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第37話:政治的圧力
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市街戦の後始末と、山のような報告書の作成に追われる日々。俺の執務室には、部下の負傷状況を記した羊皮紙と、捕らえた結社の残党に関する尋問記録が、まるで墓標のように散乱していた。インクの匂いと、消毒薬、そして未だに鎧の隙間に染みついた乾いた血の匂いが混じり合い、俺の思考を鈍らせる。何日もまともに眠れていないせいで、頭の芯がずっしりと重い。ただでさえ心身ともに疲弊しているというのに、街では俺とリリアーナの、聞くに堪えない恋愛劇の噂が、まことしやかに囁かれている。まるで、俺たちの血を流した戦いが、彼らにとってはただの娯楽であり、退屈な日常を彩るスパイスであったかのように。
部下たちが、気まずそうな、そしてどこか面白がるような顔で「隊長、街ではこんな歌が流行っているそうで…」と報告してくる。その目は、上官への敬意と、ゴシップへの好奇心との間で揺れていた。吟遊詩人が、俺たちの「活躍」を、面白おかしく、そして過剰にロマンチックな物語に仕立て上げているらしい。『漆黒の騎士と黄金の聖女』などという、悪趣味極まりない題名で。俺が暗殺者の刃を弾いたのは、リリアーナへの燃えるような愛を叫ぶためだったと歌われているそうだ。彼女が放ったという謎の麻痺花粉は「恋の吐息」と呼ばれ、俺の窮地を救ったのは、二人の愛が起こした奇跡なのだと。…悪夢だ。俺の命がけの苦労が、三文芝居の安っぽいネタにされている。その歌は、すでに子供たちまで口ずさむほどの人気らしい。もはや、訂正のしようもない。
その、根も葉もない噂は、ついに王都の貴族たちの間でも無視できないものとなっていた。もはや、ただのゴシップではない。明確な政治色を帯び始めたのだ。
義務として出席した夜会では、これまでは俺をただの「平民上がりの騎士」として侮蔑の目で見ていた者たちが、今では奇妙に探るような、あるいは値踏みするようなねっとりとした視線を向けてくる。彼らは俺自身を見ているのではない。俺の背後にあるはずのない、巨大なエルドラド公爵家の威光を見ているのだ。俺という人間ではなく、俺という駒の価値を計算している。
「リリアーナ嬢の相手が、あの漆黒の騎士とはな。公爵閣下も、思い切ったことをなさる。愛娘の相手としては、家柄が釣り合わんにも程があるだろうに」
「いや、むしろ当然だろう。あれだけの英雄だ。平民とはいえ、その名声はそこらの伯爵家を凌ぐ。公爵家が唾をつけるのも無理はない。これで、公爵閣下も騎士団に大きな恩を売れるというものだ」
「これで公爵家と騎士団の繋がりが強まれば、王宮内の勢力図も大きく変わるな。陛下も、公爵の動きを無視できなくなるだろう。面白いことになってきたわい」
…まずい。ただのゴシップが、政争の具になり始めている。俺個人の問題が、国家レベルのパワーバランスにまで影響を及ぼし始めているのだ。俺はただ国を守るための剣であればよかった。だが、いつの間にか、貴族たちの汚れた盤上の駒にされようとしていた。俺の意思など、関係ないところで。
そして、俺が最も恐れていたことが起きた。
王城の最奥、俺が滅多に足を踏み入れることのない、冷たく広々とした一室に呼び出された俺は、上層部の重鎮たちと向き合っていた。磨き上げられた黒檀のテーブル、壁に飾られた歴代国王の肖像画が、無言で俺の覚悟を試すように見下ろしている。苦々しい顔の俺に、司令官は、チェスの駒を動かすかのように、感情の欠片もない声でこう告げた。
「ゼノン、貴様とリリアーナ嬢の噂は、我々にとって好都合だ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。司令官は、俺の反応など意にも介さず、冷徹に続ける。その声には、俺への労いなど微塵も含まれていなかった。
「エルドラド公爵家は、長年中立を保ってきた、油断ならん狐だ。王家にも、我々騎士団にも与しない。その巨大な財力と影響力は、常に我々の喉元に突きつけられた刃でもあった。だが、この噂を利用すれば、あの巨大な力をこちら側に取り込む、またとない好機となる。よって、我々はこの噂を公式には否定しない。むしろ、これを利用してお前と公爵家を縛る。お前には、そのための楔となってもらう。これは、王国のためだ。貴様の個人的な感情など、この国益の前では些末なことだと心得よ」
俺は反論の言葉を失った。
俺の戦いも、あの女の理解不能な奇行も、全てが、彼らの政治の駒として利用される。俺の意思も、名誉も、そこにはない。ただ、都合のいい道具として使われるだけだ。俺はこれまで国のために、あらゆる汚れ仕事を引き受けてきた。暗殺も、破壊工作も、全ては王国の安寧のためだと信じて。だが、それは、俺自身の心を売り渡すことではなかったはずだ。
俺は、結社という明確な敵だけでなく、味方であるはずのこの組織からも、見えざる鎖で縛られようとしている。この任務、もはや俺に逃げ場はない。敵からも、味方からも、そしてあの女からも。四方八方を、見えない壁に囲まれている。俺は、巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた、一匹の虫に過ぎないのかもしれない。
俺は、ただ静かに拳を握りしめることしかできなかった。革の手袋が、軋む音を立てた。それは、俺の心が上げる、声にならない悲鳴のようだった。
部下たちが、気まずそうな、そしてどこか面白がるような顔で「隊長、街ではこんな歌が流行っているそうで…」と報告してくる。その目は、上官への敬意と、ゴシップへの好奇心との間で揺れていた。吟遊詩人が、俺たちの「活躍」を、面白おかしく、そして過剰にロマンチックな物語に仕立て上げているらしい。『漆黒の騎士と黄金の聖女』などという、悪趣味極まりない題名で。俺が暗殺者の刃を弾いたのは、リリアーナへの燃えるような愛を叫ぶためだったと歌われているそうだ。彼女が放ったという謎の麻痺花粉は「恋の吐息」と呼ばれ、俺の窮地を救ったのは、二人の愛が起こした奇跡なのだと。…悪夢だ。俺の命がけの苦労が、三文芝居の安っぽいネタにされている。その歌は、すでに子供たちまで口ずさむほどの人気らしい。もはや、訂正のしようもない。
その、根も葉もない噂は、ついに王都の貴族たちの間でも無視できないものとなっていた。もはや、ただのゴシップではない。明確な政治色を帯び始めたのだ。
義務として出席した夜会では、これまでは俺をただの「平民上がりの騎士」として侮蔑の目で見ていた者たちが、今では奇妙に探るような、あるいは値踏みするようなねっとりとした視線を向けてくる。彼らは俺自身を見ているのではない。俺の背後にあるはずのない、巨大なエルドラド公爵家の威光を見ているのだ。俺という人間ではなく、俺という駒の価値を計算している。
「リリアーナ嬢の相手が、あの漆黒の騎士とはな。公爵閣下も、思い切ったことをなさる。愛娘の相手としては、家柄が釣り合わんにも程があるだろうに」
「いや、むしろ当然だろう。あれだけの英雄だ。平民とはいえ、その名声はそこらの伯爵家を凌ぐ。公爵家が唾をつけるのも無理はない。これで、公爵閣下も騎士団に大きな恩を売れるというものだ」
「これで公爵家と騎士団の繋がりが強まれば、王宮内の勢力図も大きく変わるな。陛下も、公爵の動きを無視できなくなるだろう。面白いことになってきたわい」
…まずい。ただのゴシップが、政争の具になり始めている。俺個人の問題が、国家レベルのパワーバランスにまで影響を及ぼし始めているのだ。俺はただ国を守るための剣であればよかった。だが、いつの間にか、貴族たちの汚れた盤上の駒にされようとしていた。俺の意思など、関係ないところで。
そして、俺が最も恐れていたことが起きた。
王城の最奥、俺が滅多に足を踏み入れることのない、冷たく広々とした一室に呼び出された俺は、上層部の重鎮たちと向き合っていた。磨き上げられた黒檀のテーブル、壁に飾られた歴代国王の肖像画が、無言で俺の覚悟を試すように見下ろしている。苦々しい顔の俺に、司令官は、チェスの駒を動かすかのように、感情の欠片もない声でこう告げた。
「ゼノン、貴様とリリアーナ嬢の噂は、我々にとって好都合だ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。司令官は、俺の反応など意にも介さず、冷徹に続ける。その声には、俺への労いなど微塵も含まれていなかった。
「エルドラド公爵家は、長年中立を保ってきた、油断ならん狐だ。王家にも、我々騎士団にも与しない。その巨大な財力と影響力は、常に我々の喉元に突きつけられた刃でもあった。だが、この噂を利用すれば、あの巨大な力をこちら側に取り込む、またとない好機となる。よって、我々はこの噂を公式には否定しない。むしろ、これを利用してお前と公爵家を縛る。お前には、そのための楔となってもらう。これは、王国のためだ。貴様の個人的な感情など、この国益の前では些末なことだと心得よ」
俺は反論の言葉を失った。
俺の戦いも、あの女の理解不能な奇行も、全てが、彼らの政治の駒として利用される。俺の意思も、名誉も、そこにはない。ただ、都合のいい道具として使われるだけだ。俺はこれまで国のために、あらゆる汚れ仕事を引き受けてきた。暗殺も、破壊工作も、全ては王国の安寧のためだと信じて。だが、それは、俺自身の心を売り渡すことではなかったはずだ。
俺は、結社という明確な敵だけでなく、味方であるはずのこの組織からも、見えざる鎖で縛られようとしている。この任務、もはや俺に逃げ場はない。敵からも、味方からも、そしてあの女からも。四方八方を、見えない壁に囲まれている。俺は、巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた、一匹の虫に過ぎないのかもしれない。
俺は、ただ静かに拳を握りしめることしかできなかった。革の手袋が、軋む音を立てた。それは、俺の心が上げる、声にならない悲鳴のようだった。
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