傭兵から商売を始めたら、いつの間にか領主になっていた件

篠の目

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第86章 誇りを懸けた交渉 ―英雄の値段―

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そう言うと、チェリルは深く息を吐き、まるで何も聞こえないように目を閉じて座り込んだ。
 心の中では、(やれやれ、予想どおりだな……貴族どもは、どいつもこいつもプライドばかり高い。こんな状況でも値切ろうとするとは)と、冷ややかに笑っていた。
 数名の勲爵は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「恥知らずめ!」
「卑怯者!」
「まさに火事場泥棒の小悪党だ!」
「死んでも奴の要求など呑めるか!」
 怒号が飛び交う中、チェリルは眉一つ動かさない。
(吠える犬ほど噛まない、ってな。お前たちのその“誇り”とやら、いったい何の役に立つ?)
 彼はまるで老僧のように静かに座禅を組み、砂時計の砂が流れる音だけを聞いていた。
 やがて、砂の半分が落ちた頃、若い勲爵が慌てて声をかけた。
「勇士殿、恐縮ですが……もう一度、我々の話を聞いていただけませんか? 我々の陣には超凡者が二名おります。第一の条件は満たしています。千金貨も——承知しました。しかし、装備と主攻の件については……多少の交渉の余地をいただけないでしょうか。フィルード団長にお戻りの際、もし我々が主攻を務めるのであれば、戦利品は半分まで。もし、あなた方が主攻を務めるのであれば、我々は一つも要りません、とお伝えください!」
 チェリルは静かに立ち上がった。その目には、もはや恐れも迷いもない。
「……なるほど、少しは現実が見えてきたようですね」
 そう言いながら、彼は冷笑を浮かべ、テント内をゆっくりと見渡した。
「正直に言おう。もし我が団長が“相手には敬意を示せ”と言い残していなかったら、俺はとっくにお前たちの首を刎ねていたかもしれんぞ」
 低く響く声に、場の空気が一瞬で凍りつく。
「皆々様。お前たちは、まだ状況を理解していないようだな? もう水も尽きかけている。猪人(イノシシびと)に滅ぼされる前に、喉の渇きで死ぬだろう。そんな現実を前にして、まだ値切るとは……」
 チェリルはゆっくりと歩み寄り、テーブルの砂時計に目を落とした。
「これは慈悲でも交渉でもない。“最後の救いの綱”だ。それを掴むか、捨てるかはお前たち次第だ。」
 (俺たちが現れたのは偶然じゃない。天が与えた最後のチャンス……それを理解できないなら、見捨てるまでだ)
「立場を入れ替えて考えてみろ。もし俺たちが山に閉じ込められていたら、お前たちは助けただろうか? いや、しない。俺たちがどれだけ高い条件を出そうと、お前たちは見捨てるだろう。——だからこそ、俺も容赦はしない。」
 テント内が静まり返る。
 (まだ希望を捨てていない顔をしてやがる。自力で逃げられるとでも? 笑わせるな。夜目の利く兵がいなければ、一歩も進めん。俺たちですら、あと少しで発見されるところだったんだぞ)
「信じられないなら、試してみろ。お前たちの愚かさが証明されるだけだ。」
 そう言い放つと、チェリルは再び座り込み、目を閉じて砂の音を聞き始めた。
 静寂。やがて、誰もがその威圧に呑まれ、怒号は影も形もなくなっていた。
 しばらくの後、若い勲爵が深く頭を下げた。
「勇士殿……あなた方の団長様の条件、すべて承知しました! ただ、最後に伺いたい。団長様には何か具体的な計画があるのでしょうか?」
 チェリルは静かに目を開け、懐から羊皮紙を取り出した。
「ご覧ください。これが団長直筆の契約書です。異論がなければ——署名を。」
 数人の勲爵はその紙を見て顔を引きつらせた。
 (……なんと用意周到な。最初から、俺たちがこの条件を飲むことを見越していたのか?)
 しかし、誰も反論できなかった。歯を食いしばり、全員が署名する。
 チェリルは満足げに微笑み、その契約書を大切に懐へしまった。
「では、これで取引成立だ。俺はこれを持って山を下る。二度と戻らん。危険すぎるからな。——だが、団長様から預かっている指示がある。」
 彼は声のトーンを下げて言った。
「まず、夜目の利く兵士の数を数えろ。数が多ければ、夜明け前に奇襲を仕掛けられる。目標は猪人の馬と、鉄甲を着た戦士どもだ。最も良い時間は、空が白む直前。早すぎても遅すぎてもいけない。」
 「もしそのような兵が少なければ、計画は中止だ。明日、奴らが攻めてきた時に全力で反撃しろ。その場合、損害は甚大になるだろう。だが少なくとも半数は生き残る。」
 チェリルは短く息を吐き、続けた。
「団長様は常にお前たちを見ている。戦闘が始まれば、俺たちは影のように突入する。」
 そこで、彼は少し声を柔らげた。
「これは俺個人の意見だが……どんな作戦を取るにしても、食料と水を兵士に優先して分け与えろ。腹を満たせぬ兵士に勝利はない。」
 「……よし。伝えることは以上だ。これで失礼する。」
 立ち上がろうとした時、若い勲爵が慌てて声を上げた。
「待ってくれ、チェ……チェリル隊長! 兵士を帰して伝令にし、あなたにはここで指導をお願いできませんか? 夜間戦の経験がなくて……!」
 チェリルは少し眉をひそめたが、すぐに頷いた。
(ふむ……まあいい。今夜のうちに獣人が攻めてくることはないだろう。なら、ここで教えてやるのも悪くないか)
「わかった。俺が知っている限りを話そう。」
 そう言って、懐から契約書を取り出し、一人の兵士に手渡した。
「これを団長様へ届けろ。そして伝えろ。——ここには夜戦を理解している者がいない。俺が残れば、少しは役に立つだろうとな。」
 二人の兵士は力強く頷き、山を下りていった。
 その頃、山の麓。
 フィルードは焦りを隠せずにいた。
(……チェリル、無事でいてくれよ。あの山は、夜になると獣人が活発になる)
 二人の兵士が戻ってきた瞬間、彼はすぐに駆け寄った。
「チェリルはどこだ!? まさか獣人に見つかったのか!?」
「いえ、隊長殿は夜襲の指導をするため、あちらに残られました!」
 そう言って、兵士は羊皮紙を差し出した。
 フィルードはそれを受け取り、内容を読んだ瞬間、思わず目を見開いた。
(……まさか、もう交渉をまとめてきたのか!? あの頑固な貴族どもを、一晩どころか数時間で……!)
 驚きとともに、胸の奥に熱い誇りが込み上げた。
(……やるじゃないか、チェリル。俺の誇りだ。)
 一方その頃、山頂の野営地。
 チェリルは七、八十人の兵士を前に満足げに腕を組んでいた。
 (悪くない……夜目が利く奴らばかりだ。これなら行ける)
 彼は数名の勲爵に近づき、低く提案した。
「この兵士たちは精鋭です。ですが、敵陣を襲うには強い“動機”が必要です。重い褒美を与えてやりましょう。たとえば——猪人を一人倒せば奴隷の身分を解き農奴に。二人で自由民、三人で金貨一枚。どうです?」
 数名の勲爵は呆然と顔を見合わせた。
 (……この傭兵、まるで人心を操る悪魔だな)
 もしフィルードがここにいたら、間違いなく彼に喝采を送っただろう。
 本当に見事な弟子だ。言葉一つで戦意を煽り、絶望の中に希望を与える。
 ——まさに、“英雄”の器。
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