2 / 6
第二話 料理下手の意地
しおりを挟む
チリン!
軽快にベルを鳴らして、店内へ足を踏み入れる。
「こんにちは、翠さん」
「あら、藤宮くん。いらっしゃい」
ふんわりとした笑みを浮かべて迎えてくれたのは、英国風ティールーム『ローズメリー』の女主人、桂木翠さんだ。
ふとした出来事がきっかけで知り合い、以来、俺はちょくちょくこの店を訪れるようになった。
「亜嵐さん、今日はお仕事が忙しいのか、朝から降りてこないのよ」
「え?朝からって……」
ため息交じりの翠さんと俺の視線は、壁にかかった古時計へ向かう。
その針は、一番上の数字をとっくに回っていた。
「様子、見てきます!」
「お願いね。あとでお茶を持っていくわ」
カウンターの脇を抜け、店の奥の扉を押し開ける。
俺は、二階へ続く階段を駆け上がった。
***
「亜嵐さん!俺です!」
階段を上がりきり、突き当たりのドアをノックするも――応答なし。
(……まさか、倒れてるとかじゃないよな?)
不安に駆られてドアノブをひねると、それはあっさり開いた。
「……亜嵐さん?」
広い部屋を見渡すと、ローテーブル前のソファに、ぐったりと座り込む人影が……。
「ちょっ、亜嵐さん!?何かあったんですか!」
慌てて駆け寄ろうとして――気付く。
「ん?なんか――焦げ臭い?」
呟いた瞬間、ソファに沈んでいた人物が、がばりと立ち上がった。
「気のせいだ!焦げ臭くなどない!!」
背筋を伸ばして虚勢を張るその人――西園寺亜嵐。
職業は、食文化研究家兼フードライター。
明るい光の下では赤毛にも見える栗色の髪、ヘーゼルカラーの瞳を持つ、ちょっと見ないほどの美形だ。
「いやいや、明らかに臭ってますって……あれ?」
鼻をきかせて小さなキッチンへ足を向けると、シンクの三角コーナーに正体不明の黒い物体が打ち捨てられていた。
(……焦げ焦げの……卵?いや――)
近付いてよく確認しようとした、その瞬間。
後ろからぐいっと腕を引かれる。
「見てはいけない、湊。あれは――忌まわしき呪物だ」
「呪物って……ホットケーキじゃないですか」
「……っ!」
振り返ると、亜嵐さんは目を逸らして頬を染めていた。――どうやら図星らしい。
「スーパーで見つけてしまったのだ……『混ぜるだけ』と袋に書いてあったから、試してみたのだが……」
明後日の方向を見ながら小声で告白する姿は、なかなかにかわいらしい――が。
「ダメでしょう!フライパンは使わないって約束でしたよね!?」
めっ!と指を突きつける。
すると普段なら威風堂々を地でいく紳士は、しゅんと肩を落とした。
俺がこの店に出入りするようになって、早一ヶ月。
亜嵐さんの『やらかし』はこれで三度目だ。
最初は紅茶を淹れようとして、水を入れていないケトルを火にかけた。
二度目は翠さん曰く、フライパンでトーストを焼こうとして、もう少しで火事になりかけたとか……。
「ガスを止められたくなければ、フライパンは使わないでちょうだいね?」
笑顔の翠さんに首根っこを捕まれた亜嵐さんは、まさしく『借りてきた猫』だったそうだ。
***
「それより湊。用があって来たんじゃないのか?」
明らかに話題を逸らそうと、亜嵐さんが質問を振ってくる。
俺は気を取り直し、図書館で出会った白石さんのことを話した。
「……ふーん」
「ふーんって……もっと他にないんですか?」
あまりに素っ気ない反応に不満を漏らすと、亜嵐さんはつんと顔を背けた。
「私は君のガールハントに興味はない」
「ガッ……!?なんてこと言うんですか!」
「おや、違うのか?」
ふんと鼻を鳴らすその様子にハッとする。
(もしかして……拗ねてる?)
腕を組んだまま目を合わせようとしない青年に、俺はわざとらしくがっかりして見せた。
「なんだぁ……知識の宝庫な亜嵐さんなら、きっと彼女を助けられると思ったのに。あーあ、俺の買い被りだったのかぁ」
「なっ、何を……っ!?」
「だってそうでしょう?アドバイスできないから、ガールハントなんて意地悪を言うんですよね」
「そ、そんなわけ――」
慌てて立ち上がる亜嵐さんを見遣り、しめしめとほくそ笑む。
もう一押しで落ちそうだ。
「じゃあ、できるんですか?」
「その女生徒とやらが、食に興味を持つきっかけを作ればいいのだろう?ふん、それくらい朝飯前だ!」
「わぁっ、さすが亜嵐さん!ありがとうございます!」
(よし、かかった!)
うまく釣り上げた……はずなのに。何故だろう、本当にうれしくて仕方ない。
満面の笑みを浮かべると、亜嵐さんはまんざらでもない様子で咳払いをした。
「こほん。ところでその白石女史とは――どんな女性なんだ?」
「はい?どんな、とは?」
「……だから、外見とか雰囲気とか」
言いにくそうに告げる亜嵐さんに、俺は慌てて声を上げた。
「ちょっ……、まさかナンパしようなんて思ってませんよね!?」
「馬鹿なことを言うんじゃない!君の話しぶりからして、なかなか発展家なお嬢さんのようだから、少し心配になっただけだ!」
発展家?
聞き慣れない単語に首を傾げると、亜嵐さんはぶすっとした声で言った。
「この場合は『異性に対して積極的』という意味だ。……いや、失言だったな」
なるほど、そういう意味か。――じゃなくて。
「よく知りもしない人を、そういうふうに言うのはどうかと思いますけど?」
「だが初対面の男子生徒に、レポートの手伝いをさせたのだろう」
「本当に困ってたんだと思います。俺にだって苦手なことのひとつやふたつ、あるからわかるし……」
その言葉を聞いた亜嵐さんは、不思議な色の目をカッと光らせて、こちらに詰め寄ってきた。
「何だって!?湊にも苦手なものがあるのか!?――言ってみたまえ、私にできることがあれば、どんな手助けでも」
「あ、無理ですね」
素っ気なく言うと、亜嵐さんはさらに必死になった。
「無理などと……やってみなければわからないだろう!?」
「いや、本当に無理なんですって」
俺は先日の授業での失敗を、亜嵐さんに説明した。
「調理実習でデザートの盛り付けを……その、ちょっと失敗っていうか、不格好になっちゃって。教授に苦笑いされちゃったんですよね、ははっ……」
すると亜嵐さんはすんっと真顔に戻り、ソファにどさりと身を投げ出した。
「亜嵐さん?」
「……どうせ私は料理下手だ……君の力にはなれない」
ぐるりと丸まって背中を向ける姿は、気品ある紳士というより、拗ねた子どものようで……。
思わず苦笑してしまう。
(……やっぱり放っておけないな、この人)
「あの、亜嵐さん」
「……何だ」
「もしかして、ホットケーキはお昼に食べるつもりだったんですか?」
ちらりとこちらに目を向けた青年に、俺は肩を竦めてみせた。
「もしそうなら、お腹空いてますよね?」
「…………」
「粉、まだあるでしょう?俺が焼きますよ、ホットケーキ」
その途端、亜嵐さんは勢いよく立ち上がった。
「君が?ホットケーキを?」
「はい」
「私に、焼いてくれる?」
「はい。焼きますよ」
さっきまで膨れっ面を極上の笑みに切り替えて、亜嵐さんは俺の腕を取った。
「では、今すぐ頼むよ!実はひどく空腹でね」
「はいはい、わかりました」
小躍りする男に半ば引きずられるようにして、俺は小さなキッチンに立った。
***
フライパンに一度に生地を流し入れ、俺は一枚の大きなホットケーキを焼き上げた。それを放射状に切り分ける。
表面はきれいなきつね色で、ふちは大きく立ち上がって厚みもある。立ち上る香りは、甘くて優しい。
「これは見事だ!」
亜嵐さんが瞳を輝かせた、そのタイミングで――。
「お待たせしてごめんなさいね。紅茶を持ってきましたよ」
銀色の盆を手に、翠さんが部屋へ入ってきた。香り高い湯気の向こうで、柔らかな笑みを浮かべている。
けれど視線がシンクに向かうや否や、眉根がすうっと寄った。
「亜嵐さん――フライパンを使ったわね?」
こういうときの翠さんは、有無を言わせない迫力がある。
いたずらが見つかった子どものように、亜嵐さんの表情が強ばった。
「い、いや、これは湊が……!」
「藤宮くんのせいにしないの!どうせ最初は一人でやろうとしたんでしょう?」
「ぐっ……!」
痛いところを突かれた亜嵐さんは、体を縮こまらせた。
その様子に苦笑しながら、俺は取り皿やカトラリーをテーブルに並べた。
キッチンの棚に用意されていたメープルシロップは、最も癖のないゴールデン・デリケートだ。
(こんな上等なシロップを準備して失敗したのか……そりゃあ凹むよな……)
ぷりぷりする翠さんを、まるで触らぬ神のようにそっと見送る。
ドアが閉まった瞬間、亜嵐さんは体をグッと伸ばした。
そして頬を緩ませてホットケーキをパクつきながら、幸せそうに「ラブリー!」を連発した。
「ラブリーって、何ですか?」
多分美味しいという意味だろう。
しかし食べ物にはあまり似つかわしくないと思って尋ねると、亜嵐さんはパチパチと目を瞬かせた。
「……ああ、日本ではあまり馴染みがないのか。スラングだよ、美味しいという意味のね」
なるほど。俺の乏しい英会話の辞書に、新たな単語が加わった。
そんなことは露知らず、亜嵐さんはホットケーキの感想をつらつらと語り出した。
「見ろ、この厚みを。適度な気泡が出来ている。ふんわりとした食感は実に素晴らしい。バターとシロップが染み込んで、言い知れぬ味わいを醸し出している。――ふむ、下手な店など目ではないな。どうやったらこんなに上手く焼けるのだろう?」
「そんな大げさな……」
「大げさなものか!ほら、湊も食べたまえ。一緒に食べれば、尚美味くなるというものだ」
その言葉に、俺も一切れいただくことにする。
――うん、我ながら上手く焼けている。
と、フォークを握ったままの亜嵐さんが、興味津々といった眼差しを俺に向けてきた。
「――それで、湊。その白石女史とやらは、どんな人物なのだ?」
「えっ、今ここでその話題ですか?」
「当然だとも!甘美な料理を前にすれば、私の好奇心もまた甘美に膨らむ。さあ、語ってみたまえ!」
そう言われて、俺は詳しく語り始めた。
あのとき感じた、白石さんの『渇き』のようなものを。
軽快にベルを鳴らして、店内へ足を踏み入れる。
「こんにちは、翠さん」
「あら、藤宮くん。いらっしゃい」
ふんわりとした笑みを浮かべて迎えてくれたのは、英国風ティールーム『ローズメリー』の女主人、桂木翠さんだ。
ふとした出来事がきっかけで知り合い、以来、俺はちょくちょくこの店を訪れるようになった。
「亜嵐さん、今日はお仕事が忙しいのか、朝から降りてこないのよ」
「え?朝からって……」
ため息交じりの翠さんと俺の視線は、壁にかかった古時計へ向かう。
その針は、一番上の数字をとっくに回っていた。
「様子、見てきます!」
「お願いね。あとでお茶を持っていくわ」
カウンターの脇を抜け、店の奥の扉を押し開ける。
俺は、二階へ続く階段を駆け上がった。
***
「亜嵐さん!俺です!」
階段を上がりきり、突き当たりのドアをノックするも――応答なし。
(……まさか、倒れてるとかじゃないよな?)
不安に駆られてドアノブをひねると、それはあっさり開いた。
「……亜嵐さん?」
広い部屋を見渡すと、ローテーブル前のソファに、ぐったりと座り込む人影が……。
「ちょっ、亜嵐さん!?何かあったんですか!」
慌てて駆け寄ろうとして――気付く。
「ん?なんか――焦げ臭い?」
呟いた瞬間、ソファに沈んでいた人物が、がばりと立ち上がった。
「気のせいだ!焦げ臭くなどない!!」
背筋を伸ばして虚勢を張るその人――西園寺亜嵐。
職業は、食文化研究家兼フードライター。
明るい光の下では赤毛にも見える栗色の髪、ヘーゼルカラーの瞳を持つ、ちょっと見ないほどの美形だ。
「いやいや、明らかに臭ってますって……あれ?」
鼻をきかせて小さなキッチンへ足を向けると、シンクの三角コーナーに正体不明の黒い物体が打ち捨てられていた。
(……焦げ焦げの……卵?いや――)
近付いてよく確認しようとした、その瞬間。
後ろからぐいっと腕を引かれる。
「見てはいけない、湊。あれは――忌まわしき呪物だ」
「呪物って……ホットケーキじゃないですか」
「……っ!」
振り返ると、亜嵐さんは目を逸らして頬を染めていた。――どうやら図星らしい。
「スーパーで見つけてしまったのだ……『混ぜるだけ』と袋に書いてあったから、試してみたのだが……」
明後日の方向を見ながら小声で告白する姿は、なかなかにかわいらしい――が。
「ダメでしょう!フライパンは使わないって約束でしたよね!?」
めっ!と指を突きつける。
すると普段なら威風堂々を地でいく紳士は、しゅんと肩を落とした。
俺がこの店に出入りするようになって、早一ヶ月。
亜嵐さんの『やらかし』はこれで三度目だ。
最初は紅茶を淹れようとして、水を入れていないケトルを火にかけた。
二度目は翠さん曰く、フライパンでトーストを焼こうとして、もう少しで火事になりかけたとか……。
「ガスを止められたくなければ、フライパンは使わないでちょうだいね?」
笑顔の翠さんに首根っこを捕まれた亜嵐さんは、まさしく『借りてきた猫』だったそうだ。
***
「それより湊。用があって来たんじゃないのか?」
明らかに話題を逸らそうと、亜嵐さんが質問を振ってくる。
俺は気を取り直し、図書館で出会った白石さんのことを話した。
「……ふーん」
「ふーんって……もっと他にないんですか?」
あまりに素っ気ない反応に不満を漏らすと、亜嵐さんはつんと顔を背けた。
「私は君のガールハントに興味はない」
「ガッ……!?なんてこと言うんですか!」
「おや、違うのか?」
ふんと鼻を鳴らすその様子にハッとする。
(もしかして……拗ねてる?)
腕を組んだまま目を合わせようとしない青年に、俺はわざとらしくがっかりして見せた。
「なんだぁ……知識の宝庫な亜嵐さんなら、きっと彼女を助けられると思ったのに。あーあ、俺の買い被りだったのかぁ」
「なっ、何を……っ!?」
「だってそうでしょう?アドバイスできないから、ガールハントなんて意地悪を言うんですよね」
「そ、そんなわけ――」
慌てて立ち上がる亜嵐さんを見遣り、しめしめとほくそ笑む。
もう一押しで落ちそうだ。
「じゃあ、できるんですか?」
「その女生徒とやらが、食に興味を持つきっかけを作ればいいのだろう?ふん、それくらい朝飯前だ!」
「わぁっ、さすが亜嵐さん!ありがとうございます!」
(よし、かかった!)
うまく釣り上げた……はずなのに。何故だろう、本当にうれしくて仕方ない。
満面の笑みを浮かべると、亜嵐さんはまんざらでもない様子で咳払いをした。
「こほん。ところでその白石女史とは――どんな女性なんだ?」
「はい?どんな、とは?」
「……だから、外見とか雰囲気とか」
言いにくそうに告げる亜嵐さんに、俺は慌てて声を上げた。
「ちょっ……、まさかナンパしようなんて思ってませんよね!?」
「馬鹿なことを言うんじゃない!君の話しぶりからして、なかなか発展家なお嬢さんのようだから、少し心配になっただけだ!」
発展家?
聞き慣れない単語に首を傾げると、亜嵐さんはぶすっとした声で言った。
「この場合は『異性に対して積極的』という意味だ。……いや、失言だったな」
なるほど、そういう意味か。――じゃなくて。
「よく知りもしない人を、そういうふうに言うのはどうかと思いますけど?」
「だが初対面の男子生徒に、レポートの手伝いをさせたのだろう」
「本当に困ってたんだと思います。俺にだって苦手なことのひとつやふたつ、あるからわかるし……」
その言葉を聞いた亜嵐さんは、不思議な色の目をカッと光らせて、こちらに詰め寄ってきた。
「何だって!?湊にも苦手なものがあるのか!?――言ってみたまえ、私にできることがあれば、どんな手助けでも」
「あ、無理ですね」
素っ気なく言うと、亜嵐さんはさらに必死になった。
「無理などと……やってみなければわからないだろう!?」
「いや、本当に無理なんですって」
俺は先日の授業での失敗を、亜嵐さんに説明した。
「調理実習でデザートの盛り付けを……その、ちょっと失敗っていうか、不格好になっちゃって。教授に苦笑いされちゃったんですよね、ははっ……」
すると亜嵐さんはすんっと真顔に戻り、ソファにどさりと身を投げ出した。
「亜嵐さん?」
「……どうせ私は料理下手だ……君の力にはなれない」
ぐるりと丸まって背中を向ける姿は、気品ある紳士というより、拗ねた子どものようで……。
思わず苦笑してしまう。
(……やっぱり放っておけないな、この人)
「あの、亜嵐さん」
「……何だ」
「もしかして、ホットケーキはお昼に食べるつもりだったんですか?」
ちらりとこちらに目を向けた青年に、俺は肩を竦めてみせた。
「もしそうなら、お腹空いてますよね?」
「…………」
「粉、まだあるでしょう?俺が焼きますよ、ホットケーキ」
その途端、亜嵐さんは勢いよく立ち上がった。
「君が?ホットケーキを?」
「はい」
「私に、焼いてくれる?」
「はい。焼きますよ」
さっきまで膨れっ面を極上の笑みに切り替えて、亜嵐さんは俺の腕を取った。
「では、今すぐ頼むよ!実はひどく空腹でね」
「はいはい、わかりました」
小躍りする男に半ば引きずられるようにして、俺は小さなキッチンに立った。
***
フライパンに一度に生地を流し入れ、俺は一枚の大きなホットケーキを焼き上げた。それを放射状に切り分ける。
表面はきれいなきつね色で、ふちは大きく立ち上がって厚みもある。立ち上る香りは、甘くて優しい。
「これは見事だ!」
亜嵐さんが瞳を輝かせた、そのタイミングで――。
「お待たせしてごめんなさいね。紅茶を持ってきましたよ」
銀色の盆を手に、翠さんが部屋へ入ってきた。香り高い湯気の向こうで、柔らかな笑みを浮かべている。
けれど視線がシンクに向かうや否や、眉根がすうっと寄った。
「亜嵐さん――フライパンを使ったわね?」
こういうときの翠さんは、有無を言わせない迫力がある。
いたずらが見つかった子どものように、亜嵐さんの表情が強ばった。
「い、いや、これは湊が……!」
「藤宮くんのせいにしないの!どうせ最初は一人でやろうとしたんでしょう?」
「ぐっ……!」
痛いところを突かれた亜嵐さんは、体を縮こまらせた。
その様子に苦笑しながら、俺は取り皿やカトラリーをテーブルに並べた。
キッチンの棚に用意されていたメープルシロップは、最も癖のないゴールデン・デリケートだ。
(こんな上等なシロップを準備して失敗したのか……そりゃあ凹むよな……)
ぷりぷりする翠さんを、まるで触らぬ神のようにそっと見送る。
ドアが閉まった瞬間、亜嵐さんは体をグッと伸ばした。
そして頬を緩ませてホットケーキをパクつきながら、幸せそうに「ラブリー!」を連発した。
「ラブリーって、何ですか?」
多分美味しいという意味だろう。
しかし食べ物にはあまり似つかわしくないと思って尋ねると、亜嵐さんはパチパチと目を瞬かせた。
「……ああ、日本ではあまり馴染みがないのか。スラングだよ、美味しいという意味のね」
なるほど。俺の乏しい英会話の辞書に、新たな単語が加わった。
そんなことは露知らず、亜嵐さんはホットケーキの感想をつらつらと語り出した。
「見ろ、この厚みを。適度な気泡が出来ている。ふんわりとした食感は実に素晴らしい。バターとシロップが染み込んで、言い知れぬ味わいを醸し出している。――ふむ、下手な店など目ではないな。どうやったらこんなに上手く焼けるのだろう?」
「そんな大げさな……」
「大げさなものか!ほら、湊も食べたまえ。一緒に食べれば、尚美味くなるというものだ」
その言葉に、俺も一切れいただくことにする。
――うん、我ながら上手く焼けている。
と、フォークを握ったままの亜嵐さんが、興味津々といった眼差しを俺に向けてきた。
「――それで、湊。その白石女史とやらは、どんな人物なのだ?」
「えっ、今ここでその話題ですか?」
「当然だとも!甘美な料理を前にすれば、私の好奇心もまた甘美に膨らむ。さあ、語ってみたまえ!」
そう言われて、俺は詳しく語り始めた。
あのとき感じた、白石さんの『渇き』のようなものを。
2
あなたにおすすめの小説
秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~
天月りん
キャラ文芸
食べることは、生きること。
紅茶がつなぐのは、人の想いと、まだ癒えぬ記憶。
大学生・湊と英国紳士・亜嵐が紡ぐ、心を温めるハートフル・ストーリー。
――つまり料理とは、単なる習慣ではなく、歴史の語り部でもあるのだよ――
その言葉に心を揺らした大学生・藤宮湊は、食文化研究家にしてフードライターの西園寺亜嵐と出会う。
ひょんな縁から彼と同じテーブルで紅茶を飲むうちに、湊は『食と心』に秘められた物語へと惹かれていく。
舞台は、ティーハウス<ローズメリー>
紅茶の香りが、人々の過去と未来を優しく包み込み、二人の絆を静かに育んでいく――。
◆・◆・◆・◆
秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編
・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」シリーズ本編番外編
・番外編シリーズ「BONUS TRACK」シリーズSS番外編
・番外SSシリーズ「SNACK SNAP」シリーズのおやつ小話
よろしければ覗いてみてください♪
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
短編)どうぞ、勝手に滅んでください。
黑野羊
恋愛
二度も捨てられた聖女です。真実の愛を見つけたので、国は救いません。
あらすじ)
大陸中央にあるルオーゴ王国で、国を守る結界を維持してきた聖女ロザリア。
政略のため王太子と婚約していた彼女は、突如『真の聖女』が現れたとして婚約を破棄され、聖女の座を追われてしまう。さらに、代わりに婚姻しろと命じられた聖騎士からも拒絶され、実家にも見捨てられたロザリアは、『最果ての修道院』へと追放された。
けれど彼女はそこで、地位や栄光、贅沢などとはほど遠い、無条件に寄り添ってくれる『真実の愛』と穏やかな日々を手にいれる。
やがて聖女を失った王国は、崩壊へ向かっていき――。
ーーー
※カクヨム、なろうにも掲載しています
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~
秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。
五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。
都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。
見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――!
久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――?
謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。
※カクヨムにも先行で投稿しています
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
後の祭り
ねこまんまときみどりのことり
ライト文芸
母親を馬車の事故で亡くしたナズナは、馬車に乗っていた貴族の男性に、義理の娘として引き取られた。引き取られた先の子爵邸では、義母や義妹に傷付けられて泣いて過ごすこともあったが、懸命に生きていく。引き取られた裏には、別の理由もあったようで。
小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる