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第三章 奇襲
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辺りは闇に包まれている。今夜は新月のため、月明かりもない。
けれども、この道は獣道。何度も夜中の訓練で行き来してきたから、音も気配も消して動く事が出来る。
ずっと闇の中にいると夜目にも馴れてくる。二人は闇の中で耳を研ぎ澄ます。音を聞き分けているのだ。ノアーサはいつでも弓が引けるように、背中に背負った矢筒に手を伸ばし、一本の矢を手に取った。
無理に放てば場所を教えるようなものだ。じっと息を潜めて、周りの様子を探る。話し声からして、タルタハの言語ではない。村から逃げて来た一般人にしては脅えている様子もない。
「恐らく、タルタハに雇われた傭兵だろう」
ノアーサの耳もとでカノイが呟く。そう言って地面にあった握り拳くらいの石を握る。
「ノアーサ。同情は禁物。殺られる前に殺る。いいね」
手にした石を傭兵のいる木の近くへとぶつけた。木が揺れて、葉が落ちる。
その音に数人が振り返り、弓や剣を手にした人たちが数人、自分たちがいる繁みの方に入ってゆく。
ノアーサが素早く弓を引いた。その早さは瞬きする間もなく、向かってくる傭兵の喉や額を一撃する。
何事かと、駆け寄る傭兵たちに次々と矢を放ち、すべて一撃で殺傷させた。
人の話し声、足音のする方向、耳を便りに矢を放った。それがすべて命中している。
しばらくすると、周りに人の気配もなくなった。
「お見事」
「そういう貴方は、何もしてないじゃない」
「僕は、接近戦と君の護衛担当なので」
そう、呟くが早いか、カノイは短刀をノアーサの後方に投げつける。後方にいた相手の脛動脈を短刀が掠め、大量の血が流れて倒れた。
「油断大敵だよ。ノアーサ」
そう言って、二人は背中合わせに、立ち、辺りを伺った。
人らしい気配が消えた。この場所だけで、三十人はいただろうか、とりあえずこの場所から離れて約束の滝までは少し進めそうだ。獣道を通りながら、目的地を目指した。
※
二人は気配を消しながら、獣道を進む。今夜は雨も降っていないので、濡れる心配もない。夜営も天候で左右される。どしゃ降りの時は、ずぶ濡れとなっても、歩き続けなくてはならない。雨の中の移動は体力を消耗し、精神的にも追い込まれる。そういう状況に陥っても、正しい判断や行動が出来るかを試された。それを何度も繰り返す中で、二人は共に助け合う絆が出来ている。
暫くすると、獣道は途切れ、河川沿いに出る。しかし、直ぐに出れば狙われる。警戒しながら、河川の方を伺った。
川のせせらぎと梟に獣の泣き声。鹿であろうか、川の向かい側から鳴き声が響く。空が明るくなっているように思えた。
夜明けにはまだ早すぎるのに、この明るさ。燃える炎の明るさと煙の匂い。嫌な予感を感じて、二人は村の方向に目を向けた。
二人が逃げて来た村が炎上している。ノアーサは警戒心を忘れて、村に走り出そうとした瞬間、カノイが背中から抱き締めるように押さえ付けた。
「行かせて。村には兄さんと義姉さんがいるの。二人に何かあったかも知れない」
彼女が声を張り上げそうになるので、カノイは彼女の口を手のひらで押さえた。
「約束しただろう。何があっても村へ戻るなと」
カノイはノアーサに小声で呟く。それでも、諦めきれないのか、彼女は彼の腕から逃げようとしていた。
「ノアーサ。良く聞いて。今、村に戻ったところで、君は何が出来る?今でさえ刺客に囲まれている状況で、走り出したら、村にたどり着く前に狙われて命は無いよ」
彼の言う通りではある。自分たちが今、置かれている状況は殺るか、殺られるかの瀬戸際にあるのだ。
彼女は彼の言葉に力を抜いた。もう、離しても走り出すことはしないだろう。
「そうよね。滝で落ち合う約束だった。きっと兄さんも義姉さんも無事に、滝に到着して」
そう言うと彼女は黙り込む。最悪の事態しか予想出来ない。だからといって元来た道を引き返せば命とりになる。
カノイは俯く彼女を胸にそっと抱き締めた。
彼女をそんな感じで胸に抱き寄せたのは三年前。自分の両親と彼女の母親の死を知らされた時。当時、十四歳。あの頃から、互いを意識し始めていた。体の成長と、価値観の違い、体力においても、すれ違いが生じてきて、あの頃はノアーサに上手く接する事が出来なくなって来ていた。
彼女の事は好きだし、互いに生きて行かなきゃならない同朋。そんな時、彼女の兄が婚約者と一緒に村に来てくれて、このまま一緒に住むようになる。
ノアーサの兄がカノイに教えてくれた事は、訓練や授業では学ばない、家庭という場所。人とのコミュニケーション。異性との接し方。当たり前だけど、相談にも乗ってくれた事でどれだけ自分が救われただろう。
『カノイ。女の子に気に入られたいなら、優しい言葉使いをしないと、嫌われるよ』
ノアーサの兄、ノルマンは思いやりのある、強くて優しい人だった。
村に来て、半年後、彼は婚約者のアンと結婚し、相思相愛の夫婦だった。
親を亡くしてしまったカノイにとって、彼女の兄夫婦は自分を家族として受け入れてくれた。
一緒に住むようになり、細やかだけど平凡な温もりある日常。あの時間は成長期の二人にはとても重要で理想の家族環境だったと思う。ずっとこの環境が続いてゆくのだと信じていたのに。
『お前たち。幸せになれよ』
数時間前のノルマン言葉が遠い昔の言葉のように思える。彼女を抱き締める腕に力が入る。彼女を今、ここで守ってやれるのはもう、自分しかいない。
カノイは彼女を強く抱き締めながら、小声で呟いた。
「僕たちは、何があっても生き残るよ。両親や家族の願いだったからね」
「私も無事、王都に着くまでは、死ぬ訳にはゆかない」
そう呟く二人は直ぐ様、背中合わせに武器を手にする。カノイは腰に指していた剣を抜いた。ノアーサは左右の太股のベルトに指していた短剣を抜いて両手に構えた。
「無事に目的地へは行かせて貰えないようね」
「それが、戦場さ。生き残るためには互いに死神にならないとね」
言うが早いか、向こうから剣や槍が向かって来る。甲冑の隙間を狙って、ノアーサは短剣を突き刺す。その動きは早く、両手を使うので、一度に二人は倒していた。
カノイも目の前に向かって来る敵を斬りつける。鎧の隙間を狙って殺傷し、時には飛んで来る矢の盾になるように射ぬかせて、絶命させたり、いつ刺したのか解らないくらいに、音もなく死んでしまった者もいるほどだ。
気がつけば、周りには遺体が転がっていた。
「まだ、油断は禁物よ。弓を持った奴が数人いる」
そう言うと、ノアーサは太股に巻いていた革の留め具に短剣をし舞い込んで、背中に背負っていた弓と矢を手にする。
矢の飛んできた方向に弓を構えた。じっと耳を澄ませる。川のせせらぎ。虫の鳴き声。獣や夜行性の鳥の鳴き声。
夜風に人間の気配を感じて、弓を引いた。繁みから人の倒れる音がする。続けて後方に一度に二本の矢を同時に放った。すると、二人の人間の倒れる音がする。
再び弓に矢をつけて、辺りを伺う。人の気配は感じない。梟の鳴き声が辺りに木霊する。
「逃げたか?」
人の気配を感じなくなって、ノアーサは弓を置き、地面に座り込む。
「殺気を感じたら、体が無意識に相手を攻撃している」
「確かに。僕たちは殺人兵器として育てられたからね。同情して殺られるくらいなら、感情は捨てた方がいい」
「争いなんて嫌いよ。今の王様が、私達の人生を狂わせた」
「でも、過ぎてしまった過去は変えられないだろう。考え方を変えれば、武器を操ること以外にも、僕は沢山の教養を身につけてくれた事に感謝するよ」
「貴方は何でもポジティブに物事を考えるのね」
「その方が、精神を傷つけないですむ」
「貴方のそういう所が好きよ」
そう言うとノアーサは弓を手にして立ち上がる。
「好きなら、そろそろ僕を受け入れてくれないかな?」
「キスならしたじゃない」
ノアーサと一瞬だが目が合う。最近、彼女が時折見せる表情に、可愛さの中に綺麗を含んでいる。彼女の母親はとても綺麗で上品な人だった。自分の母親とは親友で、子供ながらに何度か逢っていて記憶もある。そして、その母親が彼女をとても大切にしていたことも。
カノイはノアーサの腕を掴んで、自分の方へと引き寄せ一気に彼女の唇を奪う。舌が絡みつくような激しい接吻を彼女は拒否しなかった。暫くは二人だけの時間が流れる。
「少しは落ち着いた?」
長い接吻のあと、ノアーサは見上げるように彼を見つめた。
「ごめん。何だか理性が効かなくて」
「こんな状況で冷静でいられるなんて、正直無理よ。私も一人だったらきっと、生きてはいなかった」
自分と同じように、彼も人を殺めた事に恐怖を感じているのだ。暗殺者としては、まだまだ未熟者かも知れない。けれど、二人は感情を捨てることは出来ない。
「暫く、君をこうして抱き締めていたい」
二人は岩のある場所を背に座り込む。東の空がうっすらと明るくなって、夜明けも近い。
「少しの間だけならね」
彼の胸に身を預けると、耳もとに激しい心臓の鼓動が伝わる。きっと、自分が恐怖に怯えないようにと必死に冷静を保っていたのだろう。
初めて、この村に連れて来られた七歳の時も、彼は不安と孤独で泣いてばかりの自分を励ましてくれていた。
思春期の頃は、少し荒い所もあったけど、そこは兄が気づいて、何かと相談に乗ってくれていたようだ。彼の優しい語り方もそんな兄の指導のもとに、今の口調で収まったようだ。
「まだ、安心は出来ない。滝場に到着したからといって、迎えが来るまで待つ時間がある。その間をどう乗りきるかだね」
「こんなところで死にたくはない」
「同感だ。死んだら君を抱けないし、向こうに転がっている遺体のように哀れな骸を晒す事になる」
「この状況にあっても、私を抱く事を考えているの?」
「男の本能。生き残るには目的も必要だ。それが些細な目的だとしても。ノアーサ。僕らはもう、共犯者だね」
「そうね。生き残るための、正当防衛だったとしても、殺人を犯した事に代わりはないわ」
「それも、暗殺者として育てられた僕らの試練ではあるよね。ノアーサ。とにかく、二人して生き残ろう。生きて、我が家に帰るんだ」
二人は立ち上がると、川沿いに歩きだした。空が次第に明るくなってゆく。この川を下れば、約束の滝にたどり着ける。しかし、まだ油断は出来ない。警戒したまま二人は目的地を目指した。
けれども、この道は獣道。何度も夜中の訓練で行き来してきたから、音も気配も消して動く事が出来る。
ずっと闇の中にいると夜目にも馴れてくる。二人は闇の中で耳を研ぎ澄ます。音を聞き分けているのだ。ノアーサはいつでも弓が引けるように、背中に背負った矢筒に手を伸ばし、一本の矢を手に取った。
無理に放てば場所を教えるようなものだ。じっと息を潜めて、周りの様子を探る。話し声からして、タルタハの言語ではない。村から逃げて来た一般人にしては脅えている様子もない。
「恐らく、タルタハに雇われた傭兵だろう」
ノアーサの耳もとでカノイが呟く。そう言って地面にあった握り拳くらいの石を握る。
「ノアーサ。同情は禁物。殺られる前に殺る。いいね」
手にした石を傭兵のいる木の近くへとぶつけた。木が揺れて、葉が落ちる。
その音に数人が振り返り、弓や剣を手にした人たちが数人、自分たちがいる繁みの方に入ってゆく。
ノアーサが素早く弓を引いた。その早さは瞬きする間もなく、向かってくる傭兵の喉や額を一撃する。
何事かと、駆け寄る傭兵たちに次々と矢を放ち、すべて一撃で殺傷させた。
人の話し声、足音のする方向、耳を便りに矢を放った。それがすべて命中している。
しばらくすると、周りに人の気配もなくなった。
「お見事」
「そういう貴方は、何もしてないじゃない」
「僕は、接近戦と君の護衛担当なので」
そう、呟くが早いか、カノイは短刀をノアーサの後方に投げつける。後方にいた相手の脛動脈を短刀が掠め、大量の血が流れて倒れた。
「油断大敵だよ。ノアーサ」
そう言って、二人は背中合わせに、立ち、辺りを伺った。
人らしい気配が消えた。この場所だけで、三十人はいただろうか、とりあえずこの場所から離れて約束の滝までは少し進めそうだ。獣道を通りながら、目的地を目指した。
※
二人は気配を消しながら、獣道を進む。今夜は雨も降っていないので、濡れる心配もない。夜営も天候で左右される。どしゃ降りの時は、ずぶ濡れとなっても、歩き続けなくてはならない。雨の中の移動は体力を消耗し、精神的にも追い込まれる。そういう状況に陥っても、正しい判断や行動が出来るかを試された。それを何度も繰り返す中で、二人は共に助け合う絆が出来ている。
暫くすると、獣道は途切れ、河川沿いに出る。しかし、直ぐに出れば狙われる。警戒しながら、河川の方を伺った。
川のせせらぎと梟に獣の泣き声。鹿であろうか、川の向かい側から鳴き声が響く。空が明るくなっているように思えた。
夜明けにはまだ早すぎるのに、この明るさ。燃える炎の明るさと煙の匂い。嫌な予感を感じて、二人は村の方向に目を向けた。
二人が逃げて来た村が炎上している。ノアーサは警戒心を忘れて、村に走り出そうとした瞬間、カノイが背中から抱き締めるように押さえ付けた。
「行かせて。村には兄さんと義姉さんがいるの。二人に何かあったかも知れない」
彼女が声を張り上げそうになるので、カノイは彼女の口を手のひらで押さえた。
「約束しただろう。何があっても村へ戻るなと」
カノイはノアーサに小声で呟く。それでも、諦めきれないのか、彼女は彼の腕から逃げようとしていた。
「ノアーサ。良く聞いて。今、村に戻ったところで、君は何が出来る?今でさえ刺客に囲まれている状況で、走り出したら、村にたどり着く前に狙われて命は無いよ」
彼の言う通りではある。自分たちが今、置かれている状況は殺るか、殺られるかの瀬戸際にあるのだ。
彼女は彼の言葉に力を抜いた。もう、離しても走り出すことはしないだろう。
「そうよね。滝で落ち合う約束だった。きっと兄さんも義姉さんも無事に、滝に到着して」
そう言うと彼女は黙り込む。最悪の事態しか予想出来ない。だからといって元来た道を引き返せば命とりになる。
カノイは俯く彼女を胸にそっと抱き締めた。
彼女をそんな感じで胸に抱き寄せたのは三年前。自分の両親と彼女の母親の死を知らされた時。当時、十四歳。あの頃から、互いを意識し始めていた。体の成長と、価値観の違い、体力においても、すれ違いが生じてきて、あの頃はノアーサに上手く接する事が出来なくなって来ていた。
彼女の事は好きだし、互いに生きて行かなきゃならない同朋。そんな時、彼女の兄が婚約者と一緒に村に来てくれて、このまま一緒に住むようになる。
ノアーサの兄がカノイに教えてくれた事は、訓練や授業では学ばない、家庭という場所。人とのコミュニケーション。異性との接し方。当たり前だけど、相談にも乗ってくれた事でどれだけ自分が救われただろう。
『カノイ。女の子に気に入られたいなら、優しい言葉使いをしないと、嫌われるよ』
ノアーサの兄、ノルマンは思いやりのある、強くて優しい人だった。
村に来て、半年後、彼は婚約者のアンと結婚し、相思相愛の夫婦だった。
親を亡くしてしまったカノイにとって、彼女の兄夫婦は自分を家族として受け入れてくれた。
一緒に住むようになり、細やかだけど平凡な温もりある日常。あの時間は成長期の二人にはとても重要で理想の家族環境だったと思う。ずっとこの環境が続いてゆくのだと信じていたのに。
『お前たち。幸せになれよ』
数時間前のノルマン言葉が遠い昔の言葉のように思える。彼女を抱き締める腕に力が入る。彼女を今、ここで守ってやれるのはもう、自分しかいない。
カノイは彼女を強く抱き締めながら、小声で呟いた。
「僕たちは、何があっても生き残るよ。両親や家族の願いだったからね」
「私も無事、王都に着くまでは、死ぬ訳にはゆかない」
そう呟く二人は直ぐ様、背中合わせに武器を手にする。カノイは腰に指していた剣を抜いた。ノアーサは左右の太股のベルトに指していた短剣を抜いて両手に構えた。
「無事に目的地へは行かせて貰えないようね」
「それが、戦場さ。生き残るためには互いに死神にならないとね」
言うが早いか、向こうから剣や槍が向かって来る。甲冑の隙間を狙って、ノアーサは短剣を突き刺す。その動きは早く、両手を使うので、一度に二人は倒していた。
カノイも目の前に向かって来る敵を斬りつける。鎧の隙間を狙って殺傷し、時には飛んで来る矢の盾になるように射ぬかせて、絶命させたり、いつ刺したのか解らないくらいに、音もなく死んでしまった者もいるほどだ。
気がつけば、周りには遺体が転がっていた。
「まだ、油断は禁物よ。弓を持った奴が数人いる」
そう言うと、ノアーサは太股に巻いていた革の留め具に短剣をし舞い込んで、背中に背負っていた弓と矢を手にする。
矢の飛んできた方向に弓を構えた。じっと耳を澄ませる。川のせせらぎ。虫の鳴き声。獣や夜行性の鳥の鳴き声。
夜風に人間の気配を感じて、弓を引いた。繁みから人の倒れる音がする。続けて後方に一度に二本の矢を同時に放った。すると、二人の人間の倒れる音がする。
再び弓に矢をつけて、辺りを伺う。人の気配は感じない。梟の鳴き声が辺りに木霊する。
「逃げたか?」
人の気配を感じなくなって、ノアーサは弓を置き、地面に座り込む。
「殺気を感じたら、体が無意識に相手を攻撃している」
「確かに。僕たちは殺人兵器として育てられたからね。同情して殺られるくらいなら、感情は捨てた方がいい」
「争いなんて嫌いよ。今の王様が、私達の人生を狂わせた」
「でも、過ぎてしまった過去は変えられないだろう。考え方を変えれば、武器を操ること以外にも、僕は沢山の教養を身につけてくれた事に感謝するよ」
「貴方は何でもポジティブに物事を考えるのね」
「その方が、精神を傷つけないですむ」
「貴方のそういう所が好きよ」
そう言うとノアーサは弓を手にして立ち上がる。
「好きなら、そろそろ僕を受け入れてくれないかな?」
「キスならしたじゃない」
ノアーサと一瞬だが目が合う。最近、彼女が時折見せる表情に、可愛さの中に綺麗を含んでいる。彼女の母親はとても綺麗で上品な人だった。自分の母親とは親友で、子供ながらに何度か逢っていて記憶もある。そして、その母親が彼女をとても大切にしていたことも。
カノイはノアーサの腕を掴んで、自分の方へと引き寄せ一気に彼女の唇を奪う。舌が絡みつくような激しい接吻を彼女は拒否しなかった。暫くは二人だけの時間が流れる。
「少しは落ち着いた?」
長い接吻のあと、ノアーサは見上げるように彼を見つめた。
「ごめん。何だか理性が効かなくて」
「こんな状況で冷静でいられるなんて、正直無理よ。私も一人だったらきっと、生きてはいなかった」
自分と同じように、彼も人を殺めた事に恐怖を感じているのだ。暗殺者としては、まだまだ未熟者かも知れない。けれど、二人は感情を捨てることは出来ない。
「暫く、君をこうして抱き締めていたい」
二人は岩のある場所を背に座り込む。東の空がうっすらと明るくなって、夜明けも近い。
「少しの間だけならね」
彼の胸に身を預けると、耳もとに激しい心臓の鼓動が伝わる。きっと、自分が恐怖に怯えないようにと必死に冷静を保っていたのだろう。
初めて、この村に連れて来られた七歳の時も、彼は不安と孤独で泣いてばかりの自分を励ましてくれていた。
思春期の頃は、少し荒い所もあったけど、そこは兄が気づいて、何かと相談に乗ってくれていたようだ。彼の優しい語り方もそんな兄の指導のもとに、今の口調で収まったようだ。
「まだ、安心は出来ない。滝場に到着したからといって、迎えが来るまで待つ時間がある。その間をどう乗りきるかだね」
「こんなところで死にたくはない」
「同感だ。死んだら君を抱けないし、向こうに転がっている遺体のように哀れな骸を晒す事になる」
「この状況にあっても、私を抱く事を考えているの?」
「男の本能。生き残るには目的も必要だ。それが些細な目的だとしても。ノアーサ。僕らはもう、共犯者だね」
「そうね。生き残るための、正当防衛だったとしても、殺人を犯した事に代わりはないわ」
「それも、暗殺者として育てられた僕らの試練ではあるよね。ノアーサ。とにかく、二人して生き残ろう。生きて、我が家に帰るんだ」
二人は立ち上がると、川沿いに歩きだした。空が次第に明るくなってゆく。この川を下れば、約束の滝にたどり着ける。しかし、まだ油断は出来ない。警戒したまま二人は目的地を目指した。
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