秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第二章 紅茶館ローズメリー

紅茶館ローズメリー④

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 話が一段落したタイミングを計ったように、木の床をこつこつと踏む足音が近づいてきた。
 視線を向ければ、翠さんが銀色の盆を手に、こちらへやって来る。

「お待たせしました」

 テーブルに、空のカップを乗せたソーサーと、揃いのティーポットが置かれる。
 ティーポットは、一人分にしては大きめだ。
 これで二人分なのかと西園寺氏のほうを見遣ると、彼の前にも同じティーポットが置かれた。
 どうやらこの大きさで一人分らしい。

「茶葉はセイロンのセカンドフラッシュですよ」
「ふむ……今の時期ならではですね」
「捻りはないけれど、王道にはその理由があるわ」

 二人のやり取りを呆然と眺める俺の前に、白い液体で満たされたピッチャーが置かれた。

(なんだろう……牛乳?)

 これでミルクティーにしろ、ということだろうか。

「砂糖はお好みでどうぞ」

 静謐な手つきでテーブルの真ん中に角砂糖の皿を置き、にこりと微笑む。

「スコーンは熱々を出しますからね」

 そう言い残し、女主人は再び店の奥に姿を消した。

「さあ、始めようか」

 楽しげに手を擦り合わせた西園寺氏に倣い、ポットに手を伸ばす。
 けれど――ピッチャーと角砂糖を前に、手が止まってしまう。

「あの……西園寺さん。これ、どうやって飲めばいいんですか?」

 恐る恐る尋ねると、西園寺氏は目を細め、ゆるやかに口角を上げた。

「好きに飲めばいいさ。――しかしそれとは別に、今のはいい質問だ。実はイギリスでは、紅茶にミルクを入れる順序一つにも、長く続いている議論があるんだよ」
「順序と議論?」

 予想外の答えに、俺は目を見開いた。

「そう。先にミルクを入れてから紅茶を注ぐか、あるいは紅茶を先に注いでからミルクを足すか――このふたつで随分と印象が変わるのさ」

 西園寺氏は自分のティーポットを軽く持ち上げ、俺に見せた。

「もともとは階級差と関わりがあってね。質の悪い陶器は、熱い紅茶を直接注ぐと割れてしまう。だから庶民は先にミルクを入れて、器を守った。対して丈夫な磁器を使える上流階級は、紅茶を先に注いで香りを楽しんだ、というわけだ」
「へぇ……そんな違いが……」

 感心したところで、木の床をこつこつと踏む音が再び近づいてきた。

「お待たせしました」

 顔を上げると、大きめの皿を手にした翠さんが、にこやかな表情で立っている。

「お待ちかねのスコーンよ」

 テーブルに置かれた『それ』に、俺は目を見張った。

 皿の上には、大きなまんじゅうほどもある焼き菓子がふたつ。
 その脇にはたっぷりのバターとジャムが、銀縁の器に盛られている。

 他に例えようがないのでまんじゅうと形容したが、あんが入った和菓子のそれとは形が異なる。
 丸い型で抜いたのだろう――膨らんだ円筒型の胴には、ぱっくりと割れ目が入っている。
 そして上面は、照りのあるきつね色をしていた。

「……これが、スコーン?」

(これまで食べてきたものと、全然違う……)

 戸惑う俺を見て、西園寺氏はにやりと笑った。

「君が知るスコーンは、三角形でチョコチャンクが入っている――そうだね?」
「はい、それです!」

 あちこちのコーヒーチェーンで、手軽に購入できるもの。
 かじると口の中の水分が奪われるから、コーヒーで喉の奥に流し込む――それが俺の知るスコーンだ。

 こくこくと頷くと、西園寺氏はふっと息を吐いた。

「それはアメリカ式だ。型で抜かないから余分な生地ができず、かつ手軽に成形できる。三角形は合理の形なのだ。また砂糖が多めで、チョコレートやドライフルーツを混ぜ込んだ、菓子に近いものでもある。それに対して、こちらはイギリスの――」
「はいはい、そこまで。せっかくのスコーンが冷めてしまうわ。講義は召し上がってからにしてくださいな」

 翠さんが、西園寺氏の顔の前に手をかざした。
 表情はにこやかな微笑――しかし静かな声音は、有無を言わさぬ迫力を孕んでいる。
 西園寺氏はわずかに肩をすくめてホールドアップすると、それ以上の言葉を飲み込んだ。

「……ご忠告、感謝します」
「ふふ。召し上がり方はお好きにどうぞ。ただし――」

 翠さんは俺の顔を見て、いたずらっぽく目を細めた。

「真ん中の割れ目から横にぱかっと割って、クリームとジャムをたっぷり乗せてごらんなさい。それが一番美味しい食べ方よ」

 ごゆっくり、と言い残し、翠さんは奥へ戻っていった。

 静けさが戻ると同時に、西園寺氏は小さくため息をついた。

「どうにも私は、喋り過ぎてしまう。……さて、熱いうちにいただくとしよう」

 その声にはほんのりと、拗ねた色が混じっている。

(かわいいところもあるんだな……)

 吹き出しそうになるのを堪えて、言われた通りスコーンを横に割る。
 すると蒸気がふわっと立ち昇り、小麦の香りが甘く鼻をくすぐった。

(うわっ……いい匂い!)

 すかさず器のバターをすくおうとして、俺は違和感を感じた。

「……あれ、これ……バターじゃない?」

 首を傾げて呟く。
 するとそれを聞きつけた西園寺氏は、満足そうに眉を上げた。

「気付いたか、さすがは藤宮くん。これこそイギリスが誇る『クロテッドクリーム』だ。イギリス南西部、デヴォン州やコーンウォール州の名物でね」

 得意気に説明を始めた西園寺氏の声には、さきほどまでの張りが戻っている。

「生クリームより濃厚で、だがバターより軽やか。スコーンには欠かせない存在であり……」

 講釈が始まろうとした、まさにそのとき。
 視線の端に、店の奥からじっとこちらを見る翠さんの姿が目に入った。
 腕を組み、にっこりと微笑んでいる。
 ――が。その笑みの奥には「冷めないうちに召し上がれ」という無言の圧が潜んでいた。

「……っ!」

 西園寺氏はびくりと肩を揺らすと、「…こほん」と一つ咳払いをした。

「とにかく!熱いうちに食べたまえ!」

 早口で言い、ナイフを手に取る。

(……やっぱりかわいい……)

 ぷくくっとこぼれそうな声を押さえ、スコーンを見つめる。
 表面は香ばしく、中はふっくらと柔らかい。
 ここにクロテッドクリームとジャムを乗せるのか――。

(どんな味なんだろう……)

 胸の奥で、期待がむくむくと膨らんでいく。
 クロテッドクリームを一匙、スコーンの割れ目に乗せる。
 すると、正面から咎めるような声が飛んできた。

「いやいや、それでは少な過ぎだ。もっと乗せたまえ」
「……は?」

 俺の手元のスコーンを睨み、西園寺氏は首を横に振った。

「もっと!」

 重ねて言われ、俺はもう一匙、クリームを乗せた。

「まだまだ」

 もう一匙。今度は少し控えめに……。

「だから!それでは足りないと言っている!」
「さすがにこれ以上は無理ですって!」

 堪りかねて、つい声を荒げてしまう。それでも西園寺氏は譲らない。

「もう一匙乗せるんだ!」
「………っ!!」

 やけくそになり、山のようなクリームを盛り付ける。
 さらにジャムをてんこ盛りにすると、簡素だったスコーンは、まるでいたずらか罰ゲームのような見た目になった。
 そこまでやって、西園寺氏はやっと満足げに頷いた。

(うわぁ……これを食べるのか……)

 スコーンの大きさと比べて、明らかに多すぎるクリームとジャム。
 油脂と砂糖の塊に怯んでしまうが、事ここに至って「食べない」という選択肢はない。

(……なんとかなる、はず!)

 意を決してかぶりついた瞬間。

「……っ!!」

 衝撃で動きを止めた俺を見て、西園寺氏はにやりと笑った。

(……うまっ……!?)

 深紅のジャムが弾けるように酸味を放ち、その後を追うように濃いミルクの風味が舌を包み込む。
 赤と白のコントラストは鮮烈で、それでいて口の中でとろりと溶け合う。

 スコーンそのものは、飾り気のない素朴な焼き菓子に見えた。
 だが――違った。
 噛みしめるたびに、小麦の甘みと香ばしさがふわりと立ち昇る。
 ほろほろと崩れる生地はクリームとジャムを巻き込んで、驚くほど豊かな調和を生み出していく。

(もっと……もっと食べたい……!)

 口の中のものをごくんと飲み込み、次の一口をかじろうとした瞬間。
 またしても西園寺氏の鋭い声が飛んできた。

「今だ!すぐにミルクティーを口に含むんだ!」

 俺は慌ててカップを手に取り、ずずっと啜った。

「……っ!?」

 俺は再び衝撃で固まった。
 濃厚で力強いスコーンの余韻を紅茶の深い香りが洗い流し、ミルクのまろやかさが全てを包み直す。
 口の中に残っていた甘酸っぱさやクリームの脂分が、不思議なほどすっきりと整えられていく。

「……っ……すご……」

 言葉にならない声が、口から漏れてしまう。
 ただただ美味い。
 歓喜にも似たざわめきが、頭の先からつま先まで駆け巡っていく。
 カップを持ったまま呆然と西園寺氏を見ると、心底うれしそうな笑みを浮かべていた。

「それこそがクリームティーの醍醐味だ。スコーンもジャムもクリームも、それぞれが個性的であるにもかかわらず、最後には紅茶が全てを調和させる。完成するのは、この瞬間だけだ」

 その言葉が、すとんと腑に落ちた。
 西園寺氏の言葉は、いつだって間違っていない。

(……やっぱりこの人はすごい……)

 喉を通ったミルクティーの温かさが、胸から腹へ、そして全身へ広がっていく。
 力が抜けていくようなふわりとした幸福感が、俺の全身を包み込んだ。
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