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第178章 血と静寂の簡易手術
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この時、エレナはすでに意識を手放し、深い昏睡の底に沈んでいた。指先に触れる脈は、掴むたび弱まり、砂がこぼれ落ちていくような不安が胸を締め上げる。
フィルードの身体は、彼女が吐いた血で濡れ、冷えきった夜気の中でもなお、生暖かい鉄の匂いがまとわりついて離れない。
(……まずい。このままでは、本当に間に合わない)
外郭の防衛兵たちが、血まみれで駆け込んできたフィルードを見て息を呑む。しかし誰一人として呼び止める者はなく、ただ道を開けるだけだった。
彼らの目に映る自分の姿がどれほど異様か――そんなことはどうでもよかった。
フィルードは人混みの中で、すぐにウェインの姿を見つけだした。
青い石に腰を下ろし、虚空を見つめていたウェインは、足音に気づくと振り返り、その顔色が一瞬で変わった。
「どうした? 怪我をしたのか?」
フィルードは息が乱れ、声も震えていた。
「わ、わたしは……平気です。エ、エレナが……もう、持ちそうにない……!」
その瞬間、ウェインの表情から血の気が引いた。
彼は一瞬で距離を詰め、エレナの背を確認すると、低く呟く。
「……これは、深いな」
矢じりは根本まで沈み込み、肉を貫いている。素人目にも危険が分かるほど、絶望的な深さだった。
ウェインはすぐに薬瓶を取り出し、迷いない口調で言った。
「治療薬だ。すぐテントへ運べ。矢を抜いた後に飲ませろ。最低限の状態は保てる。治癒するかは……本人の運だ。戦争が終わったら、王都で私が治療しよう」
「……ありがとうございます!」
フィルードは礼も途中で切り上げ、テントへ飛び込んだ。
彼女の上半身を手早く露わにすると――矢は骨に触れんばかりの深さで突き刺さっていた。
(全部……俺のせいだ)
胸の奥がきしむように痛む。
彼女がここまでの傷を負ったのは、明らかに自分のためだ。
かつて「優秀な戦力」としてしか見ていなかった頃の自分が、今さらながらに嫌になる。
(……違う。もう違う。失いたくないんだ、こいつだけは)
フィルードは熱湯を準備させ、ナイフを火で炙って消毒。腰の瓢箪から自作の粗悪なアルコールを取り出し、傷口を浄める。
切開のために刃を構えた――その時。
「……さ、さむい……。わたし……しぬの……? こんな……あなたを……失いたく……ない……」
「エレナ……!」
彼女の瞳が薄く開き、焦点の合わない視線が宙を彷徨う。
フィルードは思わず手を伸ばし、熱のこもった指を握り締めた。
「大丈夫だ。俺がいる限り、君は死なせない。少しだけ耐えろ、今すぐ矢を抜く!」
だがエレナの言葉は支離滅裂だ。
幻覚――大量出血で脳が酸欠を起こしている。
「み……水……。喉が……かわ……」
「駄目だ。飲めばもっと血が溢れる。我慢しろ」
「……でも……もう……」
その時、メイヴが青ざめた顔で飛び込んできた。
「お嬢様!? ど、どうされたのですか!」
「メイヴ、こっちだ! 彼女を押さえろ、動くと死ぬ!」
フィルードの声は鋭く、切迫していた。
メイヴは血の匂いに震え、躊躇する。
それを見て、フィルードは怒声を叩きつけた。
「聞こえないのか! 急げ!!」
「ひっ……は、はい!」
半泣きのまま、エレナの上に跨がって両手を掴むメイヴ。
外では煮沸した器具が運ばれてくる。
フィルードはアルコールで手を浄め、深く息を吸った。
(……やるしかない。震えるな、俺)
刃を当て、肉を広げ、矢じりに届く道をつくる。
そのたび、エレナが喉の奥で悲鳴を上げ、身体を震わせた。
「お嬢様……っ、耐えてください……っ」
メイヴも涙をこぼしながら押さえている。
フィルードは冷静さを保とうとするが、指先が微かに震えた。
(落ち着け……動揺する暇はない……! 助けるんだ、絶対に)
どれほど時間が過ぎたか――ようやく返しのついた矢じりを引き抜いた瞬間、
傷口から血が勢いよく噴き出す。
「くっ……!」
フィルードはすぐに治療薬を飲ませた。
すると、目の前でゆっくりと肉が盛り上がり、かさぶたが形成され始める。
だが十数分で反応は止まった。
薬の限界だ。
それでも出血は止まった。
致命傷のはずの穴は塞がれた。
「……メイヴ。看病を任せる。絶対に水は飲ませるな」
「わ、分かりました……」
メイヴは怯えと安堵が入り混じった顔で頷く。
少し責めるような目だったが――今は説明している暇もない。
フィルードはテントの外へ出る。
そこには、心配そうに待っていたウェイン。
「どうだった?」
「……何とも言えません。ただ、薬は確かに効きました。出血も止まりました」
ウェインは長い息を吐いた。
「良かった……肺を貫かれていれば終わりだった。三年前、中級治療薬を買い逃したのが悔やまれるな……あれほどの傷でも、一瞬で治せたのに」
「十分すぎるほどです。……正直、助からないと思いました。彼女が超凡者だったから持ちこたえたのでしょう。出血が多かったので、しばらくは動けません」
ウェインは頷き、一株の魔草を取り出した。
「高級魔薬の素材だ。血気を増やす。数回に分けて飲ませれば回復の助けになる」
「ありがとうございます」
受け取りながら、ウェインが問う。
「……一体何があった?」
フィルードは短く息を吐いた。
「戻る途中、上位超凡者に狙われました。私の名が広まりすぎたせいで……。騎馬隊二隊を殲滅したのも悪かった。あの男の弓は……化け物でした。エレナが……庇って……」
その言葉には、わずかに声が震えていた。
「よく……生きて戻ったな。まずは食事を取れ。それから今後の策を話そう」
「分かりました」
フィルードは頷き、ダイクロのもとへ歩く。
老いた魔獣は伏せたまま、自身の傷を舐めていた。
フィルードはしゃがみ込み、静かにその頭を撫でる。
「……老いぼれ。よく頑張ったな。お前も……」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
フィルードの身体は、彼女が吐いた血で濡れ、冷えきった夜気の中でもなお、生暖かい鉄の匂いがまとわりついて離れない。
(……まずい。このままでは、本当に間に合わない)
外郭の防衛兵たちが、血まみれで駆け込んできたフィルードを見て息を呑む。しかし誰一人として呼び止める者はなく、ただ道を開けるだけだった。
彼らの目に映る自分の姿がどれほど異様か――そんなことはどうでもよかった。
フィルードは人混みの中で、すぐにウェインの姿を見つけだした。
青い石に腰を下ろし、虚空を見つめていたウェインは、足音に気づくと振り返り、その顔色が一瞬で変わった。
「どうした? 怪我をしたのか?」
フィルードは息が乱れ、声も震えていた。
「わ、わたしは……平気です。エ、エレナが……もう、持ちそうにない……!」
その瞬間、ウェインの表情から血の気が引いた。
彼は一瞬で距離を詰め、エレナの背を確認すると、低く呟く。
「……これは、深いな」
矢じりは根本まで沈み込み、肉を貫いている。素人目にも危険が分かるほど、絶望的な深さだった。
ウェインはすぐに薬瓶を取り出し、迷いない口調で言った。
「治療薬だ。すぐテントへ運べ。矢を抜いた後に飲ませろ。最低限の状態は保てる。治癒するかは……本人の運だ。戦争が終わったら、王都で私が治療しよう」
「……ありがとうございます!」
フィルードは礼も途中で切り上げ、テントへ飛び込んだ。
彼女の上半身を手早く露わにすると――矢は骨に触れんばかりの深さで突き刺さっていた。
(全部……俺のせいだ)
胸の奥がきしむように痛む。
彼女がここまでの傷を負ったのは、明らかに自分のためだ。
かつて「優秀な戦力」としてしか見ていなかった頃の自分が、今さらながらに嫌になる。
(……違う。もう違う。失いたくないんだ、こいつだけは)
フィルードは熱湯を準備させ、ナイフを火で炙って消毒。腰の瓢箪から自作の粗悪なアルコールを取り出し、傷口を浄める。
切開のために刃を構えた――その時。
「……さ、さむい……。わたし……しぬの……? こんな……あなたを……失いたく……ない……」
「エレナ……!」
彼女の瞳が薄く開き、焦点の合わない視線が宙を彷徨う。
フィルードは思わず手を伸ばし、熱のこもった指を握り締めた。
「大丈夫だ。俺がいる限り、君は死なせない。少しだけ耐えろ、今すぐ矢を抜く!」
だがエレナの言葉は支離滅裂だ。
幻覚――大量出血で脳が酸欠を起こしている。
「み……水……。喉が……かわ……」
「駄目だ。飲めばもっと血が溢れる。我慢しろ」
「……でも……もう……」
その時、メイヴが青ざめた顔で飛び込んできた。
「お嬢様!? ど、どうされたのですか!」
「メイヴ、こっちだ! 彼女を押さえろ、動くと死ぬ!」
フィルードの声は鋭く、切迫していた。
メイヴは血の匂いに震え、躊躇する。
それを見て、フィルードは怒声を叩きつけた。
「聞こえないのか! 急げ!!」
「ひっ……は、はい!」
半泣きのまま、エレナの上に跨がって両手を掴むメイヴ。
外では煮沸した器具が運ばれてくる。
フィルードはアルコールで手を浄め、深く息を吸った。
(……やるしかない。震えるな、俺)
刃を当て、肉を広げ、矢じりに届く道をつくる。
そのたび、エレナが喉の奥で悲鳴を上げ、身体を震わせた。
「お嬢様……っ、耐えてください……っ」
メイヴも涙をこぼしながら押さえている。
フィルードは冷静さを保とうとするが、指先が微かに震えた。
(落ち着け……動揺する暇はない……! 助けるんだ、絶対に)
どれほど時間が過ぎたか――ようやく返しのついた矢じりを引き抜いた瞬間、
傷口から血が勢いよく噴き出す。
「くっ……!」
フィルードはすぐに治療薬を飲ませた。
すると、目の前でゆっくりと肉が盛り上がり、かさぶたが形成され始める。
だが十数分で反応は止まった。
薬の限界だ。
それでも出血は止まった。
致命傷のはずの穴は塞がれた。
「……メイヴ。看病を任せる。絶対に水は飲ませるな」
「わ、分かりました……」
メイヴは怯えと安堵が入り混じった顔で頷く。
少し責めるような目だったが――今は説明している暇もない。
フィルードはテントの外へ出る。
そこには、心配そうに待っていたウェイン。
「どうだった?」
「……何とも言えません。ただ、薬は確かに効きました。出血も止まりました」
ウェインは長い息を吐いた。
「良かった……肺を貫かれていれば終わりだった。三年前、中級治療薬を買い逃したのが悔やまれるな……あれほどの傷でも、一瞬で治せたのに」
「十分すぎるほどです。……正直、助からないと思いました。彼女が超凡者だったから持ちこたえたのでしょう。出血が多かったので、しばらくは動けません」
ウェインは頷き、一株の魔草を取り出した。
「高級魔薬の素材だ。血気を増やす。数回に分けて飲ませれば回復の助けになる」
「ありがとうございます」
受け取りながら、ウェインが問う。
「……一体何があった?」
フィルードは短く息を吐いた。
「戻る途中、上位超凡者に狙われました。私の名が広まりすぎたせいで……。騎馬隊二隊を殲滅したのも悪かった。あの男の弓は……化け物でした。エレナが……庇って……」
その言葉には、わずかに声が震えていた。
「よく……生きて戻ったな。まずは食事を取れ。それから今後の策を話そう」
「分かりました」
フィルードは頷き、ダイクロのもとへ歩く。
老いた魔獣は伏せたまま、自身の傷を舐めていた。
フィルードはしゃがみ込み、静かにその頭を撫でる。
「……老いぼれ。よく頑張ったな。お前も……」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
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