月の雫と地の底の誓い

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第26話:二度目の静寂

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魔族の将軍が動いた。
それはオークのような猛々しい突進ではなかった。まるで水の上を滑るかのように音もなく優雅に、しかし絶対的な殺意を纏って私たちの前へと進み出る。四本の腕はまるで意思を持つ蛇のようにゆらゆらと揺れ、その動きは人の形をしていながら人間のそれとは根本的に違っていた。身を覆う漆黒の鎧には人間の頭蓋骨を象った装飾が刻まれ、四本の刃には何十もの紋様が呪いのように絡みついている。彼が一歩を踏み出すごとに、凍てつくような寒気が地面を這った。

辺境警備隊の男たちが恐怖に凍りつく。その圧倒的な存在感を前にもはや剣を構えることさえできない。

「――散開しろ! 奴の狙いは領主様だ!」
その絶望的な沈黙を切り裂いたのはカインの声だった。
彼は恐怖に震える兵士たちの前に立つと一人魔族と対峙した。その瞳にはもはや冷静ささえも超えた、鋼のような冷徹な決意が宿っている。
「囲んで動きを止めろ! 一瞬でいい!」

カインの檄に男たちは我に返った。しかし、死への恐怖が足を縫い付ける。その躊躇いを、カインの静かな声が断ち切った。
「……俺は、ここで死ぬかもしれない。でもいい」
彼は小さく笑って、仲間たちを振り返った。
「この町を守りたい。セレスティア様を……生かしたいんだ」
その言葉に兵士たちが頷く。一人が唾を飲み込み、一人が震える剣を構え直す。
「死ぬなら、ここで。俺たちの死が、何かの意味になるなら、それでいい」
彼らは雄叫びを上げ死を覚悟して魔族へと突撃していく。

しかしそれはあまりにも無謀な戦いだった。
魔族は迫り来る兵士たちをまるで邪魔な虫でも払うかのようにあしらっていく。四本の刃が流麗な軌跡を描き、踊るように命を刈り取っていく。
断末魔の悲鳴さえも上がらない。ただ肉が斬られ骨が砕ける鈍い音が次々と響き渡るだけだった。

それでも男たちは怯まなかった。彼らの捨て身の攻撃が魔族の注意をわずかに、本当にほんの一瞬だけセレスティアから逸らした。
その一瞬をカインは見逃さなかった。
「……すまない」
彼は誰に言うでもなくそう呟くと大地を蹴った。
彼の狙いは魔族の懐。四本の腕の死角となるただ一点。仲間たちがその命と引き換えに作り出した唯一の隙。

作戦は成功した。仲間たちの最後の突撃が魔族の体勢をわずかに崩す。その瞬間カインの剣が閃光のように魔族の鎧の関節部分へと突き立てられた。
ギャアアアアアッ!
魔族が初めて苦痛の絶叫を上げた。深々と突き刺さった刃がその動きを確かに鈍らせていた。

しかし代償はあまりにも大きすぎた。
深手を負った魔族が最後の憎悪に満ちた反撃として、背後の一本の腕を鞭のようにしならせた。
それはもはや目で追える速度ではない。
作戦の要であったカインは攻撃を終えた無備な体勢のままだった。
鋭利な刃が何の抵抗もなく彼の胸を貫いた。

ぐ、と彼の動きが止まる。
魔族は苦痛に呻きながらも満足げに口元を歪めると、城壁を軽々と飛び越え森の闇へと撤退していった。
残された魔物たちも主を失い蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

戦いは終わった。辛うじて私たちの町の勝利に。
生き残った兵士たちが弱々しい歓声とも嗚咽ともつかない声を上げる。しかしその声もすぐに途絶えた。
誰もが見ていた。城壁の上でゆっくりと崩れ落ちていくカインの姿を。

私はいつの間にか走っていた。もつれる足を必死に動かし彼が倒れるよりも早く、その体を受け止めた。
私の腕の中にずしりと彼の体の重みが伝わる。そして私の手をどろりとした生温かい液体が濡らしていく。
アルベルトの時と同じ感触。同じ匂い。同じ絶望。

「……セレスティア……様……」
彼がかすれた声で私を呼ぶ。
その口からは言葉と共に赤い泡がこぼれ落ちていた。
「喋らないで……! 今癒やすから……!」
私の手から光が漏れる。しかし、それは彼の命を繋ぐにはあまりに儚かった。“間に合わない”――その言葉が頭をよぎるたび、心が軋む。私の魔力ではどうにもできない。もっと早く、もっと強くあれば……!
「お願い……もう一度……!」
だが、奇跡は起きなかった。
私は震える手で彼の傷口に癒しの光を注ごうとした。しかし彼は力なく首を振った。そしてその視線が私ではない、どこか別の場所へと向けられる。
彼の視線の先。それは私が無意識のうちに強く握りしめていた小さな木彫りの鳥だった。
彼が私に託してくれたお守り。

彼の瞳にほんの一瞬だけ優しい光が宿った。
あの子たちが武器の心配なんてせずに一生を終えられる町に。
彼のささやかな夢。果たされることのなかった約束。

彼は何かを伝えようともう一度口を開いた。しかしその唇から紡がれたのは言葉にならないかすかな空気の音だけだった。

私は神に祈ったことなどない。でも、あのときばかりは本気で願った。
この命を差し出すから、彼を助けてほしいと。私から全てを奪ってくれていいから、ただ彼だけを――
だが、神はまたしても私を見捨てた。
いや、最初から、私に祝福などなかったのかもしれない。

そして彼は静かに息を引き取った。私の腕の中でゆっくりと冷たくなっていく。

二度目だ。私が愛しいと思った人間が私の目の前でいなくなってしまうのは。
アルベルトの時は激情があった。タイヨウへの理不尽な怒りがあった。
しかし今は何もない。怒りも悲しみも絶望さえも感じない。
ただ、心臓の鼓動が止まり、胸の中に冷たい空洞だけが残ったようだった。
自分が幸せになってはいけないのだ。私が関わる者は皆不幸になるのだ。
それはもはや思い込みではない。この世界が私に突きつけた絶対的な真実。呪いなのだ。

私の周りだけ時が止まった。生き残った兵士たちの嗚咽も。遠くでまだ燃え続けている家の炎がはぜる音も。
何もかもが遠い世界の出来事のようだった。
私の世界にはただ腕の中で冷たくなっていく彼の重みと絶対的な静寂だけがあった。

ぽとり。
私の力の抜けた手から、カインのお守りだった木彫りの鳥が滑り落ちた。
それは彼の血だまりの中に小さな音を立てて沈んだ。
二度目の静寂。
それは、私の魂が音もなく砕け散り、完全に死んだ音だった。
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