月の雫と地の底の誓い

YY

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第5話:灰と最初の鍬

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冷たい石の床の感触で意識を取り戻した。
あの雨の中倒れた私を、誰かがこの館まで運んでくれたらしい。昨日私を送り届けた兵士の最後の憐憫か、それとも見かねた町の住民か。どちらでもよかった。感謝の念など、今の私には湧いてこなかった。

辺境の町、グラキアに与えられた領主の館。その言葉の響きとは裏腹に、そこは打ち捨てられた廃墟同然だった。私が寝かされていたのは、かろうじて雨風をしのげるだけの埃っぽい一室だ。天蓋付きだったであろうベッドは枠組みだけが残り、窓には蜘蛛の巣が張っている。鼻をつくのは湿った土と黴の匂い。
夢を見ていた。大神殿のあの華やかな舞台。そして父の書斎のあの冷たい空気。砕け散った硝子の破片が今も目の奥でちらついている。

ゆっくりと体を起こす。泥だらけのドレスは無残に汚れ、肌に張り付いて冷たい。時間も分からない。ただ窓の隙間から差し込む光が、昼に近いことを教えてくれた。
茫然自失としたまま、どれくらい座っていただろうか。不意に腹の底から鳴る間抜けな音で我に返った。
「……空腹?」
なんと滑稽なことだろう。全てを失い、絶望の底にいるというのに、この体は律儀にも「生」を求めていた。その生理的な欲求が、皮肉にも私の心を空虚な虚無から引きずり出した。

よろめきながら立ち上がり、館の中をさまよった。厨房らしき場所を見つけ、扉を開ける。だが、そこに広がっていた光景は、私の最後の期待さえ打ち砕いた。
食糧庫は空っぽ。棚には干からびて正体の分からなくなった野菜の屑が転がるだけ。かまどには分厚い煤がこびりつき、鍋の底には緑色の何かがへばりついていた。水瓶の水は濁り、とても飲めそうにない。
「……死んでいる」
この町は、この館は、もうずっと昔に死んでいるのだ。私は、まさにその死んだ場所に捨てられたのだと改めて悟った。

何か食べられるものを探さなければ。その一心で館の外へ出る決心をした。昨日着ていた汚れたドレスのまま、おぼつかない足取りで町の中心へと向かう。
雨は上がっていたが、空は依然として灰色の雲に覆われ、町全体が陰鬱な空気に沈んでいた。グラキアはかつて鉱山で栄えたと聞くが、その面影はどこにもない。錆びたトロッコの残骸が道の脇に打ち捨てられ、潰れた鉱夫の宿屋らしき建物が寒々しく佇んでいた。自分の足でこの土地を踏みしめることで、その絶望はより一層現実味を帯び、私に重くのしかかった。

住民たちの視線を感じる。
家の戸口から、薄汚れた窓の向こうから、何人もの人々が私を見ていた。その視線には好奇と、それ以上に色濃い侮蔑の色がこもっていた。
「王都から来たお姫様だ」
「あんな綺麗な服を着て何ができるっていうんだ」
「どうせ数日もすれば泣いて王都に帰りたがるだろうさ」
声には出さずとも彼らの目がそう語っていた。これまで私が向けられてきた羨望や敬意とは全く違う、冷たく突き放すような視線。それは私がもはや「アステル公爵令嬢」でも「王子の婚約者」でもなく、ただの「厄介者」であることを容赦なく突きつけてきた。
誰かに助けてもらおうなどという考えは、この時完全に消え失せた。他者への期待はもうしない。この土地では、誰も私を助けてはくれないのだ。

私はいたたまれなくなり、館へと逃げ帰った。背中に突き刺さる視線から逃れるように、荒れ果てた庭へと足を踏み入れる。
もうどうでもよかった。
「このまま、朽ち果てるしかないのか……」
この死んだ土地で空腹のまま朽ち果てていくのが私の運命なのだ。そう思った。

その時だった。
視界の隅に、ほんの小さな色が飛び込んできた。
それは崩れかけた石垣の隙間。打ち捨てられた瓦礫と枯れた雑草に囲まれた陽の当たらない場所。そんな場所にたった一輪、紫色の野の花が咲いていた。
小さな、本当に小さな花だった。名前も知らない。王宮の庭園で咲き誇る、手入れの行き届いたどの薔薇よりもそれはみすぼらしかった。
けれど。
その花は誰に褒められるでもなく、水をやられるでもなく、ただそこに在った。泥の中から、石の隙間から、必死に茎を伸ばし、天に向かって凛と顔を上げていた。その紫色の花弁は、まるでこの灰色の世界でたった一つの宝石のように鮮やかな生命の色を放っていた。

私はその場に吸い寄せられるようにゆっくりと花に近づいた。そしてそっと膝をつき、その小さな花弁に指先で触れようとした。
打ち捨てられ、泥にまみれ、誰からも見向きもされない。それはまるで今の私のようだった。
だが同時に、こうありたい、と強く願った。
この花のように。たとえ絶望の底にいても、自らの力で立ち、顔を上げ、生きていたい。
そう願った瞬間、凍てついていたはずの心の奥底で何かが音を立てて動き始めた。それは思考ではなかった。もっと根源的な、魂の衝動だった。

「このまま、朽ち果てたくはない!」

立ち上がった。足はもうよろめいていなかった。
何かに突き動かされるように、館の裏手にある古びた物置の扉を開ける。黴臭い空気の中、埃をかぶった農具が壁に立てかけられていた。その中から私は一本の鍬を手に取った。柄の部分はささくれ立ち、金属の先は赤黒く錆びついている。この土地の荒廃を象徴するような惨めな道具だった。

その錆びた鍬を手に、館の裏庭へと向かった。そこにはかつて家庭菜園だったと思わしき長方形の区画があった。今はただ背の高い雑草が生い茂り、石ころだらけの固い地面が広がっているだけだ。
「……こんなこと、したこともないのに」
自嘲の言葉が思わず口から漏れた。
公爵令嬢として土に触れることなど一度もなかった。私の手は刺繍針と羽根ペンを持つためにあったのだ。
けれど私の体はもう迷わなかった。

泥濘に足を取られながらも菜園の中央に立った。そして錆びた鍬を力任せに振り下ろした。
ガツン、と硬い音がして手に鈍い衝撃が走る。鍬の先は固い地面に数センチ食い込んだだけだった。
もう一度。さらに強く。
ガッ、ガリッ。
何度も何度も一心不乱に鍬を地面に叩きつけた。どうすれば効率よく耕せるのかなど知らない。王宮の書物で読んだ土壌学の知識の断片が頭の隅をよぎったが、今はそんなことどうでもよかった。ただ、無心で体を動かした。
息が切れ、額から汗が流れ落ちる。泥が跳ね、純白だったドレスは見る影もなく汚れていく。手のひらの皮がめくれ、じんじんと熱を持った。
けれど不思議と苦痛ではなかった。
むしろ生きていることを実感した。自分の意志で自分の体で何かを為している。その事実が、空っぽだった私の心に確かな熱を灯していく。

それは領地経営などという高尚なものではない。
ただ何かを生み出したかった。
この死んだ土地に、自分の手で何か一つでも命を芽吹かせたかったのだ。

私は時間の経つのも忘れ、一心不乱に地面を耕し続けた。
灰色の空の下、泥にまみれた一人の女が錆びた鍬を振るう。
その姿が、この辺境の地での私の再起の、まさしく「最初の一鍬」だった。
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