月の雫と地の底の誓い

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第2話:砕かれた硝子の舞台

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私の完璧な世界に、最初の亀裂が入った。
エドワードの唇から紡がれた言葉は、確かに音の形を成していたはずなのに、私の耳には届かなかった。ただ彼の唇の動きだけが、やけにゆっくりと引き延ばされた時間の中を漂っているように見えた。

「――よって、セレスティア・フォン・アステル。君との婚約を、これより破棄する」

婚約を、破棄する。
その言葉がようやく意味を結んだ瞬間、大神殿の荘厳な静寂は真空のように私の周りの音を全て吸い尽くした。割れんばかりだった歓声も貴族たちの囁きも、遠くで燃える燭台の炎の揺らめきさえも、全てが遠い世界の出来事になる。
私の世界にはただ目の前のエドワードと、彼の冷たい瞳だけが存在していた。

「……何を、仰って……?」
かろうじて絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。悪夢だ。これはきっと儀式の緊張が見せている悪い夢に違いない。そうでなければ道理に合わない。私は完璧だった。彼の隣に立つために血の滲むような努力を重ね、完璧な婚約者として今日この日まで生きてきたのだから。

しかしエドワードの表情は変わらない。彼は私の手を握ったまま、まるで舞台の上で台詞を읊る役者のように、その冷酷な論理を展開し始めた。その言葉遣いは貴族らしい丁寧さを少しも崩してはいなかった。だからこそその内容はより一層、鋭利な刃物となって私の心を抉った。

「セレスティア、君は公爵令嬢として、私の婚約者として完璧だった。その知性も気品も、そして君の家が支えてきた東部防衛線も、これまでの王国にとっては必要不可欠なものだった。その点において私は君に深く感謝している」

感謝。その言葉がこれほどまでに残酷な響きを持つことを、私は初めて知った。それはまるで使い古した道具に最後の労いの言葉をかけるような、無機質で感情の伴わない響きだった。

「だが」と彼は続けた。私の反応など意にも介していないようだった。
「だが魔王軍の脅威を前に状況は変わったのだ。今の私に、今の王国に必要なのは“愛されること”より“勝利”なのだ。そしてその勝利をもたらす絶対的な力が、今ここに現れた」

彼の視線が一瞬だけ魔法陣の中に立つ黒髪の青年へと向けられる。その視線はすぐに私へと戻されたが、その一瞬に私は全てを理解してしまった。
彼の天秤はもう私には傾いていない。公爵家の権勢も私が築き上げてきた知識も、彼の隣に立つという私の存在そのものも、新たに手に入れた「勇者」という力の前に、もはや何の意味も持たなくなったのだ。

「君の家が支えてきた防衛線は、この勇者の力の前ではもはや意味をなさない。王国は新たな力を手に入れた。故に王家もまた新たな絆を結ぶべきだと判断した」

エドワードはそう言うと私の手を静かに離した。その温もりが消えた私の指先は急速に冷えていく。そして彼はまるで当然のことのように、私の隣、先ほどまで私が立っていた場所へと一人の令嬢を呼び寄せた。
豪奢な深紅のドレスを纏ったヴァリエール公爵家の令嬢エラーラ。彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、私の前を通り過ぎるとエドワードの腕に恭しく、しかしこれ見よがしにその手を絡ませた。

「皆に紹介しよう。我が新たなる婚約者、エラーラ・フォン・ヴァリエールだ。彼女の父君が率いる中央騎士団こそ、勇者殿と共に魔王を討つ王国の新たな剣となるだろう!」

エドワードが高らかに宣言した瞬間、今まで静まり返っていた会場は、今度は困惑と驚愕のざわめきで満たされた。ああ、ようやく皆にも音が戻ってきたらしい。けれど私の世界は未だに静寂の中だ。
ただ無数の視線が槍のように私に突き刺さるのだけは感じた。
驚愕。嘲笑。好奇。そして憐憫。
様々な感情がない交ぜになった視線の渦の中で、私はただ一人立ち尽くす。

「完璧であれば愛される」
私の人生を支えてきたその信念が、音を立てて砕け散っていく。それはまるで精巧に作られた硝子の城が土台から崩れ落ちていくようだった。壁が砕け、塔が倒れ、私を完璧な世界に閉じ込めていた輝きが無数の破片となって降り注ぐ。その破片の一つ一つが私の自信と誇りを容赦なく切り刻んでいった。

何が起きているの?
理解できない。理解したくない。
視界がゆっくりと白んでいく。遠くでエラーラが勝ち誇ったように私を見下しているのが見えた。エドワードは満足げに彼女の腰を抱いている。
ああ、あれが私の場所だったのに。

その時ふと、視界の端に異質な存在がいることに気がついた。
魔法陣の中に立つ黒髪の勇者。
彼はこの白昼の茶番劇をどんな表情で見ているのだろうか。私の意識が朦朧としながらも彼の方へと向かう。
彼の顔にはこの世界の住人が浮かべるような好奇や嘲笑はなかった。そこにあったのは純粋な驚きと、そして目の前で繰り広げられる理不尽な権力の行使に対する、静かで冷たい怒りのようなものが混じった複雑な色だった。
彼は私を見ていた。
この大神殿にいる誰よりもまっすぐに、私の最も惨めな瞬間をその黒い瞳に焼き付けていた。
その視線に射抜かれた瞬間、私は悟った。
私は今、見世物にされているのだ、と。
この国で最も華やかな舞台の上で、最も残酷な方法で私の社会的生命は絶たれようとしている。そして異世界から来た彼でさえもがその証人なのだ。

強烈な屈辱がようやく私の心を叩きのめした。血の気が引き、膝が笑い、立っていることさえままならない。
「衛兵、セレスティア嬢を控え室へ」
エドワードの感情のこもらない声が響く。いつの間にか私の両脇に立った衛兵が、まるで壊れた人形でも運ぶかのように私の腕を掴んだ。抵抗する力など残っていなかった。
私は彼らに引きずられるようにして、ゆっくりと舞台から降ろされていく。一段また一段と、私がこれまで登ってきた階段を逆さまに。
背後では新たな婚約者を得た王子が再び民衆の歓呼に応えているのだろう。もう振り返ることはできなかった。

大神殿の重い扉が私の後ろで閉ざされる。
その音を最後に私の意識は完全に途切れた。視界も聴覚も思考も、全てが真っ白な光に塗りつぶされていく。
砕かれた硝子の破片だけがキラキラと、私の心の中でいつまでも、いつまでも、舞い続けていた。
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