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happy2
2:威嚇
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静かな廊下を先を歩く玲司を追いかけるように桔梗も足を進める。彼の大きな背中はどこか緊張感が滲み出ていて、桔梗は声を掛けるのも躊躇った。
目的の場所なのか、玲司は扉の前に立つとコンコンとノックをする。すぐさま「どうぞー」と返事が微かに聞こえ、躊躇いもなく玲司が扉を開く。
開かれた扉の間から見えた景色に、桔梗は「あれ?」と不思議なものでも見たかのように瞬きを繰り返す。
外観しかり、玄関エントランスしかり、途中通ってきた通路や所どころに飾られた装飾品しかり。
まるで外国に来たような錯覚で困惑していた所、視界に入ってきたのは、一般家庭に比べたらかなりの広さがあるリビングの一角にコタツ。その下はいきなりの和風な畳。
畳の周辺はフローリングにダイニングテーブルと、洋を醸し出しているのに、畳にコタツとは、どうしてこうなった、と尋ねてみたい心境になったものの、初対面の婚家に真っ正直に言ってもいいのだろうか、と桔梗はちらりと玲司を窺い見る。
「ここはいつから旅館になったんでしょうか、薔子さん」
淡々と、外気並の冷気をまとった玲司の声が、コタツの中から手を振っている女性へと投げかけられる。
「いいじゃない。だって洋館って地味にすきま風多くて寒いんだもの」
「でしたら、移築なんてしなくても良かったじゃないですか。それ以前に、こんな豪雪地帯に大正時代の建物を置くなんて狂気の沙汰ですからね」
「えー、だって建物気に入ってたし、老朽化で取り壊すって言うから。でも基礎は現代的なのよ、この家。ただ、どうしても築材は変形しちゃってたし、特殊な部分は前のまんまだから、底冷えしちゃうのよね。で、今年は玲司が結婚したって言ってたから、突貫工事でコレ作ったのよ」
「意味が分かりません。意味が」
自分たちが結婚したからコタツとは。桔梗にも意図が全く分からない。しかも突貫工事とか。
氷の矢を次から次へと繰り出す玲司の口撃を飄々と受け流し、女性は玲司の隣に居た桔梗へと手招きしながら「寒いでしょ、こっちに早くいらっしゃいよ」と促してくる。
玲司は深い溜息をついて、桔梗へと「行きましょうか」とどこか諦めたような遠い目をして告げてきた。玲司から婚姻前夜に寒川の養子と聞いていて、総一朗ももうひとりの兄弟も半分しか血が繋がっておらず、義母に関しては生みの親と親友だったという情報しか知らなかった。
だから、桔梗は二人が……というより、玲司が義母である彼女を忌避しているのが不明で、どういった態度で接したらいいのか分からず困惑が増していった。
かろうじて、ふかふかのスリッパの感触に心を支えられながら、桔梗は玲司の後ろをしずしずと付いていく。コタツの彼女は布団からスルリと長い脚を抜いて、折り目正しく座って二人を出迎える。
スリッパを畳の縁近くで脱ぎ、背筋を伸ばして座る玲司に並んで、桔梗も彼女と対面するように座った。
「薔子さん、こちら僕の番の桔梗君です。桔梗君、この人が僕の義母の寒川薔子さん。現在は花楓さんと一緒に兄さんの相談役として収まってるよ」
「は、初めまして、玲司さんの番の桔梗です。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
畳の上で玲司と並んで正座をし、深々と挨拶と謝罪を告げれば、クスリと笑う囁きと共に、薔子の方から突然威嚇フェロモンがぶわりと溢れ、桔梗を襲う。
むせ返る薔薇の濃厚な香りが見えない蔓となって桔梗をギチギチに絡め取る。既に玲司の番となっているため、他のアルファのフェロモンに誘引されることはないが、今桔梗を襲う威嚇フェロモンは番になっていようがなかろうが関係がなかった。
「っ! ぅ、ぁ」
「桔梗君!」
上流アルファの威嚇フェロモンをまともに食らった桔梗は、喉を押さえたまま畳の上に転げまわる。はくはくと口を動かすものの肺にまで空気が届かない。さながら水面で空気を求める鯉のようだ。
「ぁ、く……」
鼓動はドクドクと急加速で脈打ち、呼吸が回らない為酸欠で意識が朦朧としていると、突然玲司が薔子から隠すように桔梗を抱きしめ、自分の首筋へと番の顔を押し付ける。
あれだけ濃密だった薔薇の匂いが玲司のフェロモンのハーブの清涼に包まれ、滑る込んでくるように硬直が解けていく。酸欠で思考が霞んでいた桔梗は、番の匂いを求めるように顔を項へと強く押し付けていた。
あえかな呼吸が首に触れる度に、くすぐったさに玲司はうっすらと唇を綻ばせる。時々無防備に自分を求める番が可愛くて、玲司は桔梗の後頭部を押さえ、涙の浮かんだ目尻に唇を落とした。
桔梗が苦しんで自分を求めている姿さえ可愛いと思うなんて、自分は歪んでいるのだろう。兄の総一朗はそれを『黒い』と言うが、桔梗はそれさえも受け入れてくれる気がする。
彼は自分が思うよりも懐が広い。
「大丈夫ですよ、桔梗君。僕がいますからね」
「れ……じ、さ」
「もっとぎゅってしますか?」
「……うん」
コクンと頷く桔梗を自分の膝の上に乗せ、まだ骨の浮く細い体を抱き締める。鼻先に楚々とした花の香り──桔梗のフェロモンが届き、玲司は「大丈夫ですからね」と何度も桔梗へと吹き込み、安心させるように髪を梳いていった。
「ゆっくり呼吸をして。……そう、無理せずに、できる範囲でいいので」
「……れ、いじさ……」
縋るように玲司の首にしがみつき、少しずつ番の清涼なハーブのフェロモンを吸い込む内に、薔子の威嚇フェロモンが薄れてきた気がする。
もっと玲司のフェロモンを感じたくて、彼の項に顔を押し付けると、強く玲司が抱き締めてくれて、安堵にほっと小さく吐息した。
出会った当初は警戒心の強かった桔梗だが、自分の想いを自覚し、玲司に恋をしてからというもの、少しずつではあったが二人の距離は縮まり、やっと記憶の残ったままで体を繋げてからは、玲司は桔梗をさんざん甘やかし、桔梗もその心地よさに慣れていき、自宅では食事は隣り合って取り、風呂もよほどの理由がない限りは玲司が桔梗のメンテナンスをするまでになっていたのだ。
しかし、それは誰もが介入しない自宅限定という空間で、他人の視線の中でベタベタしてもいい理由にはならない、と互いしか見えていない現状では気づく様子もないようだった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、玲司さん。アルファの威嚇フェロモンには会社時代に慣れてた筈なんですけど、どうやら気が緩んでしまったようです」
「……そうですか……」
良かった、と小さな呟きが聞こえ、桔梗は心配性な玲司を安心させるように頭を擦り付ける、と。
「あらぁ、ラブラブねぇ。これが新婚さんってイメージまんま。ね、凛?」
「……あんまり玲司兄さんを揶揄うのはやめたほうがいいですよ、母さん。ほら、挨拶の途中なんですから、傾聴するのが先では?」
「!?」
呑気な会話に玲司から離れ振り返る。突然襲った薔子の威嚇フェロモンのせいで気付かなかったが、彼女の隣に一人の人物が座っていた。ほっそりとした顔や華奢な体つきは女性的でありながら、整った柳眉の下の双眸はどこか鋭く、すっと通った鼻筋や薄い唇は男性にも見える。
そして、自分が自宅でもないのにベタベタと玲司に甘えきってるのに気づき、慌ただしく膝から降りようとしたら、なぜかさっきよりもがっしりと抱きしめられて混乱する。
「凛。そこに居たのなら、薔子さんを止めてください」
「止めれるものなら止めたんですけどね。僕では完膚なきまで言葉で叩きのめされるのが目に見えてますよ」
毅然とした態度で玲司が霖と呼ぶ人物を嗜めるも、その霖という人は飄々と玲司に返す。柳に風とはこういうことを言うのだろうか、とようやく落ち着きを戻した桔梗が霖へと視線を向けると。
「初めまして、玲司兄さんの番さん。僕は寒川凛といいます。寒川の中では影の薄い三男坊だよ」
影が薄いと自分を称していたが、微笑む姿は月下美人のように儚くも名前の如く凛としていて、不思議な雰囲気を纏う青年の姿に、思わず息を飲んだ桔梗だった。
「は、初めましてっ、桔梗です。お見苦しい所をお見せしてしまって……」
「謝らなくてもいいよ。先に謝るべきなのは母さんだしね」
平伏しそうな勢いの桔梗を止めたのは凛で、その霖はちらりと冷ややかな眼差しで実の母を流し見る。居た堪れなくなった薔子は、不貞腐れたように唇を尖らせて「悪かったわよ」と投げやりな言葉を吐いた。不服そうな言葉に玲司の眉間に皺が刻まれる。
「薔子さ……」
「もしかして、僕を試すために威嚇フェロモンを?」
玲司の鋭い声を遮り、柔らかな声で問いかけたのは隣に座る桔梗で、まだ顔色は優れないものの、その眼差しはまっすぐに薔子へと向けられている。
「高位アルファの威嚇フェロモンは、時には同じアルファの心臓を止める事もできると聞いたことがあります。オメガなら尚更。そうまでして僕を試したかったのは、貴女が玲司さんを大切にしているから。……違いますか?」
「……うー。せっかく可愛らしいオメガが嫁に来たから、ちょっとからかっただけなのに、試練とか言われちゃうし、玲司の視線怖いし、凛は擁護してくれないし、お母さん泣いちゃうっ」
「……カワイコぶっても年齢が年齢なんですから、素直に歓迎したらいいんですよ」
「わーんっ! 凛が可愛くないっ!」
「泣き真似しても無駄ですからね、薔子さん」
思ったままに指摘すれば、子供のように拗ねた薔子は、更に凛からの追い打ちにコタツに伏せて騒ぎ出す。トドメに玲司が呆れて言っているが、桔梗はカオスな光景にただただ戸惑うばかりだった。
「あ……あの?」
「いいんですよ、桔梗君。どうやら、あれは君を試したというより、歓迎のクラッカーみたいなもののようですから」
落胆して説明する玲司に、桔梗は首を傾げながらも、番の袖からは手を離さない。意志の通わない番契約から始まった二人だが、数ヶ月の時の流れが桔梗の信用を得たと感じ、思わず顔を綻ばせる玲司。
そんな息子と兄の姿に驚きを隠せない薔子と凛。
「はぁ……、変わるものね。さて、改めてようこそ寒川家別邸へ。私は寒川薔子。そこの冷たい息子二人の母です。さっきはびっくりさせてごめんね、桔梗……君って呼んでいいかしら?」
「あっ、はい」
「ほらほら、そこは寒いでしょう? こっちにいらっしゃいよ」
と、薔子はコタツの布団をポンポンと叩き、二人を呼び寄せるとスマホでどこかに電話を架け始める。その間に桔梗と玲司は並んでこたつに入り、じんわりと足元が温まる感覚に、ホッと息をついた。
「今お茶を持ってこさせるからね。あ、凛。そこの棚に豆大福買ったのがあるから、持ってきてくれる?」
「はいはい、息子使いが荒い人ですね。所で、玲司兄さんのお嫁さん。アレルギーとかないですか?」
「え、はい。大丈夫です」
「そういえば、総一朗は?」
「兄さんは車を置きに行ってる筈ですよ。そろそろ戻ってくるかと」
(お、お嫁さんって。お嫁さんって!!)
恥ずかしさでのたうち回りたいのを必死で堪え、凛へと言葉を返すと、玲司が桔梗に微笑みを向けていたのである。
「玲司さん?」
「いえ、お嫁さんって言われて照れてる桔梗君が可愛いなって」
「っ、も、もうっ。からかわないでくださいよ」
隣で座る玲司の蕩けそうな笑みに、更に赤面する桔梗。
「やだぁ、可愛い! ちょっと、後で私にお嫁さんを貸しなさい、玲司」
「嫌ですよ。本当なら、挨拶したらすぐにでもホテルの方に移動したかったのに、それを邪魔してきたのは、薔子さんですよね」
「だって、今日の集まりで玲司に会いたいって人がいたんだもん」
「会いたい……人、ですか?」
薔子も、離れた場所にいた凛も気づいてないようだが、隣に座る桔梗は玲司の変化にいち早く気づいてしまった。どうも玲司は上流アルファと進んで交流をしないようにしているのか、会いたいと薔子から告げられ緊張に身を強ばらせている。表情はいつもと変わらないから、きっと桔梗以外は誰も気づいていないだろう。
「誰でしょう?」
「心配しなくても、『四神』のとこの子だから。秋槻の次男が玲司に会いたいんですって。去年までは二人目の子供に手がかかって動けなかったからって。そう言ってたわよ」
「ああ……彼ですか。分かりました。それなら構いませんよ」
桔梗はそっと玲司の手を握っていたが、薔子からの言葉に玲司の力が緩むのを感じた。彼の懸念していた人物ではなかったらしい。けども、まだ番の知らない部分が多いな、と桔梗は内心気落ちしたのだった。
目的の場所なのか、玲司は扉の前に立つとコンコンとノックをする。すぐさま「どうぞー」と返事が微かに聞こえ、躊躇いもなく玲司が扉を開く。
開かれた扉の間から見えた景色に、桔梗は「あれ?」と不思議なものでも見たかのように瞬きを繰り返す。
外観しかり、玄関エントランスしかり、途中通ってきた通路や所どころに飾られた装飾品しかり。
まるで外国に来たような錯覚で困惑していた所、視界に入ってきたのは、一般家庭に比べたらかなりの広さがあるリビングの一角にコタツ。その下はいきなりの和風な畳。
畳の周辺はフローリングにダイニングテーブルと、洋を醸し出しているのに、畳にコタツとは、どうしてこうなった、と尋ねてみたい心境になったものの、初対面の婚家に真っ正直に言ってもいいのだろうか、と桔梗はちらりと玲司を窺い見る。
「ここはいつから旅館になったんでしょうか、薔子さん」
淡々と、外気並の冷気をまとった玲司の声が、コタツの中から手を振っている女性へと投げかけられる。
「いいじゃない。だって洋館って地味にすきま風多くて寒いんだもの」
「でしたら、移築なんてしなくても良かったじゃないですか。それ以前に、こんな豪雪地帯に大正時代の建物を置くなんて狂気の沙汰ですからね」
「えー、だって建物気に入ってたし、老朽化で取り壊すって言うから。でも基礎は現代的なのよ、この家。ただ、どうしても築材は変形しちゃってたし、特殊な部分は前のまんまだから、底冷えしちゃうのよね。で、今年は玲司が結婚したって言ってたから、突貫工事でコレ作ったのよ」
「意味が分かりません。意味が」
自分たちが結婚したからコタツとは。桔梗にも意図が全く分からない。しかも突貫工事とか。
氷の矢を次から次へと繰り出す玲司の口撃を飄々と受け流し、女性は玲司の隣に居た桔梗へと手招きしながら「寒いでしょ、こっちに早くいらっしゃいよ」と促してくる。
玲司は深い溜息をついて、桔梗へと「行きましょうか」とどこか諦めたような遠い目をして告げてきた。玲司から婚姻前夜に寒川の養子と聞いていて、総一朗ももうひとりの兄弟も半分しか血が繋がっておらず、義母に関しては生みの親と親友だったという情報しか知らなかった。
だから、桔梗は二人が……というより、玲司が義母である彼女を忌避しているのが不明で、どういった態度で接したらいいのか分からず困惑が増していった。
かろうじて、ふかふかのスリッパの感触に心を支えられながら、桔梗は玲司の後ろをしずしずと付いていく。コタツの彼女は布団からスルリと長い脚を抜いて、折り目正しく座って二人を出迎える。
スリッパを畳の縁近くで脱ぎ、背筋を伸ばして座る玲司に並んで、桔梗も彼女と対面するように座った。
「薔子さん、こちら僕の番の桔梗君です。桔梗君、この人が僕の義母の寒川薔子さん。現在は花楓さんと一緒に兄さんの相談役として収まってるよ」
「は、初めまして、玲司さんの番の桔梗です。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
畳の上で玲司と並んで正座をし、深々と挨拶と謝罪を告げれば、クスリと笑う囁きと共に、薔子の方から突然威嚇フェロモンがぶわりと溢れ、桔梗を襲う。
むせ返る薔薇の濃厚な香りが見えない蔓となって桔梗をギチギチに絡め取る。既に玲司の番となっているため、他のアルファのフェロモンに誘引されることはないが、今桔梗を襲う威嚇フェロモンは番になっていようがなかろうが関係がなかった。
「っ! ぅ、ぁ」
「桔梗君!」
上流アルファの威嚇フェロモンをまともに食らった桔梗は、喉を押さえたまま畳の上に転げまわる。はくはくと口を動かすものの肺にまで空気が届かない。さながら水面で空気を求める鯉のようだ。
「ぁ、く……」
鼓動はドクドクと急加速で脈打ち、呼吸が回らない為酸欠で意識が朦朧としていると、突然玲司が薔子から隠すように桔梗を抱きしめ、自分の首筋へと番の顔を押し付ける。
あれだけ濃密だった薔薇の匂いが玲司のフェロモンのハーブの清涼に包まれ、滑る込んでくるように硬直が解けていく。酸欠で思考が霞んでいた桔梗は、番の匂いを求めるように顔を項へと強く押し付けていた。
あえかな呼吸が首に触れる度に、くすぐったさに玲司はうっすらと唇を綻ばせる。時々無防備に自分を求める番が可愛くて、玲司は桔梗の後頭部を押さえ、涙の浮かんだ目尻に唇を落とした。
桔梗が苦しんで自分を求めている姿さえ可愛いと思うなんて、自分は歪んでいるのだろう。兄の総一朗はそれを『黒い』と言うが、桔梗はそれさえも受け入れてくれる気がする。
彼は自分が思うよりも懐が広い。
「大丈夫ですよ、桔梗君。僕がいますからね」
「れ……じ、さ」
「もっとぎゅってしますか?」
「……うん」
コクンと頷く桔梗を自分の膝の上に乗せ、まだ骨の浮く細い体を抱き締める。鼻先に楚々とした花の香り──桔梗のフェロモンが届き、玲司は「大丈夫ですからね」と何度も桔梗へと吹き込み、安心させるように髪を梳いていった。
「ゆっくり呼吸をして。……そう、無理せずに、できる範囲でいいので」
「……れ、いじさ……」
縋るように玲司の首にしがみつき、少しずつ番の清涼なハーブのフェロモンを吸い込む内に、薔子の威嚇フェロモンが薄れてきた気がする。
もっと玲司のフェロモンを感じたくて、彼の項に顔を押し付けると、強く玲司が抱き締めてくれて、安堵にほっと小さく吐息した。
出会った当初は警戒心の強かった桔梗だが、自分の想いを自覚し、玲司に恋をしてからというもの、少しずつではあったが二人の距離は縮まり、やっと記憶の残ったままで体を繋げてからは、玲司は桔梗をさんざん甘やかし、桔梗もその心地よさに慣れていき、自宅では食事は隣り合って取り、風呂もよほどの理由がない限りは玲司が桔梗のメンテナンスをするまでになっていたのだ。
しかし、それは誰もが介入しない自宅限定という空間で、他人の視線の中でベタベタしてもいい理由にはならない、と互いしか見えていない現状では気づく様子もないようだった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、玲司さん。アルファの威嚇フェロモンには会社時代に慣れてた筈なんですけど、どうやら気が緩んでしまったようです」
「……そうですか……」
良かった、と小さな呟きが聞こえ、桔梗は心配性な玲司を安心させるように頭を擦り付ける、と。
「あらぁ、ラブラブねぇ。これが新婚さんってイメージまんま。ね、凛?」
「……あんまり玲司兄さんを揶揄うのはやめたほうがいいですよ、母さん。ほら、挨拶の途中なんですから、傾聴するのが先では?」
「!?」
呑気な会話に玲司から離れ振り返る。突然襲った薔子の威嚇フェロモンのせいで気付かなかったが、彼女の隣に一人の人物が座っていた。ほっそりとした顔や華奢な体つきは女性的でありながら、整った柳眉の下の双眸はどこか鋭く、すっと通った鼻筋や薄い唇は男性にも見える。
そして、自分が自宅でもないのにベタベタと玲司に甘えきってるのに気づき、慌ただしく膝から降りようとしたら、なぜかさっきよりもがっしりと抱きしめられて混乱する。
「凛。そこに居たのなら、薔子さんを止めてください」
「止めれるものなら止めたんですけどね。僕では完膚なきまで言葉で叩きのめされるのが目に見えてますよ」
毅然とした態度で玲司が霖と呼ぶ人物を嗜めるも、その霖という人は飄々と玲司に返す。柳に風とはこういうことを言うのだろうか、とようやく落ち着きを戻した桔梗が霖へと視線を向けると。
「初めまして、玲司兄さんの番さん。僕は寒川凛といいます。寒川の中では影の薄い三男坊だよ」
影が薄いと自分を称していたが、微笑む姿は月下美人のように儚くも名前の如く凛としていて、不思議な雰囲気を纏う青年の姿に、思わず息を飲んだ桔梗だった。
「は、初めましてっ、桔梗です。お見苦しい所をお見せしてしまって……」
「謝らなくてもいいよ。先に謝るべきなのは母さんだしね」
平伏しそうな勢いの桔梗を止めたのは凛で、その霖はちらりと冷ややかな眼差しで実の母を流し見る。居た堪れなくなった薔子は、不貞腐れたように唇を尖らせて「悪かったわよ」と投げやりな言葉を吐いた。不服そうな言葉に玲司の眉間に皺が刻まれる。
「薔子さ……」
「もしかして、僕を試すために威嚇フェロモンを?」
玲司の鋭い声を遮り、柔らかな声で問いかけたのは隣に座る桔梗で、まだ顔色は優れないものの、その眼差しはまっすぐに薔子へと向けられている。
「高位アルファの威嚇フェロモンは、時には同じアルファの心臓を止める事もできると聞いたことがあります。オメガなら尚更。そうまでして僕を試したかったのは、貴女が玲司さんを大切にしているから。……違いますか?」
「……うー。せっかく可愛らしいオメガが嫁に来たから、ちょっとからかっただけなのに、試練とか言われちゃうし、玲司の視線怖いし、凛は擁護してくれないし、お母さん泣いちゃうっ」
「……カワイコぶっても年齢が年齢なんですから、素直に歓迎したらいいんですよ」
「わーんっ! 凛が可愛くないっ!」
「泣き真似しても無駄ですからね、薔子さん」
思ったままに指摘すれば、子供のように拗ねた薔子は、更に凛からの追い打ちにコタツに伏せて騒ぎ出す。トドメに玲司が呆れて言っているが、桔梗はカオスな光景にただただ戸惑うばかりだった。
「あ……あの?」
「いいんですよ、桔梗君。どうやら、あれは君を試したというより、歓迎のクラッカーみたいなもののようですから」
落胆して説明する玲司に、桔梗は首を傾げながらも、番の袖からは手を離さない。意志の通わない番契約から始まった二人だが、数ヶ月の時の流れが桔梗の信用を得たと感じ、思わず顔を綻ばせる玲司。
そんな息子と兄の姿に驚きを隠せない薔子と凛。
「はぁ……、変わるものね。さて、改めてようこそ寒川家別邸へ。私は寒川薔子。そこの冷たい息子二人の母です。さっきはびっくりさせてごめんね、桔梗……君って呼んでいいかしら?」
「あっ、はい」
「ほらほら、そこは寒いでしょう? こっちにいらっしゃいよ」
と、薔子はコタツの布団をポンポンと叩き、二人を呼び寄せるとスマホでどこかに電話を架け始める。その間に桔梗と玲司は並んでこたつに入り、じんわりと足元が温まる感覚に、ホッと息をついた。
「今お茶を持ってこさせるからね。あ、凛。そこの棚に豆大福買ったのがあるから、持ってきてくれる?」
「はいはい、息子使いが荒い人ですね。所で、玲司兄さんのお嫁さん。アレルギーとかないですか?」
「え、はい。大丈夫です」
「そういえば、総一朗は?」
「兄さんは車を置きに行ってる筈ですよ。そろそろ戻ってくるかと」
(お、お嫁さんって。お嫁さんって!!)
恥ずかしさでのたうち回りたいのを必死で堪え、凛へと言葉を返すと、玲司が桔梗に微笑みを向けていたのである。
「玲司さん?」
「いえ、お嫁さんって言われて照れてる桔梗君が可愛いなって」
「っ、も、もうっ。からかわないでくださいよ」
隣で座る玲司の蕩けそうな笑みに、更に赤面する桔梗。
「やだぁ、可愛い! ちょっと、後で私にお嫁さんを貸しなさい、玲司」
「嫌ですよ。本当なら、挨拶したらすぐにでもホテルの方に移動したかったのに、それを邪魔してきたのは、薔子さんですよね」
「だって、今日の集まりで玲司に会いたいって人がいたんだもん」
「会いたい……人、ですか?」
薔子も、離れた場所にいた凛も気づいてないようだが、隣に座る桔梗は玲司の変化にいち早く気づいてしまった。どうも玲司は上流アルファと進んで交流をしないようにしているのか、会いたいと薔子から告げられ緊張に身を強ばらせている。表情はいつもと変わらないから、きっと桔梗以外は誰も気づいていないだろう。
「誰でしょう?」
「心配しなくても、『四神』のとこの子だから。秋槻の次男が玲司に会いたいんですって。去年までは二人目の子供に手がかかって動けなかったからって。そう言ってたわよ」
「ああ……彼ですか。分かりました。それなら構いませんよ」
桔梗はそっと玲司の手を握っていたが、薔子からの言葉に玲司の力が緩むのを感じた。彼の懸念していた人物ではなかったらしい。けども、まだ番の知らない部分が多いな、と桔梗は内心気落ちしたのだった。
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ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
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