傭兵から商売を始めたら、いつの間にか領主になっていた件

篠の目

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第177章 エレナ、血に染む決断

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そう言い残すと、エレナはほんの一片の迷いも見せず、崖下へ身を投げるように駆け去った。
 ――まったく、無茶をする女だ。
 フィルードは山の中腹で身体を起こし、肺の奥へ冷たい空気を吸い込んだ。落下の途中で木の枝に手が伸びたのは、ほとんど反射だった。だが、結果として谷底行きを免れた以上、運が味方したと言うべきだろう。
 エレナが戻ってきたのを視認した瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
 助かったという安堵よりも、抑え込めない焦燥と……妙な、感情の熱。
(……もう、あいつに“帰れ”とは言えんな)
 そう思った矢先、木陰から冷えきった声が響いた。
「お前が――あの牛に乗った守備隊隊長、フィルードだな?」
 声の主は中年の男。低いがよく通る声だった。
「狡猾だという評判は聞いているぞ。あのディオの愚か者でさえ、お前の策に落ちたそうだ。さて……今日、お前が私から逃れられると思うか?」
 フィルードは歯を食いしばりつつ、意識的に呼吸を整えた。
「ずいぶん前から私をマークしていたようだな。……どうした? 私が今後、お前たちの脅威になるのがそんなに怖いか?」
 男は腹の底から笑い声を響かせた。
「ほう、図星らしいな。我がシウス陛下は、お前を伯国に“ご招待”したいと仰っている。さあ、私と来い。無駄な真似をすれば――苦しむのはお前だ」
(……つまり殺す気はない。利用する気だな)
 フィルードは頭の中で可能性をいくつも並べ、最も成功率の高い案に即座に辿り着いた。
「いいだろう。捕まった以上は従おう。ただし――彼女を解放しろ。その約束があるなら、私は今すぐでもそちらへ行く」
 男は意外そうに眉を上げた。
「小細工をするなよ? 本当に来るというなら……お前の隣にいるその美しい女性を解放することも、考えてやろう」
(目的は私の身柄だけか……)
 命までは取られないと分かった時点で、フィルードはわずかに息を吐いた。
 彼はエレナに視線を向け、小声で告げる。
「君は逃げろ。聞いての通りだ。奴らは私を働かせる気だ。少なくともすぐには殺されん」
 エレナは強く眉を寄せ、低く返す。
「あなた……アモン王国を裏切るつもりなの? それとも……時間稼ぎ?」
 ――なら、あとは芝居だ。
 フィルードはわざと張り上げた声で言い放つ。
「良禽は良木を選び、賢臣は良主を選ぶ! シウス陛下がそこまで私を買ってくださるなら――人材として投降して差し上げるさ!」
 エレナは一秒でその芝居を見抜いた。
(……長い付き合いだ。あの“本気の嘘”は、私だけには筒抜けよ)
 そう言いたげに、白い目を向けてきた。
「……そう。じゃあ、あなたの出世を祈っておくわ」
 呆れたように立ち去るエレナ。その背中に、フィルードはわずかな安堵と……不思議な温度を感じた。
 中年男は、その様子を見て満足げに頷いた。
「武器を捨てろ。余計な誤解をされたくはあるまい?」
 フィルードはためらいなく盾を落とし、剣も弓も矢筒も地面に放った。
「こっちへ来い。陛下に会わせてやる」
 男の声が広がる中、フィルードは冷静さを保ったまま歩みを進め――。
 その時。
 ガサガサッ。
 林の奥から一斉に獣の跳ねる音。
「何者だ!」
 男が振り返った瞬間には、もう遅かった。
 四頭の黄牛が突風のように飛び出し、その一頭の背に――エレナ。
 彼女の目は、獲物を見据える剣士のそれだった。
 一切の迷いも、恐怖もない。
(……やっぱり来たか)
 胸の奥が、熱くなるのを自覚した。
 黄牛の突進が馬体を弾き、男は空中へ投げ出される。
 愛馬の魔獣は複数の黄牛の角に貫かれ、悲鳴をあげて崩れた。
 落下する男へ、エレナが片手剣を叩き込む。
 男は地面を転がり、ぎりぎりで回避した。
 エレナは大きく弧を描きフィルードへ向かう。
 そこへダイクロが現れ、フィルードの襟首を噛んで後方へ引きずる。
(……逃げろという合図か。こいつ、今日に限って妙に賢いな)
 敵の位置、矢の軌道、次の動き――すべて瞬時に計算し、フィルードは落ちていた弓を拾い、魔力を注いで矢を放つ。
 だが、中年男は冷静にすべて回避する。
 逆に男が弓を構え、怒りのままにエレナを狙った。
(……狙いは私のはずだろうが。いや、確実に仕留める気か)
 男が放った矢が、空気を裂いて一直線に飛ぶ。
 その瞬間――。
「フィルード、危ない!!」
 エレナの悲鳴。
 フィルードが身を伏せようとした瞬間――
 ブスッ。
 矢がエレナの背に深く突き刺さった。
 彼女は黄牛の推進力を利用し、ほとんど飛び込むようにフィルードの前へ割り込んだのだ。
「エレナ――ッ!!」
 地面に崩れ落ちる彼女を見た瞬間、フィルードの心臓が凍りついた。
 すぐに矢をつがえて射るが、男はそれすら冷静に避ける。
 フィルードは片手剣と盾を拾い、エレナのもとへ駆け寄った。
「エレナ、おい……!」
 彼女は喉から血を吐きながら、それでも笑おうとして――震える声で言う。
「……は、早く……逃げて……」
(こんな状態で……まだ俺の心配をするのか)
 フィルードは彼女を抱き上げ、近くの黄牛へ飛び乗る。
 黄牛は嫌がったが、ダイクロの吠え声に押されて観念したように走り出した。
 四頭の黄牛が、一斉に大地を蹴って逃走する。
 ダイクロもよろめきながら後を追った。
 背後では男がなおも矢を放つが、魔力が枯れかけているのか精度が落ちていた。
 フィルードは盾で矢を受け流しつつ、エレナの傷を確認する。
(……深い。鎧ごと貫通している。肺を……やられている)
 追撃していた男も、魔獣を失ったことでやむなく引き返す。
 夜明け頃、遠い山に狼煙が上がった。
 事前に取り決めた味方軍の集結地点だ。
 フィルードは迷いなくその方向へ向かった。
 だが、近づくにつれ黄牛たちは怯え、進むことを拒み始めた。
(……ここまで来てくれただけでも十分だ。今日は奇跡みたいな従順さだったからな)
 星魔草、ダイクロの存在、そしてエレナがダイクロの“大切な夫”を守るために戦ったこと――理由はいくつもあるのだろう。
 しかし人間の匂いが濃くなると、本能が勝った。
「仕方ない」
 フィルードは黄牛の背から飛び降り、エレナを抱えたまま山を駆け上がった。
(――死なせるわけがない。絶対に、だ)
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