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その後の日々
雨降って地固まる (紅龍視点)
「復職する? 本気で言っているのか?」
「俺が冗談を言うとでも思っているのか?」
世間も周囲も落ち着きだした十月のある日、番で伴侶の慧斗が以前勤めていた、白糸教授の秘書業務に戻ると宣言してきた。
「反対だ。自覚しているのか? 今、自分が子どもを宿している状態だっていうのを」
映画完成パーティーで、慧斗の姉が起こしたヒートテロにより、慧斗は発情状態となった。
そこで六年越しに本当の意味で番となった慧斗は、凛からの診断により懐妊が判明。今、慧斗のお腹に紅音の弟か妹を宿している。
そんな普通とは違う体で、慧斗が職場復帰を告げてきたのだ。心配しないほうがおかしい。
「分かってる。でも、紅音を妊娠中も出産ギリギリまで働いてたんだし、今回も大丈夫だから」
「前はたまたま運が良かっただけの話だ。それに今回は双子を妊娠しているんだ。絶対的に前と状況が違うだろうが」
紅龍の言葉に慧斗はグッと言葉を詰まらせる。内心で、そこは自覚してくれてる事に紅龍は安堵していた。
「で、でも、出産費用とか稼ぎたいし……」
「それは俺が全部出すって言ってる。だから、慧斗はできるなら退職して、子育てに専念して欲しいんだ」
それこそ慧斗には家から一歩も出ず、自分の傍で安心して出産に臨んでほしいとさえ思っている。
しかし、紅龍の説得内容に不服があるのか、慧斗はキロリと紅龍を睨んだ。
「ねえ、それって俺は紅龍に寄生して生きろって、言ってるの分かってる?」
「寄生? 別に俺はそんな意味で言ったんじゃ」
「いいや、そう聞こえた。俺は紅音を自分で働いたお金で養ってきた。紅龍と伴侶になったからといって、紅龍のお金に依存するつもりはないから」
「別に依存しろなんて言っていない。ただ、俺は慧斗が心配だから、」
「もういい。今日はこのまま紅音の迎えに行って、お義父さんたちの家に泊めてもらうから」
ガタンと椅子を倒す勢いで立ち上がった慧斗は、ダイニングを出て行くと寝室に入っていった。
紅龍が呆けている間に、慧斗は大きなトートバッグを肩に掛けて寝室から出てくると、紅龍を一瞥して玄関へと大股で歩いて行った。
ようやく紅龍が我に返ったのは、小さなドアが完全に締まる音が聞こえた時だ。
すぐさま慧斗のスマートフォンに通話を架けるも、今の慧斗の心情を示すように電話が繋がることはなかった。
「それは慧斗君が怒るのも無理はありませんね」
カウンター越しにグラスを拭きながら、悪友で慧斗の元後見人で義理の兄となった、寒川玲司が淡々と紅龍に言葉の刃を突き立てた。
場所は玲司の店『La maison』。
愚痴を聞いてもらおうと玲司に連絡を入れたら、「今日は絶対紅龍を俺の所に来ないようにして欲しい」と慧斗から先手を打たれ、半ば強制的に店に来るように告げられた。
元々、今日の営業はカフェだけの時間帯だけだったようで、店に入った途端「人の家庭にまで問題を持ち込まないでいただけますか」と、開口一番に口撃を食らった。
そこから言葉の弾丸が紅龍に打ち込まれ、紅龍は満身創痍だ。
「考えてもみなさい。もし、自分が自分より立場や権威が上の人間に、『金をやるからペットのように従順になれ』って言われてどう思います?」
「……いい気はしないな」
そうでしょ? と目を眇めて見下ろす玲司の視線から逃げるように、紅龍は丸い氷が浮かぶウイスキーを喉に流し込んだ。燃えるような刺激が胃の腑に落ちていくのを感じる。
慧斗の言い分は理解できる。
彼にはこれまでひとりで紅音を育ててきたというプライドがあるのだろう。
それについては、紅龍自身が猛省することであって、口出しすることはしない。
だけど、今回はひとりでも大変な妊娠期間を、ふたり分お腹に抱えて生活しなくてはならないのだ。尚且つ紅音の面倒も加わるわけで、それだけでも十分な負担になっているだろう。
そこに仕事なんてした場合、何があるかも分からないのだ。
「でも」
「でも、なんです?」
「慧斗は多胎によるリスクを理解していない」
「まるで自分は理解しているって言い方ですね」
たぶん、当の慧斗よりは、理解をしていると言いたかったが、喉の奥に戻した。
紅音の妊娠時期には安定期があっただろうが、双子の妊娠には安定期というのがほぼないと言われている。
妊娠中の糖尿病や高血圧、切迫早産など慧斗の負担が大きい。妊娠後期ともなれば、紅音を妊娠していた頃より体力の疲労も大きくなるし、入院のリスクも高くなる。
まだ慧斗が何もない健康体であれば、ここまで心配はしなかっただろう。
しかし、約一年前の事件で一時期は昏睡状態となり、リハビリ途中にあのヒートテロ事件が起こった。完全に元の体に戻ったとは言い切れない慧斗の職場復帰を止めるのは当然だった。
諸々言いたいことはあったが、番を囲いきった玲司に、何を言っても暖簾に腕押しだろう。それに義兄という立場上、身内に味方するのも分かりきっている。
「ただ、俺は慧斗が心配なんだ。たまに立ちくらみで辛そうな顔をしているのを見ると、何もしてやれない自分が嫌になる」
「それは紅龍だけでなく、番を持った男アルファが皆思う感情ですよ」
「変われるものなら変わってやりたいんだ」
「凛が、アルファでも妊娠できるかもしれないって薬を、兄の会社の薬剤開発部で開発しているって聞きましたよ。検体になってみては?」
「茶化すな」
グラスを傾け最後まで飲みきると、玲司から「いいワインがありますが飲みますか?」と聞いてきたので頷いて返す。今日は素面でいるのは無理だ。
カウンターに伏せた目の前のフルートグラスに、注がれる不思議な色のスパークリングワインが、シュワシュワと炭酸が弾ける音が耳に心地が良い。
「これ、葡萄色というより紫に見えるが……」
「ええ、オーストリア産のスパークリングワインです。酸化防止剤の代わりにチョウマメという植物を使用した所、この色が偶然生まれたという逸話があるんです」
「チョウマメ?」
「ハーブとしてもうちでも取り扱ってますよ。バタフライピーというハーブティーで」
紅龍は口の中でバタフライピーと呟き、以前、慧斗が玲司の番である桔梗からもらったというハーブティーの事を思い出した。
「蝶豆花茶か……」
「紅龍の国ではそう呼んでますね。単体では青い綺麗な水色のお茶ですよ。レモンを入れると、鮮やかなピンクになります。うちの店でも人気のある商品です」
ふうん、と玲司の言葉を聞き流し、グラスのステムを摘んで持ち上げる。弾ける泡の下に透き通る紫の中で水泡が昇っている。ぼんやりと眺めながら「綺麗だな」と言葉が溢れていた。
「このワイン、最愛の奥方のために酸化防止剤を使用しないで作れないかと、考えられたのが発端なんですよ」
「へえ」
「愛情って、相手が喜ぶことが機動力になるんでしょうね」
相手が喜ぶこと。
自分が慧斗のことを思っていることが空回りしているのに気づいていた。
だけどどうしても焦りを覚えてしまうのだ。
「玲司はいいよな。桔梗君とは、すぐに番になって、その後はずっと一緒にいるんだろう?」
ただの当てこすりだと分かっている。だけど、言わずにいれないのは、アルコールで唯が外れているせいだ。
「……それがいいかどうかは、人それぞれじゃないですか?」
ポツリと水滴が落ちるような静かな声に、紅龍は伏せていた顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「人の幸せなんて、一方面でははかれないって話です」
玲司も玲司で自分が知らないだけで、桔梗との関係について色々あったのだろう。自分が失言してしまった事に気づいたが、紅龍は泡が弾けるワインをグッと飲み込んだ。
憂いも不安もワインで流しきれればいいのに、と紅龍は思う。それからゆっくりとグラスを傾ける悪友の悩みも。
ふたりだけの酒宴は夜更けまで続いたのだった。
──紅龍。
「……ん」
――紅龍、起きて。
肩を揺さぶられ深く沈んでいた意識が、昨日飲んだ紫色のスパークリングワインの泡のように浮かび上がる。
あのワインの酸化防腐剤に蝶豆が使われてると聞いた時、以前慧斗にプレゼントしたネックレスに嵌め込んだ暁色の石を思い出した。
蝶豆花茶は酸性の物を入れると鮮やかなピンク色となる。
それは、あの石の名前にある睡蓮を連想させた。
(ああ……そうだ。あの時から、俺は慧斗にあの睡蓮の石をネックレスではなく、慧斗の細い左薬指を飾る指輪で贈りたかったんだ)
「紅龍! こんな所で寝てたら、風邪をひくよ!?」
「っ!?」
耳元で叫ばれた大きな声で、紅龍は眠りと覚醒の狭間を漂っていた意識が、現実へと引き戻される。バチリと音を立てて目を開いた先には、怒っているようで困ったような顔をした慧斗が覗き込んでいた。
「け……慧斗?」
自分は確か玲司の店にいたはずだとか、どうしてここに慧斗がいるんだとか、寝起きの頭で考えるも一向にまとまらない。
「どうして……」
疑問だらけになりながら半身を起こすと、肩にかかっていたらしい毛布が滑り、床に落ちる。
「玲司さんが連絡してくれたんだ。紅龍が店でクダ巻いてるって」
「あいつ……」
床に落ちた毛布へ手を伸ばして説明してくれる慧斗に、紅龍は渋面を作ったものの、身重の慧斗にしゃがませていると気づいて慌てて椅子から降りる。
「慧斗、お腹に障るから、拾わなくてもいい」
「……うん」
いつもなら牙をむく筈の慧斗が、紅龍の言葉に反論するなく背筋を伸ばし、カウンターに並ぶスツールに腰を掛けようとした。
「この椅子だと、腰が痛くなるんじゃないか? こっちのソファーに移動しよう」
「それはいいけど、玲司さんに文句言われるよ」
紅龍が差し出した手の上に掌を重ねる慧斗が、困ったように笑って告げた。
「あとで説明しておくから問題ないだろう。それに、元々可愛がってる義弟の体が大事と、賛成してくれるはずだ」
「そうかな……」
元後見人で、現在は寒川家の四男となった慧斗を、玲司が咎めることはないだろう。スツールに座らせたなんて知られたら、逆に紅龍を説教してくるに違いない。
玲司は番である桔梗とは違うベクトルで、慧斗のことを溺愛しているのを知っている。
そうでなければ、親友とも言える紅龍に五年もの間、慧斗の存在を隠し通すなんてしない。
そうかな? と首を傾げる慧斗が愛おしくて、腰に腕を回してゆっくりとソファー席へと歩いて行った。
窓に視線を向けると、紅龍が寝ている間に下ろしたらしいロールカーテンの向こうは、ほんのりと外灯の灯りが浮かぶ様子に今が夜だと感じた。
店内もメインライトを落としているせいか、間接照明の仄かな光が慧斗の横顔を淡く照らしていた。
もうじき三十になろうというのに、その横顔は若々しくどこかあどけない。
二十代前半で妊娠と出産を経験し、ひとりで子育てしてきた。そして今はふたつの命を宿している。周囲の助けはあっただろうが、その苦労は想像にかたくない。
「紅龍はどうしている?」
「今はお義父さんたちの家で寝てる。もう結構な深夜だからね」
「そ、そうか。飲みすぎて寝ちゃったから……」
「うん、少しアルコールの匂いがするね」
「ごめん」
少し体を伸ばして自分の傍でクンクンと匂いを嗅ぐ慧斗。そんな可愛い行動をされて、紅龍の心臓は高く跳ねる。まるで中学生のガキのようだ。
不意に謝罪を告げたことに、慧斗は紅龍のすぐ近くで、キョトンと目を瞬かせていた。
「なにが?」
「その……慧斗の意思を無視して、復職に反対したこと、とか」
「あー、その事か」
人差し指で鼻先を掻く慧斗は、眉尻を下げて笑ったあと、何故か紅龍に深々と頭を下げたのである。
「え? 慧斗?」
「紅龍が俺の体を心配して、色々言ってくれるのはありがたい。正直、俺、焦っていたんだと思う。紅龍は俳優で、俺が想像つかないくらいお金を稼いでいて、自分が閉じ込められている気がしたんだ。それに、子どもの事も。お義母さんから教えてもらった。双子を妊娠しているリスクとか、大変さとか。あんなに紅龍が心配してくれたって、やっと気づいたんだ」
俯いたまま立て板に水の如く反省を話す慧斗の姿に、紅龍はなんて言ったらいいのか分からず、呆けたまま見下ろしていた。
「だから、仕事を辞めようかと思う」
「え?」
「引き継ぎが終わり次第になるけど、それまでは仕事を許して欲しいんだ」
矢継ぎ早に告げられる慧斗の決意を聞いた紅龍は、ちょっと待て、と慧斗の言葉をせき止める。
「紅龍?」
「俺も考えたんだ。プライドを持ってやっている仕事を、俺が勝手に決めていいのかって。だから、慧斗が満足するまで続ければいい。ちゃんと俺もバックアップしていくから」
「紅龍……ありがとう……」
震える慧斗の肩をそっと抱き寄せる。
慧斗だって色々悩んでいたのだろう。
己の子を孕む愛おしい番の背中を撫でながら「愛してる」と囁く。
そして、最愛の人に、これからもずっと一緒にいる約束を送ろうと、心に決めた。
次はちゃんと慧斗と話した上で――
【完】
「俺が冗談を言うとでも思っているのか?」
世間も周囲も落ち着きだした十月のある日、番で伴侶の慧斗が以前勤めていた、白糸教授の秘書業務に戻ると宣言してきた。
「反対だ。自覚しているのか? 今、自分が子どもを宿している状態だっていうのを」
映画完成パーティーで、慧斗の姉が起こしたヒートテロにより、慧斗は発情状態となった。
そこで六年越しに本当の意味で番となった慧斗は、凛からの診断により懐妊が判明。今、慧斗のお腹に紅音の弟か妹を宿している。
そんな普通とは違う体で、慧斗が職場復帰を告げてきたのだ。心配しないほうがおかしい。
「分かってる。でも、紅音を妊娠中も出産ギリギリまで働いてたんだし、今回も大丈夫だから」
「前はたまたま運が良かっただけの話だ。それに今回は双子を妊娠しているんだ。絶対的に前と状況が違うだろうが」
紅龍の言葉に慧斗はグッと言葉を詰まらせる。内心で、そこは自覚してくれてる事に紅龍は安堵していた。
「で、でも、出産費用とか稼ぎたいし……」
「それは俺が全部出すって言ってる。だから、慧斗はできるなら退職して、子育てに専念して欲しいんだ」
それこそ慧斗には家から一歩も出ず、自分の傍で安心して出産に臨んでほしいとさえ思っている。
しかし、紅龍の説得内容に不服があるのか、慧斗はキロリと紅龍を睨んだ。
「ねえ、それって俺は紅龍に寄生して生きろって、言ってるの分かってる?」
「寄生? 別に俺はそんな意味で言ったんじゃ」
「いいや、そう聞こえた。俺は紅音を自分で働いたお金で養ってきた。紅龍と伴侶になったからといって、紅龍のお金に依存するつもりはないから」
「別に依存しろなんて言っていない。ただ、俺は慧斗が心配だから、」
「もういい。今日はこのまま紅音の迎えに行って、お義父さんたちの家に泊めてもらうから」
ガタンと椅子を倒す勢いで立ち上がった慧斗は、ダイニングを出て行くと寝室に入っていった。
紅龍が呆けている間に、慧斗は大きなトートバッグを肩に掛けて寝室から出てくると、紅龍を一瞥して玄関へと大股で歩いて行った。
ようやく紅龍が我に返ったのは、小さなドアが完全に締まる音が聞こえた時だ。
すぐさま慧斗のスマートフォンに通話を架けるも、今の慧斗の心情を示すように電話が繋がることはなかった。
「それは慧斗君が怒るのも無理はありませんね」
カウンター越しにグラスを拭きながら、悪友で慧斗の元後見人で義理の兄となった、寒川玲司が淡々と紅龍に言葉の刃を突き立てた。
場所は玲司の店『La maison』。
愚痴を聞いてもらおうと玲司に連絡を入れたら、「今日は絶対紅龍を俺の所に来ないようにして欲しい」と慧斗から先手を打たれ、半ば強制的に店に来るように告げられた。
元々、今日の営業はカフェだけの時間帯だけだったようで、店に入った途端「人の家庭にまで問題を持ち込まないでいただけますか」と、開口一番に口撃を食らった。
そこから言葉の弾丸が紅龍に打ち込まれ、紅龍は満身創痍だ。
「考えてもみなさい。もし、自分が自分より立場や権威が上の人間に、『金をやるからペットのように従順になれ』って言われてどう思います?」
「……いい気はしないな」
そうでしょ? と目を眇めて見下ろす玲司の視線から逃げるように、紅龍は丸い氷が浮かぶウイスキーを喉に流し込んだ。燃えるような刺激が胃の腑に落ちていくのを感じる。
慧斗の言い分は理解できる。
彼にはこれまでひとりで紅音を育ててきたというプライドがあるのだろう。
それについては、紅龍自身が猛省することであって、口出しすることはしない。
だけど、今回はひとりでも大変な妊娠期間を、ふたり分お腹に抱えて生活しなくてはならないのだ。尚且つ紅音の面倒も加わるわけで、それだけでも十分な負担になっているだろう。
そこに仕事なんてした場合、何があるかも分からないのだ。
「でも」
「でも、なんです?」
「慧斗は多胎によるリスクを理解していない」
「まるで自分は理解しているって言い方ですね」
たぶん、当の慧斗よりは、理解をしていると言いたかったが、喉の奥に戻した。
紅音の妊娠時期には安定期があっただろうが、双子の妊娠には安定期というのがほぼないと言われている。
妊娠中の糖尿病や高血圧、切迫早産など慧斗の負担が大きい。妊娠後期ともなれば、紅音を妊娠していた頃より体力の疲労も大きくなるし、入院のリスクも高くなる。
まだ慧斗が何もない健康体であれば、ここまで心配はしなかっただろう。
しかし、約一年前の事件で一時期は昏睡状態となり、リハビリ途中にあのヒートテロ事件が起こった。完全に元の体に戻ったとは言い切れない慧斗の職場復帰を止めるのは当然だった。
諸々言いたいことはあったが、番を囲いきった玲司に、何を言っても暖簾に腕押しだろう。それに義兄という立場上、身内に味方するのも分かりきっている。
「ただ、俺は慧斗が心配なんだ。たまに立ちくらみで辛そうな顔をしているのを見ると、何もしてやれない自分が嫌になる」
「それは紅龍だけでなく、番を持った男アルファが皆思う感情ですよ」
「変われるものなら変わってやりたいんだ」
「凛が、アルファでも妊娠できるかもしれないって薬を、兄の会社の薬剤開発部で開発しているって聞きましたよ。検体になってみては?」
「茶化すな」
グラスを傾け最後まで飲みきると、玲司から「いいワインがありますが飲みますか?」と聞いてきたので頷いて返す。今日は素面でいるのは無理だ。
カウンターに伏せた目の前のフルートグラスに、注がれる不思議な色のスパークリングワインが、シュワシュワと炭酸が弾ける音が耳に心地が良い。
「これ、葡萄色というより紫に見えるが……」
「ええ、オーストリア産のスパークリングワインです。酸化防止剤の代わりにチョウマメという植物を使用した所、この色が偶然生まれたという逸話があるんです」
「チョウマメ?」
「ハーブとしてもうちでも取り扱ってますよ。バタフライピーというハーブティーで」
紅龍は口の中でバタフライピーと呟き、以前、慧斗が玲司の番である桔梗からもらったというハーブティーの事を思い出した。
「蝶豆花茶か……」
「紅龍の国ではそう呼んでますね。単体では青い綺麗な水色のお茶ですよ。レモンを入れると、鮮やかなピンクになります。うちの店でも人気のある商品です」
ふうん、と玲司の言葉を聞き流し、グラスのステムを摘んで持ち上げる。弾ける泡の下に透き通る紫の中で水泡が昇っている。ぼんやりと眺めながら「綺麗だな」と言葉が溢れていた。
「このワイン、最愛の奥方のために酸化防止剤を使用しないで作れないかと、考えられたのが発端なんですよ」
「へえ」
「愛情って、相手が喜ぶことが機動力になるんでしょうね」
相手が喜ぶこと。
自分が慧斗のことを思っていることが空回りしているのに気づいていた。
だけどどうしても焦りを覚えてしまうのだ。
「玲司はいいよな。桔梗君とは、すぐに番になって、その後はずっと一緒にいるんだろう?」
ただの当てこすりだと分かっている。だけど、言わずにいれないのは、アルコールで唯が外れているせいだ。
「……それがいいかどうかは、人それぞれじゃないですか?」
ポツリと水滴が落ちるような静かな声に、紅龍は伏せていた顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「人の幸せなんて、一方面でははかれないって話です」
玲司も玲司で自分が知らないだけで、桔梗との関係について色々あったのだろう。自分が失言してしまった事に気づいたが、紅龍は泡が弾けるワインをグッと飲み込んだ。
憂いも不安もワインで流しきれればいいのに、と紅龍は思う。それからゆっくりとグラスを傾ける悪友の悩みも。
ふたりだけの酒宴は夜更けまで続いたのだった。
──紅龍。
「……ん」
――紅龍、起きて。
肩を揺さぶられ深く沈んでいた意識が、昨日飲んだ紫色のスパークリングワインの泡のように浮かび上がる。
あのワインの酸化防腐剤に蝶豆が使われてると聞いた時、以前慧斗にプレゼントしたネックレスに嵌め込んだ暁色の石を思い出した。
蝶豆花茶は酸性の物を入れると鮮やかなピンク色となる。
それは、あの石の名前にある睡蓮を連想させた。
(ああ……そうだ。あの時から、俺は慧斗にあの睡蓮の石をネックレスではなく、慧斗の細い左薬指を飾る指輪で贈りたかったんだ)
「紅龍! こんな所で寝てたら、風邪をひくよ!?」
「っ!?」
耳元で叫ばれた大きな声で、紅龍は眠りと覚醒の狭間を漂っていた意識が、現実へと引き戻される。バチリと音を立てて目を開いた先には、怒っているようで困ったような顔をした慧斗が覗き込んでいた。
「け……慧斗?」
自分は確か玲司の店にいたはずだとか、どうしてここに慧斗がいるんだとか、寝起きの頭で考えるも一向にまとまらない。
「どうして……」
疑問だらけになりながら半身を起こすと、肩にかかっていたらしい毛布が滑り、床に落ちる。
「玲司さんが連絡してくれたんだ。紅龍が店でクダ巻いてるって」
「あいつ……」
床に落ちた毛布へ手を伸ばして説明してくれる慧斗に、紅龍は渋面を作ったものの、身重の慧斗にしゃがませていると気づいて慌てて椅子から降りる。
「慧斗、お腹に障るから、拾わなくてもいい」
「……うん」
いつもなら牙をむく筈の慧斗が、紅龍の言葉に反論するなく背筋を伸ばし、カウンターに並ぶスツールに腰を掛けようとした。
「この椅子だと、腰が痛くなるんじゃないか? こっちのソファーに移動しよう」
「それはいいけど、玲司さんに文句言われるよ」
紅龍が差し出した手の上に掌を重ねる慧斗が、困ったように笑って告げた。
「あとで説明しておくから問題ないだろう。それに、元々可愛がってる義弟の体が大事と、賛成してくれるはずだ」
「そうかな……」
元後見人で、現在は寒川家の四男となった慧斗を、玲司が咎めることはないだろう。スツールに座らせたなんて知られたら、逆に紅龍を説教してくるに違いない。
玲司は番である桔梗とは違うベクトルで、慧斗のことを溺愛しているのを知っている。
そうでなければ、親友とも言える紅龍に五年もの間、慧斗の存在を隠し通すなんてしない。
そうかな? と首を傾げる慧斗が愛おしくて、腰に腕を回してゆっくりとソファー席へと歩いて行った。
窓に視線を向けると、紅龍が寝ている間に下ろしたらしいロールカーテンの向こうは、ほんのりと外灯の灯りが浮かぶ様子に今が夜だと感じた。
店内もメインライトを落としているせいか、間接照明の仄かな光が慧斗の横顔を淡く照らしていた。
もうじき三十になろうというのに、その横顔は若々しくどこかあどけない。
二十代前半で妊娠と出産を経験し、ひとりで子育てしてきた。そして今はふたつの命を宿している。周囲の助けはあっただろうが、その苦労は想像にかたくない。
「紅龍はどうしている?」
「今はお義父さんたちの家で寝てる。もう結構な深夜だからね」
「そ、そうか。飲みすぎて寝ちゃったから……」
「うん、少しアルコールの匂いがするね」
「ごめん」
少し体を伸ばして自分の傍でクンクンと匂いを嗅ぐ慧斗。そんな可愛い行動をされて、紅龍の心臓は高く跳ねる。まるで中学生のガキのようだ。
不意に謝罪を告げたことに、慧斗は紅龍のすぐ近くで、キョトンと目を瞬かせていた。
「なにが?」
「その……慧斗の意思を無視して、復職に反対したこと、とか」
「あー、その事か」
人差し指で鼻先を掻く慧斗は、眉尻を下げて笑ったあと、何故か紅龍に深々と頭を下げたのである。
「え? 慧斗?」
「紅龍が俺の体を心配して、色々言ってくれるのはありがたい。正直、俺、焦っていたんだと思う。紅龍は俳優で、俺が想像つかないくらいお金を稼いでいて、自分が閉じ込められている気がしたんだ。それに、子どもの事も。お義母さんから教えてもらった。双子を妊娠しているリスクとか、大変さとか。あんなに紅龍が心配してくれたって、やっと気づいたんだ」
俯いたまま立て板に水の如く反省を話す慧斗の姿に、紅龍はなんて言ったらいいのか分からず、呆けたまま見下ろしていた。
「だから、仕事を辞めようかと思う」
「え?」
「引き継ぎが終わり次第になるけど、それまでは仕事を許して欲しいんだ」
矢継ぎ早に告げられる慧斗の決意を聞いた紅龍は、ちょっと待て、と慧斗の言葉をせき止める。
「紅龍?」
「俺も考えたんだ。プライドを持ってやっている仕事を、俺が勝手に決めていいのかって。だから、慧斗が満足するまで続ければいい。ちゃんと俺もバックアップしていくから」
「紅龍……ありがとう……」
震える慧斗の肩をそっと抱き寄せる。
慧斗だって色々悩んでいたのだろう。
己の子を孕む愛おしい番の背中を撫でながら「愛してる」と囁く。
そして、最愛の人に、これからもずっと一緒にいる約束を送ろうと、心に決めた。
次はちゃんと慧斗と話した上で――
【完】
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