君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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嫩葉の終宵

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 玄関で投げるように靴を脱いだ慧斗が一目散に向かったのは、祖父母の位牌が置かれた仏間だった。風通しの良い和室は、普段紅音が昼寝するのにも使われていた。
 仏壇は多少荒らされていたものの位牌が壊されていなかったことにほっと安堵の息がこぼれる。だが、祖母が生前使用していた箪笥はどれも開かれていて、虫干し以外で出すことのなかった衣服が畳の上に散らばっていた。
 慧斗は一枚、また一枚丁寧に拾っていく。じわじわと込み上げてくる言葉にできない感情が溢れ、涙となって服に黒い染みを作っていった。
 どうして、こんなことを平気でできるのだろう。もし峯浦のしわざだとして、自分が彼を拒絶したから、慧斗が傷つくことをしたのだろうか。
 子ども思いの優しい保育士だと思っていた。紅音も峯浦に懐いていた。紅音を迎えに行き、帰るまでのひととき、峯浦と交わす雑談は慧斗にとって息抜きでもあった。
 それなのに、彼は慧斗を園児の母ではなく、オメガとして見るようになった。慧斗は何も変わっていないのに。
 人には代え難い思い出があるはずだ。それを壊されたら誰もが心を痛めるのでは、と悔しくなる。

「慧斗……」

 気遣うような紅龍の声が俯いて背中を向ける慧斗に投げかけられる。外から入る夕日が紅龍の影を作り、慧斗を抱きしめるように覆う。
 でも、振り返ることができない。

「あのさ、おばあちゃんの服とかこんなになっちゃったよ。ねぇ、俺、なにか悪いことしたのかな……。だから俺は今、罰を受けてるのかな……」

 今すぐにも彼に抱きついて大声で泣き叫んでしまいたい。祖母が虫除けに使っていた樟脳の微かな匂いがどうしようもなく絶望に感じて、ボロボロと涙が止まらない。

「オメガって……何をしなくても人に嫌われちゃうのかな。だから、お父さんもお母さんもみんな俺を捨てて……っ」

 両親に捨てられた時は祖母がいてくれた。
 紅龍と離されてからは紅音が、玲司や凛、白糸や秋槻がいてくれた。
 みんな慧斗に手を差し伸べてくれた。ごく自然に、当たり前のように。
 だけど、どうしてこんなに孤独なのか。
 自分はただ、小さくてもいいから、幸せになりたかっただけだ。
 そんな些細な幸せすら願うことも、オメガには不相応なのだろうか。

「慧斗っ!」

 畳を踏む音が聞こえ、次に訪れたのは強く慧斗を抱く腕の強さと、甘く苦い紅龍の香りが慧斗を包み込む。

「俺がいる。……いや、俺だけじゃなくて、紅音もいる。他にも玲司たちもおまえを大切に思ってる。だから、そんな悲しいことを言わないでくれ」
「でも……紅龍には婚約者がいるって……」

 あの日……紅龍と結ばれ番になった日、幸せの絶頂にいた慧斗を、アルファの冷たい男が小切手と共に告げた。
 紅龍には国に婚約者がいる。慧斗は弐本にいる間の性処理だと。
 紅龍と再会して同居まで至っても、彼に真実を問うのが怖くて聞けなかった。だから、慧斗はあのアルファの言葉をずっと信じて、紅龍を好きにならないと決めていたのだ。

「あれは伊月の虚言だ。……そうじゃないな。確かに、当時は婚約者に近い存在がいたのは本当だ。しかし、俺は運命である慧斗と出会ってしまった。その時点で俺は慧斗以外を番に迎えようとは髪一筋すら考えてはいなかった。だから一族を説き伏せて伊月を含め彼らの血縁者たちを切り離した。あとはおまえと紅音を一族に迎えるだけだ」
「一族……」

 耳朶を打つ『一族』というワードに慧斗の心は慟哭を抑えて冷えていくのを感じる。
 そうだ、彼は有名俳優であるが、大陸では希少なアルファ名家の子息だと思い出す。その話をネットで知った時、彼が玲司と親密だったと納得したほどだ。

「やっぱり、紅龍は雲の上の人だね」
「慧斗?」

 そっと紅龍の腕を解いて体をずらして慧斗は彼を見上げる。

「ね、紅龍。あなたは俺とは違う存在だ。世界の誰からも愛されて、誰もあなたの代わりにはなりえない。でも、俺は道端に生える草と同じ。邪魔だからと引っこ抜かれても、誰も悲しまない。だから、紅龍はもう俺たちとは二度と一緒にいないほうがいい。俺のせいであなたに瑕疵をつけるのは嫌だから」
「何を言って……」
「でもひとつだけお願い。紅音だけは連れて行かないで。あの子が俺から離れてしまったら、きっと俺は狂ってしまう。生きていく希望もなく辛いから……」
「慧斗!」

 話していく度に慧斗の目の光が薄くなっていく。彼は絶望していると、紅龍は慧斗の肩を爪が食い込むほど掴み、大声で慧斗の名を叫んだ。のろのろと視線を合わせると、いつもは穏やかな赤い瞳が、今は煮えたぎるマグマのように怒りに揺れていた。
 慧斗に対して感情を顕にする紅龍を前に、慧斗の肩がビクリと震える。
 威圧を浴びているわけではないのに、峯浦に迫られた時よりも恐怖を覚える。

「おまえは俺のこれまでの言葉を理解して考えてきたか? 俺はおまえ以外のオメガを番にする気持ちはこれっぽちもないし、ましてやこんな事くらいでおまえから離れようなんて思ってない! いつまでも箱庭の中に逃げ続けるのもいい加減にしろ!」
「はこ……に、わ」

 紅龍の言っていることは正しい。
 両親にオメガだからと捨てるように祖母の家に置かれ、厳しかったものの祖母は慧斗を温かく包んで育ててくれた。祖母が亡くなり、今度は玲司の保護下に置かれ、曇りない愛情を向けてくれる紅音がいて。慧斗がオメガだからと否定しない周りの人がいて、自分はそこで安心して過ごせばいいと。それが紅龍の言う逃げだというのなら間違っていない。
 紅龍が現れるまでは、とても穏やかで普通の日常だった。
 紅音がいて、贅沢はできないけども、笑って過ごしていた。
 それが紅龍が慧斗の前に現れ、このまま続くと思われていた日常が壊れた。
 平穏を壊されたくなくて、慧斗は紅龍を拒否したはずなのに、番の本能が紅龍を求めていた。

「俺じゃだめか? 俺ではおまえと紅音を守る価値もない男か?」

 そんなことない。紅龍はたった短い時間でも惹かれ、彼のためを思って身を引いたほど大切な存在だ。だからこそ、こんな平凡ななんにもない自分の傍にいていい人間ではないと理解もしている。
 それこそ彼の言う箱庭だ。慧斗の夢が詰まった小さな場所。
 夕暮れにふたりで縁側に座って、特になにも話さず、時折麦茶の入ったグラスが氷と触れ合ってカラリと鳴る。遠くでは神社の大木にしがみついて短い生を叫ぶ蝉の声とそよぐぬるい夏の風。慧斗にとって、紅龍の匂いと存在が、これ以上にない宝物だと感じた。
 たとえそこが自分の作り上げた箱庭でも、永遠に続けばいいと願っていたのだ。
 同時に彼はいつまでもこんな場所にいるべきではないと囁く。世界的に有名な俳優の番が、こんななにも持っていない子持ちのオメガであってはいけないと。
 自分は紅音さえいれば生きていける。きっと復活したヒートで地獄のような苦しみが続くけども、この短い思い出さえあれば乗り越えていける。
 だからこれからも世界を羽ばたいて欲しい。紅龍は大きな世界が似合うのだから。
 これまで何度も紅龍を引き離してしまおうと思った。その度に紅音の心情や紅龍が傷つくのを見たくなくて、開いた口を閉ざしてきたか。

「そんなこと……ないよ」

 慧斗が首を振って否定する。頬を濡らす涙が遠心力で空気に散る。
 何度も紅龍の手を振りほどかなくてはと自分に言い聞かせた。
 やはりどう自分で否定しても無理だった。自分は紅龍に対して特別な感情が芽生えつつあった。きっと紅龍が他のオメガと番になったら、自分は壊れてしまうほどに彼は特別だった。

「でも、紅龍と俺では住む世界が違いすぎる。知ってるんだ、紅龍が向こうの国でアルファの上位家系の子息だって。王子様が平民と結ばれるなんて、おとぎ話では当たり前でも、現実には無理だよ」
「それならおまえが現実のひとりになればいい。いや、そうじゃないな。俺がおまえたちと同じ位置に行けばいいんだ」
「え?」
「両親にはすでに撮影が終わっても国に帰らないことも、次期首領の立場も弟に譲渡する旨も、芸能活動も縮小することも話してある。慧斗が望むなら、王紅龍ではなく御崎紅龍になってもいい。だから、おまえの口からこれ以上俺を否定する言葉を告げないでくれ」
「弟……?」
「ああ、まだ十五だけど俺と同じ教育は受けてきた。首領は俺でなくても問題ない。それならただの王紅龍として、お前と一緒に紅音の成長を見守ることは可能じゃないか」

 あまりの情報量に慧斗は持っていた祖母の服をギュッと掴む。
 今の紅龍の言葉は夢ではないのか。自分の脳が都合のいいものへ変換しているのではないのか。
 雲上の紅龍が自分のために地上に降りてくれると? 本当に?
 濡れた琥珀の双眸がパチパチと瞬くと、涙がポロリポロリと頬を転がっていく。

「しんじて……いいの?」

 ほとほと涙を流しながら慧斗は輪郭が滲んだ紅龍へと問う。

「その覚悟で今回弐本に来て、おまえの前に現れた。もしおまえが嫌なら戸籍をわけてもいい。だが、頼む。俺にいままで守れなかった分だけおまえを……慧斗と紅音を守らせてくれないか」

 もう自分に嘘をつくのは無理だ、と慧斗は悟る。あれから時間が経ち存在だけとなったうなじの傷が『ごまかすのはやめろ』と微かに疼く。紅龍は慧斗の番で離れることは足掻いても無理なのだと。

「うん。まだ戸籍とか言われても困るけど、俺と紅音の傍にいてほしい……」

 縋るような声をこぼせば、強く抱きしめられる腕の強さに吐息が漏れる。
 あぁ、紅龍の甘くて苦い香りが近い。心の底から安心できるのが自分でもわかる。
 ほっとできるような紅龍の体温を感じながら、これまで緊張状態だった慧斗の意識は糸が切れたようにふつりと落ちていった。
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