月の雫と地の底の誓い

YY

文字の大きさ
4 / 46

第4話:忘却への旅路

しおりを挟む
夜が明ける前に私はたった一台の簡素な馬車に乗せられた。
運び込まれた荷物は最低限の着替えが入った小さなトランクが一つだけ。かつて王宮の夜会へ向かう際に用いたアステル公爵家の紋章が輝く豪奢な馬車とは似ても似つかない。揺れの激しい古びた木製の箱。それが今の私に与えられた世界の全てだった。

見送る者は誰もいない。父も泣き崩れていた母も、姿を見せることはなかった。私はただ無感情に馬車へ乗り込み、硬い座席に身を沈める。やがて車輪が軋む音を立てて動き出し、私は生まれ育った公爵邸、そして栄華を極めた王都アステルを後にした。

しかし、現実は容赦なく冷たかった。

馬車の小さな窓から遠ざかる街並みが見える。白亜の塔、壮麗な貴族の屋敷、活気に満ちた大通り。その全てがもはや私の人生とは何の関係もない、遠いおとぎ話の風景になっていく。
美しい。けれど私の心には何も響かなかった。
喜びも悲しみも怒りさえも、今はどこか遠い場所にある。あの大神殿で、そして父の書斎で私の心は砕け散り、感情というものは全て流れ出てしまったようだった。今の私はただ息をしているだけの空っぽの人形に過ぎない。

旅が始まって一週間が過ぎた。
その間、馬車は王都の喧騒を完全に離れ、豊かな緑が広がる平野をひた走っていた。空はどこまでも青く澄み渡り、穏やかな陽光が世界を祝福していた。けれどその美しさは私の凍てついた心に染み入ることはない。私はただ窓の外を流れていく景色を、色のない絵画のようにぼんやりと眺めるだけだった。食べるように促されたものを口に運び、日が暮れれば眠る。そんな命の営みとは呼べないような日々が無感動に過ぎていく。

その日も空は雲一つない快晴だった。馬車に差し込む柔らかな光が私の手元を照らす。ふとその光景に私は遠い記憶の扉を開けていた。

あれは私がまだずっと幼かった雨の日のことだ。
公爵邸の広い庭で遊んでいた私は濡れた芝生に足を取られて派手に転んでしまった。泥だらけになったドレス、擦りむいた膝の痛み。何より一人ぼっちだった心細さで私は大声で泣きじゃくった。降りしきる雨が私の涙を隠してくれる。
もう誰も来てくれないのだと諦めかけた、その時だった。
不意に私を濡らしていた雨が止んだ。顔を上げると、大きな傘の向こうに、心配そうに眉を下げた父の顔が見えた。

「大丈夫か、セレスティア」

彼はそう言うと泥だらけの私をものともせず、その大きな腕で優しく抱き上げてくれた。彼の外套から香る懐かしいインクと古書の匂い。太く節くれだった、けれど温かい手。
あの頃の父は私の世界の全てだった。私の完璧を誰よりも喜び、私の未来を誰よりも信じてくれていた。

――あの父は、もういない。
思い出した温かい記憶は鋭い刃となって今の私を切りつけた。凍てついていたはずの心に鈍い痛みが走る。私は握りしめられたままだった右手に意識を向けた。あの日父が無理やり握らせた、あの指輪。微かな温もりを失ったその感触が、優しい思い出を容赦なく現実に引き戻す。

それからだった。まるで私の内面を映し出すかのように空の様子が変わり始めたのは。
豊かだった平野はいつしか姿を消し、道は険しい山道へと変わっていった。空を覆っていた青は徐々に色褪せ、灰色の雲が地平線の向こうから滲み出してくる。
旅の終わりが近いことを私は肌で感じていた。

そして、ついにその日は来た。
馬車が辺境と呼ばれる地域に入った途端、空は完全に鉛色の雲に覆われ、冷たい雨が窓を激しく打ち始めた。それは私の未来を暗示しているかのようだった。パタパタと響く雨音だけが世界の全ての音だった。
どれほどの時間が経っただろう。不意に馬車が速度を落とし止まった。御者台に座っていた護衛の兵士が一度もこちらを振り返ることなく事務的な声で告げた。

「着きました。ここがあなたの新しい領地です」

その声には何の感情も含まれていない。ただ厄介な任務がようやく終わったという安堵の色だけが滲んでいた。
私はゆっくりと顔を上げた。雨粒が伝う窓の向こうに、私の「新しい領地」の姿が見える。

――息を、呑んだ。
そこは町と呼ぶことさえ躊躇われるような場所だった。
道は舗装されておらず雨水でぬかるんで大きな水たまりを作っている。道の両脇に立つ家々はそのほとんどが傾き、壁は剥がれ落ち屋根には穴が開いていた。かつては鉱山町として栄えたと聞いたが今はその面影もなく、ただ寂れて朽ち果てていくだけの時間が流れている。
人の姿はまばらだった。雨を避けて軒下に立つ老人、泥水で遊ぶ痩せた子供。彼らは王都から来た見慣れぬ馬車を、そしてその中にいる私を希望のない虚ろな目で見つめていた。好奇心すらない。ただまた一人厄介者が流されてきたとでも言うような諦観に満ちた瞳。
想像を絶していた。
追放されると決まった時でさえここまで酷いとは思ってもみなかった。これは人が住む場所ではない。ここは全てを諦めた者たちがただ死を待つためだけの場所だ。

「さあ、降りてください。我々は王都へ戻らねばなりませんので」
兵士に促され私はわれるように馬車を降りた。扉が開いた瞬間、冷たい雨が私に降り注ぐ。高価だったはずのドレスの裾は瞬く間に泥水を吸って重くなった。
私の返事を待つこともなく馬車は乱暴に方向転換すると、すぐに走り去っていった。地を蹴る馬の蹄の音と車輪が泥を跳ね上げる音が遠ざかっていく。
やがてそれも聞こえなくなり後にはただ冷たい雨音だけが残された。

私は町の中心にただ一人立ち尽くす。
雨に打たれ、泥にまみれ、誰一人として手を差し伸べる者もいない。
栄光も地位も家族も未来も、全てを失った。
絶望。
これ以上の絶望などこの世にあるのだろうか。凍てついていたはずの心さえもがこのあまりにも残酷な現実の前にひび割れて悲鳴を上げている。

このままこの冷たい雨に打たれて朽ち果てていくのだろうか。
この希望のない土地で誰にも知られず忘れ去られて。
そう思った、瞬間だった。

私の心の奥底で何かがちりりと音を立てて燃えた。
それはほんの小さな火種。
絶望の底の最も暗く冷たい場所で生まれた微かな熱。
それは反発心だったのかもしれない。
あるいはただの生存本能だったのかもしれない。
けれどそれは確かに私の内に宿った光だった。

(このままでは、終われない)

声にはならなかった。しかしその想いは確かに私の意志となった。
私はゆっくりと顔を上げた。降りしきる雨の向こうに荒れ果てた町並みを見据える。
私の瞳の奥にほんの小さな光が宿ったのを、この時誰一人として知る者はいなかった。

「……ここから…」

第二幕への静かな助走が今始まった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

竜帝に捨てられ病気で死んで転生したのに、生まれ変わっても竜帝に気に入られそうです

みゅー
恋愛
シーディは前世の記憶を持っていた。前世では奉公に出された家で竜帝に気に入られ寵姫となるが、竜帝は豪族と婚約すると噂され同時にシーディの部屋へ通うことが減っていった。そんな時に病気になり、シーディは後宮を出ると一人寂しく息を引き取った。 時は流れ、シーディはある村外れの貧しいながらも優しい両親の元に生まれ変わっていた。そんなある日村に竜帝が訪れ、竜帝に見つかるがシーディの生まれ変わりだと気づかれずにすむ。 数日後、運命の乙女を探すためにの同じ年、同じ日に生まれた数人の乙女たちが後宮に召集され、シーディも後宮に呼ばれてしまう。 自分が運命の乙女ではないとわかっているシーディは、とにかく何事もなく村へ帰ることだけを目標に過ごすが……。 はたして本当にシーディは運命の乙女ではないのか、今度の人生で幸せをつかむことができるのか。 短編:竜帝の花嫁 誰にも愛されずに死んだと思ってたのに、生まれ変わったら溺愛されてました を長編にしたものです。

婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました

おりあ
恋愛
 アーデルベルト伯爵家の令嬢セリナは、王太子レオニスの婚約者として静かに、慎ましく、その務めを果たそうとしていた。 だが、感情を上手に伝えられない性格は誤解を生み、社交界で人気の令嬢リーナに心を奪われた王太子は、ある日一方的に婚約を破棄する。  失意のなかでも感情をあらわにすることなく、セリナは婚約を受け入れ、王都を離れ故郷へ戻る。そこで彼女は、自身の分析力や実務能力を買われ、辺境の行政視察に加わる機会を得る。  赴任先の北方の地で、若き領主アレイスターと出会ったセリナ。言葉で丁寧に思いを伝え、誠実に接する彼に少しずつ心を開いていく。 そして静かに、しかし確かに才能を発揮するセリナの姿は、やがて辺境を支える柱となっていく。  一方、王太子レオニスとリーナの婚約生活には次第に綻びが生じ、セリナの名は再び王都でも囁かれるようになる。  静かで無表情だと思われた令嬢は、実は誰よりも他者に寄り添う力を持っていた。 これは、「声なき優しさ」が、真に理解され、尊ばれていく物語。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

夫より強い妻は邪魔だそうです【第一部完】

小平ニコ
ファンタジー
「ソフィア、お前とは離縁する。書類はこちらで作っておいたから、サインだけしてくれ」 夫のアランはそう言って私に離婚届を突き付けた。名門剣術道場の師範代であるアランは女性蔑視的な傾向があり、女の私が自分より強いのが相当に気に入らなかったようだ。 この日を待ち望んでいた私は喜んで離婚届にサインし、美しき従者シエルと旅に出る。道中で遭遇する悪党どもを成敗しながら、シエルの故郷である魔法王国トアイトンに到達し、そこでのんびりとした日々を送る私。 そんな時、アランの父から手紙が届いた。手紙の内容は、アランからの一方的な離縁に対する謝罪と、もうひとつ。私がいなくなった後にアランと再婚した女性によって、道場が大変なことになっているから戻って来てくれないかという予想だにしないものだった……

国王陛下はいつも眠たい

通木遼平
恋愛
 八つの国が一つになって建国されたフォルトマジア王国では、「主家」と呼ばれる八つのかつての王家が順番に王位を継ぐことが決まっていた。その一つであり先々代の王家でもあったエリーディアに生まれたフィーナディアは、ある日突然、現国王であるトゥーランのラグルに嫁ぐよう父から告げられる。彼女の父親と姉は自分たちこそ王位にふさわしいと言ってはばからず、どんな手を使ってでもラグルを陥れるよう命じたのだった。  しかしそんな父たちの考えに賛同できないフィーナディアは、父の企みをラグルに伝え、婚約もなかったことにし、後は自由にさせてもらおうと考える。しかしふとしたきっかけでラグルとの距離が縮まっていき……。

『白い結婚のはずでしたが、夫の“愛”が黒い。 限界突破はお手柔らかに!』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
白い結婚のはずだった。 姉の遺した娘――カレンの親権を守るため、 私と侯爵タイロンは“同じ屋根の下で暮らすだけ”の契約を交わした。 夜を共にしない、干渉しない、互いに自由。 それが白い結婚の条件。 ……だったはずなのに。 最近、夫の目が黒い。 「お前、俺を誘惑してるつもりか?」 「は? してませんけど? 白い結婚でしょうが」 「……俺は、白い結婚でよかったがな。  お前が俺を限界まで追い詰めるなら……話は別だ」 黒い。 完全に黒い。 理性じゃなくて、野生の方が勝ってる。 ちょっと待って、何その目!? やめて、白い結婚の契約書どこ行ったの!? 破らないで! ――白い結婚? 知らん。 もう限界。覚悟しろ。 タイロンの目がそう語っていた。 私、白い結婚で穏やかに暮らす予定だったんだけど!?

銀鷲と銀の腕章

河原巽
恋愛
生まれ持った髪色のせいで両親に疎まれ屋敷を飛び出した元子爵令嬢カレンは王城の食堂職員に何故か採用されてしまい、修道院で出会ったソフィアと共に働くことに。 仕事を通じて知り合った第二騎士団長カッツェ、副団長レグデンバーとの交流を経るうち、彼らとソフィアの間に微妙な関係が生まれていることに気付いてしまう。カレンは第三者として静観しているつもりだったけれど……実は大きな企みの渦中にしっかりと巻き込まれていた。 意思を持って生きることに不慣れな中、母との確執や初めて抱く感情に揺り動かされながら自分の存在を確立しようとする元令嬢のお話。恋愛の進行はゆっくりめです。 全48話、約18万字。毎日18時に4話ずつ更新。別サイトにも掲載しております。

慈愛と復讐の間

レクフル
ファンタジー
 とある国に二人の赤子が生まれた。  一人は慈愛の女神の生まれ変わりとされ、一人は復讐の女神の生まれ変わりとされた。  慈愛の女神の生まれ変わりがこの世に生を得た時、必ず復讐の女神の生まれ変わりは生を得る。この二人は対となっているが、決して相容れるものではない。  これは古より語り継がれている伝承であり、慈愛の女神の加護を得た者は絶大なる力を手にするのだと言う。  だが慈愛の女神の生まれ変わりとして生を亨けた娘が、別の赤子と取り換えられてしまった。 大切に育てられる筈の慈愛の女神の生まれ変わりの娘は、母親から虐げられながらも懸命に生きようとしていた。  そんな中、森で出会った迷い人の王子と娘は、互いにそれと知らずに想い合い、数奇な運命を歩んで行くこととなる。  そして、変わりに育てられた赤子は大切に育てられていたが、その暴虐ぶりは日をまして酷くなっていく。  慈愛に満ちた娘と復讐に駆られた娘に翻弄されながら、王子はあの日出会った想い人を探し続ける。  想い合う二人の運命は絡み合うことができるのか。その存在に気づくことができるのか……

処理中です...