秘密はいつもティーカップの向こう側 ―BONUS TRACK―

天月りん

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ティーハウス・ローズメリー

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 チリン、と軽やかに鳴るベルが、来客を知らせる。

「いらっしゃいませ――あら、榊原さん」
「翠さん、こんにちは」
「こんにちは。いつものお席、空いてますよ」

 笑顔で出迎える翠に、常連客――榊原は軽く会釈をして、店の奥へと進んだ。

 奥まった席は、けれど窓際で明るく、榊原のお気に入りだ。
 本の虫の常連は、明るすぎない壁側のテーブルにいつも陣取っている。
 けれど榊原はこの店で本は読まないし、窓から見える風景や道行く人々を観察するのが楽しかった。

 ローズメリーを訪れるとき、彼はいつもちょっとだけ疲れている。
 壁をひとつ隔てて、日常と非日常が隣り合っている。そして今――自分は非日常側に身を置いている。
 それは榊原にとって、心を鎮めるための小さな防御壁でもあった。

 こつこつと木の床を歩く音が近づいてくる。
 顔を上げると、銀色の盆を手にした翠が立っていた。

「本日はイングリッシュ・ブレックファーストをお持ちしました」
「ほう……」

 榊原はいつも、茶葉を指定しない。翠が選んだその日のおすすめを飲む。

(今日は味わい深いブレンドティーか……)

 カップに注ぐと、鮮やかな琥珀色の液体から、湯気とともに豊かな香りが立ち昇る。
 ミルクが添えられていたが、榊原はストレートで一杯目を味わった。

 カップにミルクを入れ、二杯目を注いでいると、白い皿を持った翠がやってきた。

「お待たせしました。サーモンとチーズのサンドウィッチです」

 サーモンとチーズは、榊原が特に気に入っているサンドウィッチだ。
 この店のサンドウィッチは、どれも美味い。ローストビーフも、コロネーション・チキンも、クレソンが効いた玉子サラダも。
 けれどやはり彼にとっての一番は、燻されたサーモンとフレッシュなクリームチーズの組み合わせなのだ。

 皿をテーブルに置く翠を、榊原はちらりと見遣った。
 この店で、これまで誰にも語らなかった自らの過去を披露したのは、一ヶ月前のことだ。
 この一ヶ月、榊原はこの店に来るべきかどうか迷っていた。

(過去の私は……褒められたものじゃない。呆れられただろうか?)

 後悔と逡巡。それがお気に入りの場所から足を遠退かせた。
 しかし時間が経つにつれ、この店に流れる落ち着いた時間が恋しくなった。

(……行ってみよう。もしものときは――そのときだ)

 けれど、翠は何も言わなかった。
 この一ヶ月どうしていたのかも、その後娘とどうなったのかも。
 ただこの場所に存在し、自分を受け入れてくれた。
 それを、榊原は深く感謝した。

 チリン。

「翠さん、ただいま帰りました」
「こんにちは、翠さん」

 賑やかな声が入り口から聞こえる。
 見ると、そこには同じく常連の西園寺氏と、栄養士見習いの若者が立っていた。

(……あぁ。彼らは気持ちのよい若者だが……)

 顔を合わせるのは、少しだけ気まずい。
 何か追及されるだろうか――顔を背けようとした瞬間、若者と目が合ってしまった。

「あっ、榊原さん! こんにちは」

 その声に、西園寺氏もこちらに視線を向ける。
 仕方なく挨拶のために立ち上がろうとしたとき。

「湊、急ぎの仕事だ。いくぞ。――榊原さん、ごゆっくり」

 少し名残惜しげな若者を促して、二人はカウンターの奥に消えた。
 榊原はほっとして、椅子の背に体を預けた。

(西園寺さん……ありがとう)

 この店に集う人たちは、本当に優しい。

 人は皆、何かしらの影を背負っている。希望だけを抱いて生きることはできない。
 けれどこの場所で紅茶を飲んでいる時間は、その荷物を肩から降ろせる気がする。
 そんな空気が、この店には流れている。

(……今日は帰りに、スコーンのセットを包んでもらおう)

 家のトースターで温めて、クリームとジャムを乗せよう。――順番は決めずに。
 カップで揺らめく紅茶を眺めながら、榊原は小さく微笑んだ。
 それは昔、かの地で心躍らせた優しい色と同じに見えた。



 秘密はいつもティーカップの向こう側 BONUS TRACK
 ティーハウス・ローズメリー / 完

 ◆・◆・◆

 秘密はいつもティーカップの向こう側
 本編もアルファポリスで連載中です☕
 ティーカップ越しの湊と亜嵐の物語はこちら。

 秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編
 ・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」
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