月の雫と地の底の誓い

YY

文字の大きさ
3 / 46

第3話:最も冷たい裏切り

しおりを挟む
大神殿の重い扉が閉ざされた後、どうやって馬車に乗り込み、慣れ親しんだ公爵邸の門をくぐったのか、記憶は曖昧だった。ただ思考の大部分を占めていたのは「これは悪夢だ」というか細い自己弁護だけ。現実ではない。目が覚めればきっといつもの朝が来て、私はエドワード王子の完璧な婚約者に戻っているはずだ。

しかし、現実は容赦なく冷たかった。

馬車を降りた私を迎えた公爵邸の空気は、その淡い期待を打ち砕くように冷え切っていた。すれ違う使用人たちは私を直視しようとせず、憐れみと戸惑いの混じった視線を床に落とすだけだ。いつもは陽光が溢れる壮麗なホールも、今日に限ってまるで光を拒むかのように薄暗く、重苦しい沈黙に支配されていた。嫌な予感が心臓を直接鷲掴みにするような感覚で私を襲った。

侍女に導かれるまま父の書斎へと続く長い廊下を歩く。一歩進むごとに足に鉛の枷が付けられていくようだ。それでも私は最後の希望を捨ててはいなかった。
父ならば。アステル公爵家の当主であり、誰よりも厳格で、しかし誰よりも私を誇りに思ってくれていた父ならば、きっとこの理不尽から私を救い出してくれるはずだ。王子の気まぐれに公爵家の名誉を賭けて異を唱えてくれるに違いない。そう信じたかった。

重厚なマホガニーの扉がゆっくりと開かれる。

部屋の中には父と母が立っていた。しかし私がその姿を認めた瞬間、かろうじて繋ぎとめていた希望の糸がぷつりと音を立てて切れた。

母は窓際に佇み、ただ俯いている。その肩は小刻みに震え、固く握りしめた両手は白くなるほど力が込められていた。私と目を合わせようとしない。その背中が、何かを必死に堪えているように見えた。一度だけ、震える手が私の方へ伸ばされかけたが、すぐに力なく落ちた。
そして父は。書斎の主であるにもかかわらず、私から顔を背けるように暖炉の前に立ち、その背を私に向けていた。いつも私を射抜くように見つめてきた厳しくも愛情深い灰色の瞳が、今はただ揺らめく炎だけを映している。

「お父様、お母様……」
声が震える。説明を求めようと口を開いた私を遮るように、父が静かだが有無を言わせぬ響きで言った。
「……全ては王子の御心のままに」
その声は感情というものが根こそぎ削ぎ落とされた、乾いた石のような声だった。そこには父親としての温情も公爵としての怒りもなかった。ただ決定事項を告げるだけの冷たい響きだけがあった。

「御心の、まま……? では、あの場で王子が仰ったことは全て……」
「そうだ」
父は一度もこちらを振り返らない。
絶望が足元から這い上がってくる。大神殿で砕かれた心に追い打ちをかけるような、最も信じていた人間からの裏切り。
「なぜ……なぜですの、お父様! 私が、アステル公爵家が、これまでどれだけ王家に尽くしてきたというのですか! こんな理不尽、許されるはずがありません!」
私は必死に助けを求めた。淑女の仮面をかなぐり捨て、ただの娘として父に、最後の希望に縋りついた。
「どうか王子にもう一度お話を……! このままでは私は……!」

その時だった。
「黙れ!」
地を這うような苦悩を振り払うかのような一喝が、部屋の空気を引き裂いた。
父が初めてこちらを振り向いた。しかしその瞳に宿っていたのは、私が期待した父性的な苦悩の色ではなかった。そこにあったのはただ冷え冷えとした氷のような決意だけだった。

「王命である」
彼はゆっくりと机に向かうと、埃をかぶった分厚い台帳を手に取り、私の目の前のテーブルに叩きつけた。鈍い音と共に乾いた埃が舞い上がる。
「お前には王都から最も遠く、魔王城に最も近い、あの忌み地の管理を命じる。事実上の追放だ」
追放。その言葉が現実のものとして私に突き刺さる。
「これがその辺境の現状だ。そして、今後お前が王家に納めるべき納税額だ」
古い台帳の黄ばんで劣化したページが、その土地の荒廃ぶりを雄弁に物語っていた。恐る恐る目を落とした帳簿に記されていたのは、現状のこの土地の収入の優に十倍はあろうかという絶望的な数字だった。
「……不可能、です」
絶句する私に、父は再び窓の外へと視線を移し冷たく言い放った。
「不可能を可能にするのがアステル公爵家の務めだ。お前は完璧な娘だったのだろう? ならばやってみせろ」

もう何も言えなかった。体中の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。ああ、私は捨てられたのだ。この国に、王子に、そして実の父親にさえも。
ふと、あの黒髪の勇者の静かな視線が脳裏をよぎった。 あの時の彼は何を思っていたのだろう。

父は話は終わったとばかりに部屋の出口へと向かった。扉の前に控えていた衛兵に顎で合図を送る。彼らが私を連行しに来たのだろう。
万事休す。私の人生はここで終わるのだ。

父が私の横を通り過ぎようとした、その瞬間だった。
衛兵たちには聞こえない、本当に私にしか聞こえないほどの小さな声で彼は囁いた。
「……セレスティア。辺境の町には、古くからアステル家に恩義を感じている者がいるやもしれん。万策尽きた時は、その者を探し出し、これを示せ。一度きりだ。王命に逆らえば、アステル公爵家は根絶やしになる」
私の手に、冷たく硬いものがそっと、だが確かに握らされた。見ればそれは公爵家の紋章が刻まれた小さな指輪だった。
彼の灰色の瞳がほんの一瞬だけ私を捉えた。そこに宿っていたのは氷のような冷たさではなく、嵐のように荒れ狂う深い苦悩の色だった。しかしそれも瞬きする間には消え失せていた。
「だが、それを使えば、お前は二度と『セレスティア』ではいられなくなる。……分かったな」

父はそれだけを言うと、もう二度と振り返ることなく部屋を去っていった。重い扉が閉まる音が私の心臓に杭を打ち込むかのように響き渡る。
部屋には私と母だけが残された。
父が私に「最後の救い」を渡したことに気づいたのだろうか。それまで嗚咽をこらえていた母がついにその場に崩れ落ち、声を殺して泣き始めた。それは娘を救えなかった母親の悲しみであり、同時にそこまで追い詰められた公爵家の絶望を嘆く涙でもあった。

私はただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
握りしめられた指輪の金属の冷たさだけが、これが悪夢ではないという残酷な現実を私に告げていた。
本当の孤独が、ここから始まる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました

おりあ
恋愛
 アーデルベルト伯爵家の令嬢セリナは、王太子レオニスの婚約者として静かに、慎ましく、その務めを果たそうとしていた。 だが、感情を上手に伝えられない性格は誤解を生み、社交界で人気の令嬢リーナに心を奪われた王太子は、ある日一方的に婚約を破棄する。  失意のなかでも感情をあらわにすることなく、セリナは婚約を受け入れ、王都を離れ故郷へ戻る。そこで彼女は、自身の分析力や実務能力を買われ、辺境の行政視察に加わる機会を得る。  赴任先の北方の地で、若き領主アレイスターと出会ったセリナ。言葉で丁寧に思いを伝え、誠実に接する彼に少しずつ心を開いていく。 そして静かに、しかし確かに才能を発揮するセリナの姿は、やがて辺境を支える柱となっていく。  一方、王太子レオニスとリーナの婚約生活には次第に綻びが生じ、セリナの名は再び王都でも囁かれるようになる。  静かで無表情だと思われた令嬢は、実は誰よりも他者に寄り添う力を持っていた。 これは、「声なき優しさ」が、真に理解され、尊ばれていく物語。

竜帝に捨てられ病気で死んで転生したのに、生まれ変わっても竜帝に気に入られそうです

みゅー
恋愛
シーディは前世の記憶を持っていた。前世では奉公に出された家で竜帝に気に入られ寵姫となるが、竜帝は豪族と婚約すると噂され同時にシーディの部屋へ通うことが減っていった。そんな時に病気になり、シーディは後宮を出ると一人寂しく息を引き取った。 時は流れ、シーディはある村外れの貧しいながらも優しい両親の元に生まれ変わっていた。そんなある日村に竜帝が訪れ、竜帝に見つかるがシーディの生まれ変わりだと気づかれずにすむ。 数日後、運命の乙女を探すためにの同じ年、同じ日に生まれた数人の乙女たちが後宮に召集され、シーディも後宮に呼ばれてしまう。 自分が運命の乙女ではないとわかっているシーディは、とにかく何事もなく村へ帰ることだけを目標に過ごすが……。 はたして本当にシーディは運命の乙女ではないのか、今度の人生で幸せをつかむことができるのか。 短編:竜帝の花嫁 誰にも愛されずに死んだと思ってたのに、生まれ変わったら溺愛されてました を長編にしたものです。

夫より強い妻は邪魔だそうです【第一部完】

小平ニコ
ファンタジー
「ソフィア、お前とは離縁する。書類はこちらで作っておいたから、サインだけしてくれ」 夫のアランはそう言って私に離婚届を突き付けた。名門剣術道場の師範代であるアランは女性蔑視的な傾向があり、女の私が自分より強いのが相当に気に入らなかったようだ。 この日を待ち望んでいた私は喜んで離婚届にサインし、美しき従者シエルと旅に出る。道中で遭遇する悪党どもを成敗しながら、シエルの故郷である魔法王国トアイトンに到達し、そこでのんびりとした日々を送る私。 そんな時、アランの父から手紙が届いた。手紙の内容は、アランからの一方的な離縁に対する謝罪と、もうひとつ。私がいなくなった後にアランと再婚した女性によって、道場が大変なことになっているから戻って来てくれないかという予想だにしないものだった……

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

国王陛下はいつも眠たい

通木遼平
恋愛
 八つの国が一つになって建国されたフォルトマジア王国では、「主家」と呼ばれる八つのかつての王家が順番に王位を継ぐことが決まっていた。その一つであり先々代の王家でもあったエリーディアに生まれたフィーナディアは、ある日突然、現国王であるトゥーランのラグルに嫁ぐよう父から告げられる。彼女の父親と姉は自分たちこそ王位にふさわしいと言ってはばからず、どんな手を使ってでもラグルを陥れるよう命じたのだった。  しかしそんな父たちの考えに賛同できないフィーナディアは、父の企みをラグルに伝え、婚約もなかったことにし、後は自由にさせてもらおうと考える。しかしふとしたきっかけでラグルとの距離が縮まっていき……。

『白い結婚のはずでしたが、夫の“愛”が黒い。 限界突破はお手柔らかに!』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
白い結婚のはずだった。 姉の遺した娘――カレンの親権を守るため、 私と侯爵タイロンは“同じ屋根の下で暮らすだけ”の契約を交わした。 夜を共にしない、干渉しない、互いに自由。 それが白い結婚の条件。 ……だったはずなのに。 最近、夫の目が黒い。 「お前、俺を誘惑してるつもりか?」 「は? してませんけど? 白い結婚でしょうが」 「……俺は、白い結婚でよかったがな。  お前が俺を限界まで追い詰めるなら……話は別だ」 黒い。 完全に黒い。 理性じゃなくて、野生の方が勝ってる。 ちょっと待って、何その目!? やめて、白い結婚の契約書どこ行ったの!? 破らないで! ――白い結婚? 知らん。 もう限界。覚悟しろ。 タイロンの目がそう語っていた。 私、白い結婚で穏やかに暮らす予定だったんだけど!?

銀鷲と銀の腕章

河原巽
恋愛
生まれ持った髪色のせいで両親に疎まれ屋敷を飛び出した元子爵令嬢カレンは王城の食堂職員に何故か採用されてしまい、修道院で出会ったソフィアと共に働くことに。 仕事を通じて知り合った第二騎士団長カッツェ、副団長レグデンバーとの交流を経るうち、彼らとソフィアの間に微妙な関係が生まれていることに気付いてしまう。カレンは第三者として静観しているつもりだったけれど……実は大きな企みの渦中にしっかりと巻き込まれていた。 意思を持って生きることに不慣れな中、母との確執や初めて抱く感情に揺り動かされながら自分の存在を確立しようとする元令嬢のお話。恋愛の進行はゆっくりめです。 全48話、約18万字。毎日18時に4話ずつ更新。別サイトにも掲載しております。

慈愛と復讐の間

レクフル
ファンタジー
 とある国に二人の赤子が生まれた。  一人は慈愛の女神の生まれ変わりとされ、一人は復讐の女神の生まれ変わりとされた。  慈愛の女神の生まれ変わりがこの世に生を得た時、必ず復讐の女神の生まれ変わりは生を得る。この二人は対となっているが、決して相容れるものではない。  これは古より語り継がれている伝承であり、慈愛の女神の加護を得た者は絶大なる力を手にするのだと言う。  だが慈愛の女神の生まれ変わりとして生を亨けた娘が、別の赤子と取り換えられてしまった。 大切に育てられる筈の慈愛の女神の生まれ変わりの娘は、母親から虐げられながらも懸命に生きようとしていた。  そんな中、森で出会った迷い人の王子と娘は、互いにそれと知らずに想い合い、数奇な運命を歩んで行くこととなる。  そして、変わりに育てられた赤子は大切に育てられていたが、その暴虐ぶりは日をまして酷くなっていく。  慈愛に満ちた娘と復讐に駆られた娘に翻弄されながら、王子はあの日出会った想い人を探し続ける。  想い合う二人の運命は絡み合うことができるのか。その存在に気づくことができるのか……

処理中です...