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第32話:英雄の焦燥
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魔王城の内部は、人の理を嘲笑うかのような悪夢的な迷宮だった。
城門を突破した私たちを待ち受けていたのは、王都の城のような整然とした広間や廊下ではない。床や壁、天井が、まるで生きているかのように不気味に脈動し、時折その構造を音もなく変容させる。兵士たちの間からは、方向感覚を失ったことへの不安な囁きが漏れ始めた。
至る所に巧妙な罠が仕掛けられ、角を曲がるたびに待ち伏せた魔物の群れが牙を剥く。戦いはもはや大規模な軍勢同士の衝突ではなかった。狭い通路での乱戦。分断された部隊が各個撃破されていく消耗戦。王国軍は玉座の間という遥か遠い目標を目指し、一歩進むごとにその血を石畳に吸わせていった。
私の率いる医療部隊も、常に前線と目と鼻の先で移動を余儀なくされた。比較的安全な部屋を確保しては簡易な野戦病院を設営し、負傷者を運び込み治療を施す。そしてまた次の部屋へ。そのめまぐるしい繰り返し。
そんな中、私の目は自然と常に戦いの最前線に立つタイヨウの姿を追っていた。そして、気づいてしまった。彼の戦い方が、あまりにも異常であることに。
彼は常に仲間の前に立っていた。魔術師タイプの魔物が詠唱を始めたと見るや、彼は誰よりも早くその射線に割り込み、放たれる呪詛の光をその身に受けた聖剣で弾き返す。分厚い盾を持つ重装兵でさえ怯むような巨大な魔獣が突撃してくれば、彼は兵士たちを背後へ下がらせ、たった一人でその突進を正面から受け止める。
彼は軍の切り札であると同時に、全体の盾となっていた。全ての危険な攻撃を、彼がその一身に引き受けていたのだ。
他の兵士たちはその英雄的な姿に熱狂し、士気を高めていた。しかし、治癒師である私には見えていた。彼の脆い真実の姿が。聖剣から放たれる神々しい光のオーラが一戦闘ごとにその輝きを失い、彼の動きに疲労によるミリ単位の遅延が生じ始めている。彼は自身の魔力と生命力そのものを燃料にして燃え上がっているのだ。このままでは、魔王の元へたどり着く前に彼自身が燃え尽きてしまう。
(なぜ、これほどまでに無謀な戦いを……)
私の胸に、あの夜のベテラン兵士の言葉が蘇る。『この世界が勝手に背負わせた、「英雄」という名の十字架』。そして、私自身の言葉。『その力に、何の意味があるの!?』
(まさか……。私のあの言葉が、呪いのように彼を縛り付けているというの……?)
その恐ろしい可能性に気づいた時、私の心は冷たい不安で締め付けられた。
そして運命の時が訪れた。
いくつもの罠と戦闘を乗り越え、私たちは城内の中庭と思われる広大な空間へとたどり着いた。天井はなく、禍々しい紫色の月が不気味な光を投げかけている。そこで私たちを待ち構えていた者がいた。
一体の魔族。禍々しい紫色の甲殻。背中から生えた四本の腕。見間違えるはずもない。あの忌まわしいカインの仇だ。
辺境警備隊の男たちから、驚きと憎悪の声が上がる。
タイヨウの纏う空気が変わった。それまでの冷静な指揮官の顔が消え、凍てつくような冷たい怒りの仮面がその顔を覆う。「……全員、下がれ」彼の低い声が広間に響いた。「こいつは俺がやる」
「タイヨウ!」
私は思わず叫んだ。「駄目よ! 一人でなんて無謀だわ! みんなで、連携すれば……!」バルガスやカイリも同調し、武器を構える。しかしタイヨウは、私たちの言葉などまるで聞こえていないかのように、聖剣を地面に突き立てた。白銀の光が迸り、私たちの足元に越えることのできない光の線を引く。
「ここから入ってくるな。これは、俺の戦いだ」
そのあまりにも傲慢な宣言に、私は言葉を失った。彼は私たちの助けを、その信頼さえも、絶対的な力で拒絶したのだ。
彼は聖剣を抜き放つと、一人、魔族の将軍へと突撃した。
それは戦いというより、憎悪と焦燥がぶつかり合う嵐そのものだった。タイヨウは防御を完全に捨てていた。ただひたすらに前へ。聖剣から光の斬撃を絶え間なく放ち続ける。
私は、仲間たちは、ただ見ていることしかできなかった。いや、違った。光の線の向こうで、ルナリアが杖を構え、将軍の動きを鈍らせようと魔法を放っている。カイリもまた、絶え間なく牽制の一撃を繰り出し、好機を窺っている。バルガスはいつでも飛び出せるようにと盾を構え、その背中を守ろうとしていた。彼らは決して諦めてはいなかった。タイヨウが引いた線を越えられずとも、必死に彼を支えようとしていたのだ。だが、当のタイヨウは、その支援さえも無視するかのように、猛攻を続けていた。
タイヨウの体にいくつもの赤い線が走る。腕が、足が、肩が切り裂かれていく。しかし彼は一切怯まない。その痛みさえも、前へ進むための推進力に変えているかのようだった。「タイヨウ!」私の悲鳴ももはや彼の耳には届いていない。彼はただ、カインの仇を、そして間に合わなかった自分自身の過去を断罪するかのように剣を振るい続けた。
そしてついにその瞬間が訪れた。
タイヨウは自らの脇腹が敵の刃に深く切り裂かれるのを覚悟の上で、一歩踏み込んだ。捨て身の一撃。彼の聖剣が将軍の甲殻の中心を深々と貫いた。魔族は信じられないというように目を見開き、そして断末魔の絶叫と共に黒い塵となって消滅した。
「……うおおおおおおっ!」
王国軍の兵士たちが勝利の雄叫びを上げた。カインの仇が討たれた。英雄がまたしても奇跡を起こしたのだと。しかし私は、その歓喜の輪に加わることはできなかった。私だけが見ていた。
勝利に沸く兵士たちに背を向けるように、タイヨウが深く深く呼吸を繰り返し、誰にも見られぬよう左手で血の滲む右の脇腹を強く押さえている姿を。その顔は血の気を失い、紙のように真っ白だった。
私は歓喜の声を上げる兵士たちをかき分けるようにして、彼の元へと駆け寄る。「タイヨウ、あなたの脇腹を……! 傷が深いわ!」彼は私の声にはっとしたように顔を上げた。そして、何でもないことのように虚勢を張って笑った。「……問題ない。ただのかすり傷だ」彼はそう言うと、再び兵士たちの方へ向き直り、力強い声で全軍を鼓舞し始めた。
しかし、私には分かっていた。あれはただのかすり傷などではない。彼の英雄という名の仮面の下に隠された、深い、致命傷になりかねない傷だということを。
勝利の歓声の中、私だけがこれから訪れるであろう本当の絶望の予感に震えていた。
城門を突破した私たちを待ち受けていたのは、王都の城のような整然とした広間や廊下ではない。床や壁、天井が、まるで生きているかのように不気味に脈動し、時折その構造を音もなく変容させる。兵士たちの間からは、方向感覚を失ったことへの不安な囁きが漏れ始めた。
至る所に巧妙な罠が仕掛けられ、角を曲がるたびに待ち伏せた魔物の群れが牙を剥く。戦いはもはや大規模な軍勢同士の衝突ではなかった。狭い通路での乱戦。分断された部隊が各個撃破されていく消耗戦。王国軍は玉座の間という遥か遠い目標を目指し、一歩進むごとにその血を石畳に吸わせていった。
私の率いる医療部隊も、常に前線と目と鼻の先で移動を余儀なくされた。比較的安全な部屋を確保しては簡易な野戦病院を設営し、負傷者を運び込み治療を施す。そしてまた次の部屋へ。そのめまぐるしい繰り返し。
そんな中、私の目は自然と常に戦いの最前線に立つタイヨウの姿を追っていた。そして、気づいてしまった。彼の戦い方が、あまりにも異常であることに。
彼は常に仲間の前に立っていた。魔術師タイプの魔物が詠唱を始めたと見るや、彼は誰よりも早くその射線に割り込み、放たれる呪詛の光をその身に受けた聖剣で弾き返す。分厚い盾を持つ重装兵でさえ怯むような巨大な魔獣が突撃してくれば、彼は兵士たちを背後へ下がらせ、たった一人でその突進を正面から受け止める。
彼は軍の切り札であると同時に、全体の盾となっていた。全ての危険な攻撃を、彼がその一身に引き受けていたのだ。
他の兵士たちはその英雄的な姿に熱狂し、士気を高めていた。しかし、治癒師である私には見えていた。彼の脆い真実の姿が。聖剣から放たれる神々しい光のオーラが一戦闘ごとにその輝きを失い、彼の動きに疲労によるミリ単位の遅延が生じ始めている。彼は自身の魔力と生命力そのものを燃料にして燃え上がっているのだ。このままでは、魔王の元へたどり着く前に彼自身が燃え尽きてしまう。
(なぜ、これほどまでに無謀な戦いを……)
私の胸に、あの夜のベテラン兵士の言葉が蘇る。『この世界が勝手に背負わせた、「英雄」という名の十字架』。そして、私自身の言葉。『その力に、何の意味があるの!?』
(まさか……。私のあの言葉が、呪いのように彼を縛り付けているというの……?)
その恐ろしい可能性に気づいた時、私の心は冷たい不安で締め付けられた。
そして運命の時が訪れた。
いくつもの罠と戦闘を乗り越え、私たちは城内の中庭と思われる広大な空間へとたどり着いた。天井はなく、禍々しい紫色の月が不気味な光を投げかけている。そこで私たちを待ち構えていた者がいた。
一体の魔族。禍々しい紫色の甲殻。背中から生えた四本の腕。見間違えるはずもない。あの忌まわしいカインの仇だ。
辺境警備隊の男たちから、驚きと憎悪の声が上がる。
タイヨウの纏う空気が変わった。それまでの冷静な指揮官の顔が消え、凍てつくような冷たい怒りの仮面がその顔を覆う。「……全員、下がれ」彼の低い声が広間に響いた。「こいつは俺がやる」
「タイヨウ!」
私は思わず叫んだ。「駄目よ! 一人でなんて無謀だわ! みんなで、連携すれば……!」バルガスやカイリも同調し、武器を構える。しかしタイヨウは、私たちの言葉などまるで聞こえていないかのように、聖剣を地面に突き立てた。白銀の光が迸り、私たちの足元に越えることのできない光の線を引く。
「ここから入ってくるな。これは、俺の戦いだ」
そのあまりにも傲慢な宣言に、私は言葉を失った。彼は私たちの助けを、その信頼さえも、絶対的な力で拒絶したのだ。
彼は聖剣を抜き放つと、一人、魔族の将軍へと突撃した。
それは戦いというより、憎悪と焦燥がぶつかり合う嵐そのものだった。タイヨウは防御を完全に捨てていた。ただひたすらに前へ。聖剣から光の斬撃を絶え間なく放ち続ける。
私は、仲間たちは、ただ見ていることしかできなかった。いや、違った。光の線の向こうで、ルナリアが杖を構え、将軍の動きを鈍らせようと魔法を放っている。カイリもまた、絶え間なく牽制の一撃を繰り出し、好機を窺っている。バルガスはいつでも飛び出せるようにと盾を構え、その背中を守ろうとしていた。彼らは決して諦めてはいなかった。タイヨウが引いた線を越えられずとも、必死に彼を支えようとしていたのだ。だが、当のタイヨウは、その支援さえも無視するかのように、猛攻を続けていた。
タイヨウの体にいくつもの赤い線が走る。腕が、足が、肩が切り裂かれていく。しかし彼は一切怯まない。その痛みさえも、前へ進むための推進力に変えているかのようだった。「タイヨウ!」私の悲鳴ももはや彼の耳には届いていない。彼はただ、カインの仇を、そして間に合わなかった自分自身の過去を断罪するかのように剣を振るい続けた。
そしてついにその瞬間が訪れた。
タイヨウは自らの脇腹が敵の刃に深く切り裂かれるのを覚悟の上で、一歩踏み込んだ。捨て身の一撃。彼の聖剣が将軍の甲殻の中心を深々と貫いた。魔族は信じられないというように目を見開き、そして断末魔の絶叫と共に黒い塵となって消滅した。
「……うおおおおおおっ!」
王国軍の兵士たちが勝利の雄叫びを上げた。カインの仇が討たれた。英雄がまたしても奇跡を起こしたのだと。しかし私は、その歓喜の輪に加わることはできなかった。私だけが見ていた。
勝利に沸く兵士たちに背を向けるように、タイヨウが深く深く呼吸を繰り返し、誰にも見られぬよう左手で血の滲む右の脇腹を強く押さえている姿を。その顔は血の気を失い、紙のように真っ白だった。
私は歓喜の声を上げる兵士たちをかき分けるようにして、彼の元へと駆け寄る。「タイヨウ、あなたの脇腹を……! 傷が深いわ!」彼は私の声にはっとしたように顔を上げた。そして、何でもないことのように虚勢を張って笑った。「……問題ない。ただのかすり傷だ」彼はそう言うと、再び兵士たちの方へ向き直り、力強い声で全軍を鼓舞し始めた。
しかし、私には分かっていた。あれはただのかすり傷などではない。彼の英雄という名の仮面の下に隠された、深い、致命傷になりかねない傷だということを。
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