月の雫と地の底の誓い

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第29話:融解の兆し

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あの夜、私の心に入った亀裂は、消えることなくそこにあり続けた。それは痛みと、そしてこれまで押し殺していた罪悪感を絶えず私に思い出させた。私の投げつけた言葉が、タイヨウという一人の人間をどれほど深く傷つけたのか。その事実が、凍てついた心の奥底で小さな棘のように私を苛んでいた。

魔王城への進軍は、過酷を極めていた。大地は日に日にその様相を変えていく。生命力に満ちていた森は、ねじくれた枯れ木が天を掴む骸の森へと変わり、澄んでいた川の水は、硫黄の匂いがするよどんだ鉛色に染まっていた。魔王の瘴気が、この土地そのものを蝕んでいるのだ。それに呼応するように、魔物の活動も活発化していた。王国軍は日に何度も、斥候部隊による執拗な奇襲を受けるようになった。

その日もそうだった。谷間を進軍していた我々の側面に、鋭い咆哮と共に、俊敏な獣の姿をした魔物の群れが襲いかかってきた。戦闘が瞬時に始まる。私はすぐに医療部隊を指揮して後方で負傷者の受け入れ準備を始めた。その動きはもう慣れたものだ。私の心は再び、感情のない治癒師の仮面を被り、目の前の「役割」に没頭しようとしていた。

しかし、その仮面はすぐに砕かれる。

戦闘の混乱の中、一際大きな狼に似た魔物が、王国軍の防衛線を突破し、一直線に私たちのいる医療部隊へと突進してきたのだ。その燃えるような赤い瞳は、明らかに治癒師である私を捉えている。「……っ!」私は凍りついた。あの日の魔族の将軍の記憶がフラッシュバックする。まただ。また私は狙われる。そして誰かが、私のために――。

その絶望が私の心を支配するよりも早く、閃光が走った。

私の目の前に、まるで瞬間移動したかのようにタイヨウの白銀の背中が現れる。「――タイヨウ…!?」驚きに声も出ない私を庇うように、彼は魔獣と対峙した。魔獣の鋭い爪がタイヨウの右肩を深く切り裂くのと、彼がそのがら空きになった心臓に聖剣を突き立てるのは、ほぼ同時だった。断末魔の悲鳴を上げ、魔獣は黒い霧となって消滅する。

戦場に束の間の静寂が訪れた。タイヨウはゆっくりと私の方へ振り返ると、虚勢を張るように笑ってみせる。「…大丈夫か」しかし、その笑顔はすぐに痛みで歪み、彼の体はついに限界を迎える。私の目の前で、彼は糸が切れたように膝から崩れ落ちた。夥しい血が、彼の足元の土を黒く濡らしていく。

すぐに彼の仲間たちが駆けつけ、タイヨウは医療天幕へと運び込まれた。私は、ただ呆然とその光景を見つめていた。彼が、私を庇った。私のために傷を負い、倒れた。その事実が、私の心の固く閉ざされた扉を、内側から激しく叩いていた。

夜。私は医療天幕の簡素なベッドで眠る彼の隣に、静かに座っていた。仲間たちが処置した分厚い包帯が痛々しい。ランプの頼りない灯りが、彼の青白い顔をぼんやりと照らしていた。私は黙々と薬草をすり潰し、新しい軟膏を作る。(これは、義務だ。負傷した兵士を治療するのは、治癒師の役割なのだから)そう何度も自分に言い聞かせながら、薬草をすり潰す指先がかすかに震えていることに気づかないふりをした。

やがて、タイヨウがうめき声と共にゆっくりと意識を取り戻す。彼が目を開け、隣にいる私に気づくと、驚きに目を見開いた。「……セレスティア」重苦しい沈黙が二人を包む。

私は何も言わずに、彼の肩の包帯にそっと手をかけた。ひやりとした私の指先に、彼の体がびくりと震える。「動かないでください。治療します」「……いや、このくらい…」彼が何か言おうとするのを、私は遮った。「傷の大小は私が判断します。あなたは勇者でしょう。万全の状態でいるのがあなたの役目のはずです」

私は黙々と古い包帯を解き、新しい軟膏を傷口に丁寧に塗り込んでいく。その手つきはどこまでも的確で機械的だった。しかし、冷たい指先から伝わる癒やしの魔力は、不思議なほど温かい。私は傷だけを見ていた。彼の顔を見ることができなかった。何を話せばいいのか分からない。あの夜彼に投げつけた残酷な言葉。彼が背負うことになった英雄の十字架。その全てが、重い鉛となって私の口を塞いでいた。

治療を終え、彼がようやく絞り出すように言った。「…すまない。…助かった」か細く、そして情けない声だった。私はそれに答えなかった。ただ作業を終えると、すぐに彼に背を向け、この場から逃げ出そうとした。また、あの感情のない人形の自分に戻ってしまいたかった。

天幕の出口に手をかける。もう一歩外へ出れば、私はまた心を閉ざすことができる。(それでいい。それが一番楽なのだから)けれど、私の足は動かなかった。カインの声が耳の奥で聞こえた気がした。『あなたも少し休んだ方がいい』あの不器用な優しさ。そして私は、目の前の彼の背中を見る。英雄という重すぎる十字架をたった一人で背負い戦い続ける、傷ついた一人の人間。

私はゆっくりと振り返った。驚いたように私を見つめるタイヨウの黒い瞳。私は意を決して口を開く。その声は小さく震えていたかもしれない。けれどそれは、カインの死後初めて、私が私の意志で他者へと向けた人間的な言葉だった。

「……あなたも、一人で全てを背負う必要は、ない」

その一言だった。タイヨウの瞳が大きく見開かれる。驚き。不信。そしてその奥に、まるで暗闇の中で一筋の光を見出したかのような、救われたような色が浮かんだ。彼は何かを言おうと唇を開いたが、声にはならず、ただ私の顔を見つめている。

私は彼の返事を待たなかった。ただ小さく一度だけ頷くと、今度こそ天幕を後にした。私の心臓はこれまで感じたことのないほど激しく高鳴っていた。

凍てついていた氷の世界に、確かな融解の兆しが見えていた。
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