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第28話:英雄の十字架
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魔王城への進軍が始まった。それはもはや「町」という単位の戦いではない。王国全土の運命を賭けた、巨大な軍事行動だった。何千もの兵士たちが踏みしめる大地は、うねりのように振動している。掲げられた無数の旗は、冬の鉛色の空を背景に沈鬱にはためいていた。
私の所属する医療部隊は、本隊の中ほどに位置していた。負傷者をすぐさま収容できるよう、常に前線との距離を保つ。それは物理的な安全を確保された場所であると同時に、戦いの中心から隔絶された場所でもあった。
遥か前方、軍の先頭を往く一団の中心に、彼の姿があるのを私は知っていた。勇者タイヨウ。王国の全ての希望をその一身に背負う存在。だが、私にとって彼はもはや遠い記号でしかなかった。私の心は、あの日カインが死んだ瞬間に凍りついたまま、何の感情も映し出せずにいた。
進軍の日々は淡々と過ぎていった。夜営地では医療天幕を設営し、行軍中に体調を崩した者や斥候任務で軽い傷を負った者たちを、機械的に治療する。そんな日々の中で、私は一つの事実に気づき始めていた。
かつてカインが率いていた辺境警備隊の兵士たち。彼らがタイヨウに対して、一様ではない複雑な感情を抱いていることに。
ある者はタイヨウを畏敬の念で見つめていた。あの夜、町を蹂躙した『赤牙』を単身で殲滅した、神にも等しい力。その力こそが魔王を打ち破る唯一の希望だと心から信じている。しかし、ある者はタイヨウの姿を見るたびに、苦々しく顔を歪める。
焚き火を囲む彼らの輪から、断片的な会話が聞こえてくることがあった。
「勇者様がいなければ、俺たちはとっくに死んでいた」
「……だが、勇者様は間に合わなかった。カイン隊長は死んだんだ」
「それは仕方がなかったことだ。勇者様だって一人しかいないんだから」
「分かってるさ。分かってはいるけど……!」
彼らの心の中には、救世主への感謝と、最も信頼していた指揮官を失った悲しみ、そしてその悲しみの矛先をどこへ向ければいいのか分からない、やり場のない憤りが渦巻いていた。その中心にいたのは、カインを兄のように慕っていた若い兵士だ。彼はタイヨウが近くを通るたびに、憎悪のこもった鋭い視線をその背中に突き刺していた。
その光景を目撃したのは、進軍開始から一週間が過ぎた、ある夜のことだった。
その日、私は熱病にうなされる兵士の看病で遅くまで起きていた。自室である小さな天幕へ戻る途中、人目につかない場所から押し殺したような声が聞こえてきて、思わず足を止める。物陰からそっと様子を窺うと、そこにいたのはタイヨウだった。しかし彼は一人ではなかった。傍らには、屈強な戦士と獣人の青年、そして気高いエルフの女性の姿もある。彼らは主君のただならぬ様子を、深く、深く心配そうに見守っていた。
そこへ、あの若い兵士が歩み寄っていく。
「……勇者様」
その声は震えていた。憎しみと悲しみと、抑えきれない激情に。
タイヨウはゆっくりと彼の方へ振り返る。その背後で、仲間たちが息をのんだ。
「なぜだ!」
若い兵士は叫んだ。その目からは大粒の涙が次々とこぼれ落ちている。
「なんでカイン隊長は死ななきゃならなかったんだ! あんたがいれば……隊長は……! 何か言えよ! ……あんたは、英雄なんだろ……?」
その理不尽な叫びに、タイヨウの仲間たちが即座に反応した。屈強な戦士と獣人の青年が「口を慎め!」と激昂し、タイヨウを守るように兵士の前に立ちはだかる。しかし、タイヨウ自身がその二人を静かに、だが有無を言わせぬ力で制した。仲間たちは「しかし……!」と戸惑いながらも、その手を受け入れ、引き下がるしかなかった。
私はその一連の光景を息を殺して見ていた。
そして、気づいてしまった。あの若い兵士の姿は、かつての私自身の姿だと。彼がタイヨウに叩きつけている言葉は、あの日、私が彼に叩きつけた言葉と全く同じだったのだ。
(そうだ、私も同じだった。理不尽な悲しみを、ただぶつけることしかできなかった。――だが今、彼を守ろうとする仲間たちの手を振り払ってまで、黙して全ての言葉を受け止める彼の背中を、なぜか否定できない自分がいる。あの苦悶の表情に、私は一体何を見ているのだろうか)
「……すまない」
長い沈黙の後、タイヨウがかろうじて絞り出した。その声はひどくかすれていた。言葉にできるほどの軽い痛みなら、最初から英雄などという仮面は被らない。彼の沈黙は、しかし、誰にも届かなかった。
「俺がもっと強ければ……」
その痛々しいほどの自己への贖罪の言葉に、若い兵士はさらに激昂しようとした。その時だった。
「やめろ」
静かで、しかし重みのある声が二人の間に割って入った。
あの時の戦いを生き延びたベテラン兵士だった。私がかつてその命を救った男だ。彼は若い兵士の肩に力強く手を置いた。
「お前の気持ちは分かる。俺だって悔しい。だが、その言葉は間違っている」
ベテラン兵士はゆっくりと諭すように言った。
「一番悔やんでいるのは、勇者様ご自身だ。……それに、カイン隊長の覚悟を汚すな」
「……!」
「カイン隊長は、俺たちと月の雫の乙女様を守るために戦ったんだ。それは誰かに強いられたわけじゃない。彼自身の誇り高い覚悟だった。お前のその言葉は、隊長のその覚悟さえも踏みにじることになるんだぞ」
そして彼は、タイヨウの背中を見つめ、静かに付け加えた。
「あの背中に刺さっているのは、お前の怒りでも、死んだ仲間たちの声でもない。ただ、俺たちが……いや、この世界が勝手に背負わせた、『英雄』という名の十字架だけだ」
その言葉は、若い兵士だけでなく、物陰で聞いていた私の胸にも深く、深く突き刺さった。
英雄の、十字架。カインの覚悟。
そうだ。彼は守るために戦った。その崇高な意志を、私は自分の悲しみのあまり、見ようともしていなかったのだ。ただ彼を失ったという事実だけを武器にして、目の前の英雄を傷つけた。今さらながら、自分の投げつけた言葉の、その恐ろしいほどの重さに気づかされる。
若い兵士はその場に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。ベテラン兵士は黙ってその背中を支えている。
タイヨウはただその光景を、十字架を背負った罪人のように静かに見つめていた。そして、心配そうに見守る仲間たちに一瞥もくれることなく、踵を返し、影のようにその場を去っていった。
私の心に、あの日以来初めて憎しみや無関心とは違う感情が芽生え始めていた。それはまだ形にはならない、微かな痛みに似た「共感」の念だったのかもしれない。
凍てついた私の心に、最初の亀裂が入る音がした。
私の所属する医療部隊は、本隊の中ほどに位置していた。負傷者をすぐさま収容できるよう、常に前線との距離を保つ。それは物理的な安全を確保された場所であると同時に、戦いの中心から隔絶された場所でもあった。
遥か前方、軍の先頭を往く一団の中心に、彼の姿があるのを私は知っていた。勇者タイヨウ。王国の全ての希望をその一身に背負う存在。だが、私にとって彼はもはや遠い記号でしかなかった。私の心は、あの日カインが死んだ瞬間に凍りついたまま、何の感情も映し出せずにいた。
進軍の日々は淡々と過ぎていった。夜営地では医療天幕を設営し、行軍中に体調を崩した者や斥候任務で軽い傷を負った者たちを、機械的に治療する。そんな日々の中で、私は一つの事実に気づき始めていた。
かつてカインが率いていた辺境警備隊の兵士たち。彼らがタイヨウに対して、一様ではない複雑な感情を抱いていることに。
ある者はタイヨウを畏敬の念で見つめていた。あの夜、町を蹂躙した『赤牙』を単身で殲滅した、神にも等しい力。その力こそが魔王を打ち破る唯一の希望だと心から信じている。しかし、ある者はタイヨウの姿を見るたびに、苦々しく顔を歪める。
焚き火を囲む彼らの輪から、断片的な会話が聞こえてくることがあった。
「勇者様がいなければ、俺たちはとっくに死んでいた」
「……だが、勇者様は間に合わなかった。カイン隊長は死んだんだ」
「それは仕方がなかったことだ。勇者様だって一人しかいないんだから」
「分かってるさ。分かってはいるけど……!」
彼らの心の中には、救世主への感謝と、最も信頼していた指揮官を失った悲しみ、そしてその悲しみの矛先をどこへ向ければいいのか分からない、やり場のない憤りが渦巻いていた。その中心にいたのは、カインを兄のように慕っていた若い兵士だ。彼はタイヨウが近くを通るたびに、憎悪のこもった鋭い視線をその背中に突き刺していた。
その光景を目撃したのは、進軍開始から一週間が過ぎた、ある夜のことだった。
その日、私は熱病にうなされる兵士の看病で遅くまで起きていた。自室である小さな天幕へ戻る途中、人目につかない場所から押し殺したような声が聞こえてきて、思わず足を止める。物陰からそっと様子を窺うと、そこにいたのはタイヨウだった。しかし彼は一人ではなかった。傍らには、屈強な戦士と獣人の青年、そして気高いエルフの女性の姿もある。彼らは主君のただならぬ様子を、深く、深く心配そうに見守っていた。
そこへ、あの若い兵士が歩み寄っていく。
「……勇者様」
その声は震えていた。憎しみと悲しみと、抑えきれない激情に。
タイヨウはゆっくりと彼の方へ振り返る。その背後で、仲間たちが息をのんだ。
「なぜだ!」
若い兵士は叫んだ。その目からは大粒の涙が次々とこぼれ落ちている。
「なんでカイン隊長は死ななきゃならなかったんだ! あんたがいれば……隊長は……! 何か言えよ! ……あんたは、英雄なんだろ……?」
その理不尽な叫びに、タイヨウの仲間たちが即座に反応した。屈強な戦士と獣人の青年が「口を慎め!」と激昂し、タイヨウを守るように兵士の前に立ちはだかる。しかし、タイヨウ自身がその二人を静かに、だが有無を言わせぬ力で制した。仲間たちは「しかし……!」と戸惑いながらも、その手を受け入れ、引き下がるしかなかった。
私はその一連の光景を息を殺して見ていた。
そして、気づいてしまった。あの若い兵士の姿は、かつての私自身の姿だと。彼がタイヨウに叩きつけている言葉は、あの日、私が彼に叩きつけた言葉と全く同じだったのだ。
(そうだ、私も同じだった。理不尽な悲しみを、ただぶつけることしかできなかった。――だが今、彼を守ろうとする仲間たちの手を振り払ってまで、黙して全ての言葉を受け止める彼の背中を、なぜか否定できない自分がいる。あの苦悶の表情に、私は一体何を見ているのだろうか)
「……すまない」
長い沈黙の後、タイヨウがかろうじて絞り出した。その声はひどくかすれていた。言葉にできるほどの軽い痛みなら、最初から英雄などという仮面は被らない。彼の沈黙は、しかし、誰にも届かなかった。
「俺がもっと強ければ……」
その痛々しいほどの自己への贖罪の言葉に、若い兵士はさらに激昂しようとした。その時だった。
「やめろ」
静かで、しかし重みのある声が二人の間に割って入った。
あの時の戦いを生き延びたベテラン兵士だった。私がかつてその命を救った男だ。彼は若い兵士の肩に力強く手を置いた。
「お前の気持ちは分かる。俺だって悔しい。だが、その言葉は間違っている」
ベテラン兵士はゆっくりと諭すように言った。
「一番悔やんでいるのは、勇者様ご自身だ。……それに、カイン隊長の覚悟を汚すな」
「……!」
「カイン隊長は、俺たちと月の雫の乙女様を守るために戦ったんだ。それは誰かに強いられたわけじゃない。彼自身の誇り高い覚悟だった。お前のその言葉は、隊長のその覚悟さえも踏みにじることになるんだぞ」
そして彼は、タイヨウの背中を見つめ、静かに付け加えた。
「あの背中に刺さっているのは、お前の怒りでも、死んだ仲間たちの声でもない。ただ、俺たちが……いや、この世界が勝手に背負わせた、『英雄』という名の十字架だけだ」
その言葉は、若い兵士だけでなく、物陰で聞いていた私の胸にも深く、深く突き刺さった。
英雄の、十字架。カインの覚悟。
そうだ。彼は守るために戦った。その崇高な意志を、私は自分の悲しみのあまり、見ようともしていなかったのだ。ただ彼を失ったという事実だけを武器にして、目の前の英雄を傷つけた。今さらながら、自分の投げつけた言葉の、その恐ろしいほどの重さに気づかされる。
若い兵士はその場に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。ベテラン兵士は黙ってその背中を支えている。
タイヨウはただその光景を、十字架を背負った罪人のように静かに見つめていた。そして、心配そうに見守る仲間たちに一瞥もくれることなく、踵を返し、影のようにその場を去っていった。
私の心に、あの日以来初めて憎しみや無関心とは違う感情が芽生え始めていた。それはまだ形にはならない、微かな痛みに似た「共感」の念だったのかもしれない。
凍てついた私の心に、最初の亀裂が入る音がした。
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