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第6話:鉄と最初の言葉
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あれから三日が経った。
私は日の出と共に起き、日が暮れるまで鍬を振るうという生まれて初めての生活を送っていた。全身を襲う筋肉の痛みは凄まじいが、夜は泥のように眠る。だが、不思議と心は穏やかだった。土の匂い、汗を拭う風の感触、そして自分の手で少しずつ姿を変えていく地面。その全てが、私が「ここにいる」という確かな実感を与えてくれた。
虚飾に満ちた王都での日々よりも、今のほうがずっと生きていると思えた。
その日も私は一心不乱に地面を耕していた。固い土を砕き、石を拾い、雑草の根を断ち切る。単調な作業の繰り返し。だが、この無心になれる時間が今の私には必要だった。
あと少し。今日の目標はあの大きな岩のところまで。そう心に決めて錆びた鍬を力一杯振り下ろした、その瞬間だった。
バキッ!
乾いた音と同時に、鍬の手応えが消えた。見れば、刃は無残に折れ、手の中に残ったのは鉄屑と木の棒だけ。
「……あ……」言葉にならない声が漏れる。胸が急速に冷え、立ち尽くした。
せっかくほんの少しだけ前に進めると思ったのに。この土地で自分の力で何かを生み出せるかもしれないと、微かな希望を抱き始めたばかりだったのに。
**両の拳を握りしめる。この手は、この体は、結局私一人では何もできないのか。**どうしようもない無力感が、再び私を絶望の淵へと引きずり込もうとしていた。
どうする? このまま諦めるのか?
脳裏に王都での嘲笑と父の冷たい目がよぎった。「不可能を可能にするのがアステル公爵家の務めだ」。かつては憎しみさえ感じたその言葉が、今、奇妙なほどに私を突き動かした。
諦めない。
私は壊れた鍬の残骸を手に町へと向かった。
住民たちに震える声で尋ねて回る。「鍛冶屋はありませんか」と。彼らの反応は相変わらず冷ややかだったが、何人目かに聞いた老婆が、顎で町の外れを指し示した。
「あそこだよ。もう何年も火なんて見てないけどね」
教えられた場所は町の中心から少し離れた寂れた一角にあった。石炭の燃え殻が黒い山を作り、錆びた鉄屑が雨ざらしになっている。建物は煤で黒ずみ、屋根は崩れかけていた。炉の火は完全に落ちており、ここもまたこの町と同じように死んでいるように見えた。
それでも私は意を決して開け放たれたままの入り口から声をかけた。
「ごめんください。誰かいらっしゃいますか」
しばらくの静寂の後、奥から一人の青年が現れた。
私とさほど変わらぬ年頃に見える。日に焼けた肌は煤で汚れ、無造作に伸ばした赤茶色の髪が額にかかっていた。丈夫そうな革の仕事着をまとい、何よりも目を引いたのはその鍛え上げられた腕と、ぶっきらぼうで全てを拒絶するような鋭い眼差しだった。
彼はこちらの姿を認めると、眉間に深いしわを寄せた。一瞬、言葉にできない疲労と諦めがその目に宿ったのを、私は見逃さなかった。
「……なんだあんた。ここは遊び場じゃねえぞ」
「あの、これを……修理していただきたくて」
私はおずおずと壊れた鍬を差し出した。
彼は私の泥だらけのドレスと鍬を交互に見比べると、鼻で笑った。
「はっ。お貴族様のお遊び道具なんざ知ったこっちゃねえ。よそでやってもらいな」
その突き放すような物言いに心が凍る。やはりここでも同じなのか。
「ですが町で唯一の鍛冶屋だと伺いました。お願いです。これがないと私は……」
「だからうちはお貴族様の相手はしてねぇって言ってんだ。さっさと帰んな」
彼はもう話は終わりだと言わんばかりに私に背を向けた。
その背中に私はほとんど無意識に声を張り上げていた。
「お願いします!」
そして私は彼に自分の両手を突き出していた。
「私は本気です」
私の手を見た青年――アルベルトはぴたりと動きを止めた。
その視線が私の手のひらに注がれる。それはもう公爵令嬢の手ではなかった。皮はめくれ、いくつもの豆が潰れ、赤黒い血が滲んでいる。爪の間には土が詰まり、およそ女性のものとは思えないほど荒れ果てていた。
私の言葉ではない。この手が私の覚悟を、私の三日間を雄弁に物語っていた。
彼はゆっくりとこちらに振り向いた。その瞳から先ほどまでの侮蔑の色が消え、代わりに職人としての純粋な好奇の色が浮かんでいた。
彼は無言で私の手から壊れた鍬を受け取ると、その壊れた断面を指先で確かめるように撫でた。
「……ひでぇ錆び方だ。これじゃあ折れて当然だな」そう言いながら、彼の指先は妙に慎重で――まるで昔の記憶を確かめるようだった。
ぶっきらぼうな口調は変わらない。けれどその声には、もう拒絶の響きはなかった。
雑然とした工房に、彼が火を入れる。ふいごを押すたびに空気が唸り、黒ずんだ炉が赤く息を吹き返す。死んだはずの鍛冶場が、生き物のように脈打ち始めた。
彼は折れた鍬の金属部分を炉で熱し、金床の上で叩き始める。カーン、カーンというリズミカルな音が心地よく響いた。
しばらく私たちは無言だった。私はただ彼の仕事ぶりを食い入るように見つめていた。
やがて彼がぽつりと呟いた。
「あんた、畑を耕してるのか」
「ええ……館の裏に小さな菜園があったので」
「ふうん。……まあ無駄だろうな」
「え?」
「この土地は鉄分が多すぎて作物が育ちにくいんだ。水はけも悪い。昔親父がこの土地でも使える農具を作ろうとして随分と苦労してたのを思い出したよ」
彼の言葉に私ははっとした。王宮の書物で読んだ土壌学の知識が蘇る。鉄分の多い土壌は酸性に傾き、特定の作物以外は根が育ちにくい。だから土壌改良が必要なのだと。
「……何か方法はありますでしょうか」
「さあな。だが少なくともこんなペラペラの鍬じゃ話にならねえだろうな」
彼はそう言うとただ修理するだけでなく、熱した鉄を叩き補強し、鍬の形そのものを少しずつ変えていった。その手つきは力強く、そして驚くほど繊細だった。
どれほどの時間が経っただろう。すっかり生まれ変わった鍬を水で冷やし、新しい柄にしっかりと固定すると、彼は「ほらよ」と私に差し出した。
それはもう以前の錆びた道具ではなかった。ずっしりと重く黒光りする刃先は、どんな固い土でも砕いてくれそうな力強さに満ちていた。
「ありがとう……ございます。お代は……」
私がそう言いかけると、彼は私の言葉を遮るように手のひらを見つめた。そして無言で作業台の引き出しを開け、中から小さな薬の壺と清潔な包帯を取り出した。
彼はそれを私の前にことりと置いた。
「……それ、つけておけ。化膿するぞ」
それは、あまりにも不器用で素朴な優しさだった。
見返りを求めるでもなく、ただ私の傷ついた手を案じてくれた純粋な善意。
それに触れた瞬間、私の心の奥で固く凍りついていた何かが音を立てて溶け出した。視界が急速に滲んでいく。
追放されて以来、初めてだった。
父にさえ見捨てられ、誰からも石ころのように扱われてきた私が、初めて一人の人間として温かいものに触れた。
ぽろり、と。私の目から熱い雫がこぼれ落ちた。それは自己憐憫の涙ではなかった。ただ、嬉しさと温かさに心が満たされ、涙が止まらなかった。
「なっ……なんで泣くんだよ!」
私の涙にアルベルトは心底驚いたように狼狽えている。
私は必死に涙を拭いながら何度も「ありがとう」と繰り返した。
彼はそんな私からバツが悪そうに顔をそむけると、ぼりぼりと頭を掻きながら吐き捨てるように言った。
「……礼なら、あんたが作った作物を食わせてくれ」
その言葉に私は顔を上げた。
そっぽを向いた彼の横顔は、口の端がわずかに緩んでいるのを隠せていない。
作物を、食わせてくれ。
その言葉は、私の荒れ果てた心に確かな種を植え付けた。
それは未来への、約束の種だった。
「……はい。必ず」
私は涙で濡れた顔のまま、精一杯の笑顔で頷いた。
修理された鍬を両手で固く握りしめる。
鉄の冷たさの中に、確かに人の温かさが宿っているのを感じながら。
私は日の出と共に起き、日が暮れるまで鍬を振るうという生まれて初めての生活を送っていた。全身を襲う筋肉の痛みは凄まじいが、夜は泥のように眠る。だが、不思議と心は穏やかだった。土の匂い、汗を拭う風の感触、そして自分の手で少しずつ姿を変えていく地面。その全てが、私が「ここにいる」という確かな実感を与えてくれた。
虚飾に満ちた王都での日々よりも、今のほうがずっと生きていると思えた。
その日も私は一心不乱に地面を耕していた。固い土を砕き、石を拾い、雑草の根を断ち切る。単調な作業の繰り返し。だが、この無心になれる時間が今の私には必要だった。
あと少し。今日の目標はあの大きな岩のところまで。そう心に決めて錆びた鍬を力一杯振り下ろした、その瞬間だった。
バキッ!
乾いた音と同時に、鍬の手応えが消えた。見れば、刃は無残に折れ、手の中に残ったのは鉄屑と木の棒だけ。
「……あ……」言葉にならない声が漏れる。胸が急速に冷え、立ち尽くした。
せっかくほんの少しだけ前に進めると思ったのに。この土地で自分の力で何かを生み出せるかもしれないと、微かな希望を抱き始めたばかりだったのに。
**両の拳を握りしめる。この手は、この体は、結局私一人では何もできないのか。**どうしようもない無力感が、再び私を絶望の淵へと引きずり込もうとしていた。
どうする? このまま諦めるのか?
脳裏に王都での嘲笑と父の冷たい目がよぎった。「不可能を可能にするのがアステル公爵家の務めだ」。かつては憎しみさえ感じたその言葉が、今、奇妙なほどに私を突き動かした。
諦めない。
私は壊れた鍬の残骸を手に町へと向かった。
住民たちに震える声で尋ねて回る。「鍛冶屋はありませんか」と。彼らの反応は相変わらず冷ややかだったが、何人目かに聞いた老婆が、顎で町の外れを指し示した。
「あそこだよ。もう何年も火なんて見てないけどね」
教えられた場所は町の中心から少し離れた寂れた一角にあった。石炭の燃え殻が黒い山を作り、錆びた鉄屑が雨ざらしになっている。建物は煤で黒ずみ、屋根は崩れかけていた。炉の火は完全に落ちており、ここもまたこの町と同じように死んでいるように見えた。
それでも私は意を決して開け放たれたままの入り口から声をかけた。
「ごめんください。誰かいらっしゃいますか」
しばらくの静寂の後、奥から一人の青年が現れた。
私とさほど変わらぬ年頃に見える。日に焼けた肌は煤で汚れ、無造作に伸ばした赤茶色の髪が額にかかっていた。丈夫そうな革の仕事着をまとい、何よりも目を引いたのはその鍛え上げられた腕と、ぶっきらぼうで全てを拒絶するような鋭い眼差しだった。
彼はこちらの姿を認めると、眉間に深いしわを寄せた。一瞬、言葉にできない疲労と諦めがその目に宿ったのを、私は見逃さなかった。
「……なんだあんた。ここは遊び場じゃねえぞ」
「あの、これを……修理していただきたくて」
私はおずおずと壊れた鍬を差し出した。
彼は私の泥だらけのドレスと鍬を交互に見比べると、鼻で笑った。
「はっ。お貴族様のお遊び道具なんざ知ったこっちゃねえ。よそでやってもらいな」
その突き放すような物言いに心が凍る。やはりここでも同じなのか。
「ですが町で唯一の鍛冶屋だと伺いました。お願いです。これがないと私は……」
「だからうちはお貴族様の相手はしてねぇって言ってんだ。さっさと帰んな」
彼はもう話は終わりだと言わんばかりに私に背を向けた。
その背中に私はほとんど無意識に声を張り上げていた。
「お願いします!」
そして私は彼に自分の両手を突き出していた。
「私は本気です」
私の手を見た青年――アルベルトはぴたりと動きを止めた。
その視線が私の手のひらに注がれる。それはもう公爵令嬢の手ではなかった。皮はめくれ、いくつもの豆が潰れ、赤黒い血が滲んでいる。爪の間には土が詰まり、およそ女性のものとは思えないほど荒れ果てていた。
私の言葉ではない。この手が私の覚悟を、私の三日間を雄弁に物語っていた。
彼はゆっくりとこちらに振り向いた。その瞳から先ほどまでの侮蔑の色が消え、代わりに職人としての純粋な好奇の色が浮かんでいた。
彼は無言で私の手から壊れた鍬を受け取ると、その壊れた断面を指先で確かめるように撫でた。
「……ひでぇ錆び方だ。これじゃあ折れて当然だな」そう言いながら、彼の指先は妙に慎重で――まるで昔の記憶を確かめるようだった。
ぶっきらぼうな口調は変わらない。けれどその声には、もう拒絶の響きはなかった。
雑然とした工房に、彼が火を入れる。ふいごを押すたびに空気が唸り、黒ずんだ炉が赤く息を吹き返す。死んだはずの鍛冶場が、生き物のように脈打ち始めた。
彼は折れた鍬の金属部分を炉で熱し、金床の上で叩き始める。カーン、カーンというリズミカルな音が心地よく響いた。
しばらく私たちは無言だった。私はただ彼の仕事ぶりを食い入るように見つめていた。
やがて彼がぽつりと呟いた。
「あんた、畑を耕してるのか」
「ええ……館の裏に小さな菜園があったので」
「ふうん。……まあ無駄だろうな」
「え?」
「この土地は鉄分が多すぎて作物が育ちにくいんだ。水はけも悪い。昔親父がこの土地でも使える農具を作ろうとして随分と苦労してたのを思い出したよ」
彼の言葉に私ははっとした。王宮の書物で読んだ土壌学の知識が蘇る。鉄分の多い土壌は酸性に傾き、特定の作物以外は根が育ちにくい。だから土壌改良が必要なのだと。
「……何か方法はありますでしょうか」
「さあな。だが少なくともこんなペラペラの鍬じゃ話にならねえだろうな」
彼はそう言うとただ修理するだけでなく、熱した鉄を叩き補強し、鍬の形そのものを少しずつ変えていった。その手つきは力強く、そして驚くほど繊細だった。
どれほどの時間が経っただろう。すっかり生まれ変わった鍬を水で冷やし、新しい柄にしっかりと固定すると、彼は「ほらよ」と私に差し出した。
それはもう以前の錆びた道具ではなかった。ずっしりと重く黒光りする刃先は、どんな固い土でも砕いてくれそうな力強さに満ちていた。
「ありがとう……ございます。お代は……」
私がそう言いかけると、彼は私の言葉を遮るように手のひらを見つめた。そして無言で作業台の引き出しを開け、中から小さな薬の壺と清潔な包帯を取り出した。
彼はそれを私の前にことりと置いた。
「……それ、つけておけ。化膿するぞ」
それは、あまりにも不器用で素朴な優しさだった。
見返りを求めるでもなく、ただ私の傷ついた手を案じてくれた純粋な善意。
それに触れた瞬間、私の心の奥で固く凍りついていた何かが音を立てて溶け出した。視界が急速に滲んでいく。
追放されて以来、初めてだった。
父にさえ見捨てられ、誰からも石ころのように扱われてきた私が、初めて一人の人間として温かいものに触れた。
ぽろり、と。私の目から熱い雫がこぼれ落ちた。それは自己憐憫の涙ではなかった。ただ、嬉しさと温かさに心が満たされ、涙が止まらなかった。
「なっ……なんで泣くんだよ!」
私の涙にアルベルトは心底驚いたように狼狽えている。
私は必死に涙を拭いながら何度も「ありがとう」と繰り返した。
彼はそんな私からバツが悪そうに顔をそむけると、ぼりぼりと頭を掻きながら吐き捨てるように言った。
「……礼なら、あんたが作った作物を食わせてくれ」
その言葉に私は顔を上げた。
そっぽを向いた彼の横顔は、口の端がわずかに緩んでいるのを隠せていない。
作物を、食わせてくれ。
その言葉は、私の荒れ果てた心に確かな種を植え付けた。
それは未来への、約束の種だった。
「……はい。必ず」
私は涙で濡れた顔のまま、精一杯の笑顔で頷いた。
修理された鍬を両手で固く握りしめる。
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