷を負った兵士が苦しげに喘ぐ。私は無言でその傷口に手をかざした。
淡い月の光にも似た魔力が私の手のひらから溢れ出す。それはこの地獄のような惨状の中では、瞬く間に消えてしまいそうなほどか弱く儚い光だった。
魔力はみるみるうちに削られていく。一人を癒やすたびに私の体から生命力そのものがごっそりと抜き取られていくような感覚。めまいがし指先が冷たくなっていく。
しかし私は手を止めなかった。
私の脳裏にはカインのあの静かで力強い眼差しが焼き付いている。彼が今、この瞬間も最前線で戦っている。私がここで倒れるわけにはいかない。
私の祈りはただ一つ。
(カイン、生きて……)
その想いだけが私をかろうじてこの場に繋ぎとめていた。

戦況は刻一刻と悪化していった。
「西の壁が破られそうだ!」
「敵の数が多すぎる……!」
兵士たちの悲鳴に近い報告が救護所にまで届く。
そしてついに一人の伝令兵が血まみれの姿で駆け込んできた。
「領主様! ジム爺さんが……! 西壁の指揮官が、やられました!」
その報告に私の心臓が冷たく凍りついた。ジム爺さんはこの町の皆の父親のような存在だった。彼を失えば西の防衛線は完全に崩壊する。

「……私が、行きます」
私は立ち上がった。
「なりません、領主様! 外は危険すぎます!」
若い兵士が必死に私を止める。しかし私の決意は揺るがなかった。
私は薬草の入った鞄を肩にかけると彼の制止を振り切り、戦場の只中へと飛び出した。

外は地獄だった。
燃え盛る家々、飛び交う投石、そしてすぐ側でオークの棍棒に仲間が殴り飛ばされる。悲鳴と怒号が私の耳を劈く。
私は歯を食いしばりただ西壁を目指して走った。

そしてたどり着いた城壁の上で、私はこの戦いの本当の姿を目の当たりにした。
眼下に広がるのは無数の魔物とそれに抗うあまりにも少ない兵士たちが入り乱れる混沌の渦。血飛沫が舞い、剣が折れ、命がまるで消耗品のように次々と消えていく。
その地獄絵図のただ一点。
カインだけが、まるでそこだけ時間の流れが違うかのように冷静に立っていた。
彼の体もすでに傷だららだった。しかしその瞳は凍てつくほどの冷静さで戦場全体を俯瞰していた。

「弓兵、三時の方向、ゴブリンの魔術師を狙え! 詠唱を止めろ!」
「ジム爺さんの隊はいったん後退! 狭い路地に敵を誘い込め! 一度に相手にするな!」
「ティム、リナ! 火矢の準備はできているな! 合図を送ったらあの薪の山に火を放て!」
彼の声は決して大きくはない。しかしその的確な指示は混乱の極みにあった兵士たちに再び秩序と戦うための道筋を与えていた。
彼はただの兵士ではない。天性の指揮官だった。
彼のあの静かな瞳だけが持つ全てを見通すかのような力が、この絶望的な状況下で唯一の希望の光として輝いている。
私は彼のその姿に畏敬の念を覚えた。そして同時にますます強くなる祈りにも似た願いを抱いた。
(死なないで、カイン……!)

私は倒れていたジム爺さんの元へ駆け寄り最後の魔力を振り絞って彼の傷を癒やした。
カインの奮戦と指揮官の復帰により西壁の防衛線は奇跡的に持ち直した。私たちはなんとか敵の第一波を城壁の外へと押し返すことに成功したのだ。

短い静寂が訪れる。
生き残った兵士たちが壁に寄りかかり荒い息をつく。誰もが疲労困憊だった。武器は刃こぼれし矢も尽きかけている。
もう限界だった。敵の第二波が来ればもはやこの町を防衛することは不可能に近い。

その時だった。
押し返したはずの魔物の群れがまるでモーゼの前の海の如く左右に割れた。
そしてその間から一体の異質な存在がゆっくりと姿を現した。
それは他の魔物たちとは明らかに格が違った。
人間と同じくらいの背丈。しかしその体は禍々しい紫色の甲殻で覆われ、背中からは昆虫のような四本の腕が生えている。その手にはそれぞれ違う形状の不気味な刃が握られていた。
何よりも違うのはその魔力。
立っているだけで、ひんやりとした空気がずしりと重くなるような濃密で邪悪な魔力の圧。それは肌を刺すような痛みさえ感じさせた。
あれはただの雑兵ではない。
魔王軍の将軍クラスの魔族。

その魔族は、私たちをまるで地を這う虫けらでも見るかのように見下ろし、ゆっくりと口元を歪めた。
希望の光は今、より大きくより深い絶望の影に呑み込まれようとしていた。
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