月の雫と地の底の誓い

YY

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第3話:最も冷たい裏切り

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大神殿の重い扉が閉ざされた後、どうやって馬車に乗り込み、慣れ親しんだ公爵邸の門をくぐったのか、記憶は曖昧だった。ただ思考の大部分を占めていたのは「これは悪夢だ」というか細い自己弁護だけ。現実ではない。目が覚めればきっといつもの朝が来て、私はエドワード王子の完璧な婚約者に戻っているはずだ。

しかし、現実は容赦なく冷たかった。

馬車を降りた私を迎えた公爵邸の空気は、その淡い期待を打ち砕くように冷え切っていた。すれ違う使用人たちは私を直視しようとせず、憐れみと戸惑いの混じった視線を床に落とすだけだ。いつもは陽光が溢れる壮麗なホールも、今日に限ってまるで光を拒むかのように薄暗く、重苦しい沈黙に支配されていた。嫌な予感が心臓を直接鷲掴みにするような感覚で私を襲った。

侍女に導かれるまま父の書斎へと続く長い廊下を歩く。一歩進むごとに足に鉛の枷が付けられていくようだ。それでも私は最後の希望を捨ててはいなかった。
父ならば。アステル公爵家の当主であり、誰よりも厳格で、しかし誰よりも私を誇りに思ってくれていた父ならば、きっとこの理不尽から私を救い出してくれるはずだ。王子の気まぐれに公爵家の名誉を賭けて異を唱えてくれるに違いない。そう信じたかった。

重厚なマホガニーの扉がゆっくりと開かれる。

部屋の中には父と母が立っていた。しかし私がその姿を認めた瞬間、かろうじて繋ぎとめていた希望の糸がぷつりと音を立てて切れた。

母は窓際に佇み、ただ俯いている。その肩は小刻みに震え、固く握りしめた両手は白くなるほど力が込められていた。私と目を合わせようとしない。その背中が、何かを必死に堪えているように見えた。一度だけ、震える手が私の方へ伸ばされかけたが、すぐに力なく落ちた。
そして父は。書斎の主であるにもかかわらず、私から顔を背けるように暖炉の前に立ち、その背を私に向けていた。いつも私を射抜くように見つめてきた厳しくも愛情深い灰色の瞳が、今はただ揺らめく炎だけを映している。

「お父様、お母様……」
声が震える。説明を求めようと口を開いた私を遮るように、父が静かだが有無を言わせぬ響きで言った。
「……全ては王子の御心のままに」
その声は感情というものが根こそぎ削ぎ落とされた、乾いた石のような声だった。そこには父親としての温情も公爵としての怒りもなかった。ただ決定事項を告げるだけの冷たい響きだけがあった。

「御心の、まま……? では、あの場で王子が仰ったことは全て……」
「そうだ」
父は一度もこちらを振り返らない。
絶望が足元から這い上がってくる。大神殿で砕かれた心に追い打ちをかけるような、最も信じていた人間からの裏切り。
「なぜ……なぜですの、お父様! 私が、アステル公爵家が、これまでどれだけ王家に尽くしてきたというのですか! こんな理不尽、許されるはずがありません!」
私は必死に助けを求めた。淑女の仮面をかなぐり捨て、ただの娘として父に、最後の希望に縋りついた。
「どうか王子にもう一度お話を……! このままでは私は……!」

その時だった。
「黙れ!」
地を這うような苦悩を振り払うかのような一喝が、部屋の空気を引き裂いた。
父が初めてこちらを振り向いた。しかしその瞳に宿っていたのは、私が期待した父性的な苦悩の色ではなかった。そこにあったのはただ冷え冷えとした氷のような決意だけだった。

「王命である」
彼はゆっくりと机に向かうと、埃をかぶった分厚い台帳を手に取り、私の目の前のテーブルに叩きつけた。鈍い音と共に乾いた埃が舞い上がる。
「お前には王都から最も遠く、魔王城に最も近い、あの忌み地の管理を命じる。事実上の追放だ」
追放。その言葉が現実のものとして私に突き刺さる。
「これがその辺境の現状だ。そして、今後お前が王家に納めるべき納税額だ」
古い台帳の黄ばんで劣化したページが、その土地の荒廃ぶりを雄弁に物語っていた。恐る恐る目を落とした帳簿に記されていたのは、現状のこの土地の収入の優に十倍はあろうかという絶望的な数字だった。
「……不可能、です」
絶句する私に、父は再び窓の外へと視線を移し冷たく言い放った。
「不可能を可能にするのがアステル公爵家の務めだ。お前は完璧な娘だったのだろう? ならばやってみせろ」

もう何も言えなかった。体中の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。ああ、私は捨てられたのだ。この国に、王子に、そして実の父親にさえも。
ふと、あの黒髪の勇者の静かな視線が脳裏をよぎった。 あの時の彼は何を思っていたのだろう。

父は話は終わったとばかりに部屋の出口へと向かった。扉の前に控えていた衛兵に顎で合図を送る。彼らが私を連行しに来たのだろう。
万事休す。私の人生はここで終わるのだ。

父が私の横を通り過ぎようとした、その瞬間だった。
衛兵たちには聞こえない、本当に私にしか聞こえないほどの小さな声で彼は囁いた。
「……セレスティア。辺境の町には、古くからアステル家に恩義を感じている者がいるやもしれん。万策尽きた時は、その者を探し出し、これを示せ。一度きりだ。王命に逆らえば、アステル公爵家は根絶やしになる」
私の手に、冷たく硬いものがそっと、だが確かに握らされた。見ればそれは公爵家の紋章が刻まれた小さな指輪だった。
彼の灰色の瞳がほんの一瞬だけ私を捉えた。そこに宿っていたのは氷のような冷たさではなく、嵐のように荒れ狂う深い苦悩の色だった。しかしそれも瞬きする間には消え失せていた。
「だが、それを使えば、お前は二度と『セレスティア』ではいられなくなる。……分かったな」

父はそれだけを言うと、もう二度と振り返ることなく部屋を去っていった。重い扉が閉まる音が私の心臓に杭を打ち込むかのように響き渡る。
部屋には私と母だけが残された。
父が私に「最後の救い」を渡したことに気づいたのだろうか。それまで嗚咽をこらえていた母がついにその場に崩れ落ち、声を殺して泣き始めた。それは娘を救えなかった母親の悲しみであり、同時にそこまで追い詰められた公爵家の絶望を嘆く涙でもあった。

私はただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
握りしめられた指輪の金属の冷たさだけが、これが悪夢ではないという残酷な現実を私に告げていた。
本当の孤独が、ここから始まる。
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